血の夕陽、骨の鳴る音

安路 海途

1(きいちゃんのこと)

 子供の頃、ぼくはとても怖がりで、ちょっとした物音だとか、大きな黒い影だとかにいつも怯えていた。そういうものが今にも自分に襲いかかってきそうで、どうしても反応してしまうのだ。

 だから、きいちゃんと話をするようになった当初、ぼくは当然のようにきいちゃんのことを恐れた。何しろきいちゃんはぼくが怖がるのを知っているくせに、何かにつけて怖い話をしてくるからだ。

 ――例えば、体育でプールの授業があった日のこと。

 ぼくがクロールの息継ぎがうまくできず、不恰好に水しぶきを上げていると、きいちゃんは横から肩をつついて言うのだ。

「ねえ、よりくん。には近づかないほうがいいわよ」

 プールの底に足をつけて、ぼくはきいちゃんのほうを見る。鼻の奥が何だか塩素臭くて、つんと痛んだ。

「……どうして?」

 ぼくは鼻を押さえながら訊いた。

「昔、このプールの排水口に吸いこまれて、溺れ死んでしまった子がいるの」

 そう言われて、ぼくははじめて自分が排水口の真上にいることに気づく。プールのちょうど中央付近で、ぶ厚い鉄格子の蓋が足元にあった。

「――でもね、その子はまだ自分が死んだことに気づいていなくて、今でも助けを求めて手をのばしてくるの」

 ぼくは顔からさっと血の気が引いて、急いでその場を離れてしまう。そうしないと、今にも暗くて狭くて空気というもののない小さな管の中に、自分も引きずり込まれてしまいそうな気がして。

 きいちゃんの話が本当かどうかなんて関係がない。実際、怪しいものだと思う。でも、とにかくそうせざるをえないのだ。高いところから地面を見おろすと、自然と足がすくんでしまうみたいに。

 そんなぼくを見て、きいちゃんはいつも満足そうな笑顔を浮かべる。本当に、テストで百点でも取ったみたいに。

 ぼくとしては何がそんなに嬉しいのかわからないけれど、その笑顔のあとしばらくは、きいちゃんも怖い話をしなくなる。だから、とりあえずはほっとしてしまう。

 人によっては、そんなに怖い話が聞きたくないなら、耳を塞いでしまえばいいじゃないか、と思うかもしれない。けど、そんなのは無理だ。

 きいちゃんの話を聞かないよう、ぼくが必死になって手で耳を押さえたりしていると、きいちゃんは大抵にっこりと笑う。ごめんね、そんなに怖がらせるつもりじゃなかったんだよ、という感じで。

 それでぼくは、恐るおそる手を離してしまう。何しろその笑顔は、きいちゃんのことを疑っているのが恥ずかしくなってしまうような代物だったから。

「もう大丈夫よ、怖い話はしないから」

 と、きいちゃんは言う。ぼくは安心して、すっかり手を下ろしてしまう。

 すると、きいちゃんは言うのだ。

「そういえば、よりくん、知ってる? 夜中に明かりのない暗い部屋で鏡をのぞきこんじゃいけないんだよ。その鏡は異世界につながっていて、一度見たら最後、帰れなくなってしまうから」

 手で押さえるのは遅くて、ぼくはその話をばっちり聞いてしまう。記憶に刻みこまれた言葉は、忘れたいものほどかえって印象づけられてしまう。

 そんなわけで、ぼくはことあるごとにきいちゃんから怖い話を聞かされて過ごした。メリーさんの電話、トイレの花子さん、口裂け女といった有名な話から、たぶんきいちゃんがその場で思いついたありあわせの話まで。



 きいちゃんによれば、ぼくらの住んでいる町は怖いものや妖怪の類でいっぱいだった。例えば、道端に古びた公衆電話があれば、

「ここで秘密の電話番号にかけると、死者が電話口に現れるの。ただし、誰が出るかはわからないから、かけるときは慎重に」

 と、きいちゃんは言う。下水用のトンネルのそばを通れば、

「あの暗い場所には昔、生まれて間もない赤ん坊が捨てられたことがあって、その子は今もそこで生きているの」

 と囁くような声で言う。それから公園で青錆びた銅像を見れば、

「実はあれは殺された人を銅で固めたもので、その証拠に殺害された時刻になると血の涙を流すのよ」

 と、まことしやかに言う。

 とにかく、ちょっと変わったことがあると、きいちゃんはすぐに怖い話をはじめてしまう。

 ぼくはぼくで、あとで一人になったときに怖くなるのがわかっているのに、結局はその話を聞いてしまう。

 それはきいちゃんが無理にでも聞かせてくるというのもあるけれど、実際には好奇心からつい聞いてしまう、というところもあった。変な話だけど、需要と供給のバランスが取れていた、ということなのかもしれない。

 きいちゃんは怖がる人間を求めて、ぼくはその望みにおあつらえ向きだった。

 真っ赤な夕陽を見ると、きいちゃんは、

「あれは神様の首を刈ったときに血で赤く染まったの」

 と言う。道にあるレンガの敷石がぐらついて、がたがた音を立てると、

「これはこの下に埋められた骨が鳴ってる音なのよ」

 と、とても真剣な顔でつぶやく。

 そのたびに、ぼくはぞっとした顔をして、きいちゃんは満足そうな笑顔を浮かべてみせる。



 時々、ぼくはきいちゃんのことをとても変わっているな、と不思議に思うことがあった。

 普通ぼくらみたいな子供が怖い話をするとき、そこにはある決まった特徴がある。話しているほうにしてもそれを信じているような、疑いきれないような、そんな調子を捨てることができないのだ。たぶん、心のどこかではそんなことも起こりうるかもしれない、と思っているせいだろう。

 でもきいちゃんが怖い話をするとき、それはまるで違っている。きいちゃん自身はまったくその話を信じていないみたいだった。頭のよい子が教科書の先まで勉強していて、こんなことはもうすっかりわかっているのだけど、というふうに。

 そのくせ、きいちゃんは話の雰囲気にしたがって声を暗く潜めたり、突然わっと驚かせたりしてくる。きいちゃん自身は怖い話をしているつもりがないみたいなのに、ぼくだけがそれで怖い思いをしている。

 ほかにも、きいちゃんは変わっているな、と思うことがあった。

 普通、ぼくらみたいな子供は、男子と女子がいっしょにいると何かと囃したり、からかったりするものだけど、きいちゃんはそういうことをまるで気にしていないみたいだった。そんなことは面白くも何ともない、という態度で過ごしている。

 ぼくもそんなきいちゃんの態度に影響されるのか、きいちゃんといっしょにいることを恥ずかしく思ったことはない。ほかの女子とはそうではないのだけれど。

 きいちゃんは長い髪をしていて、それは夜の一番暗いところから取ってきたみたいに深い黒をしている。すらっとした、人形を思わせる手足に、ガラス玉を嵌めこんだようなきれいな瞳。きいちゃんが笑うとき、それは口元の形を変えるというよりは、ただそんな雰囲気を静かに醸しだしているだけのように見える。

 まだそんなことは意識しなかったのだけれど、きいちゃんはとてもきれいな女の子だった。今なら、そのことがよくわかる。その時のぼくはただ、鮮やかな色の熱帯魚とか、形の整った鉱物でも見るような目できいちゃんを見ていただけなのだけど。

「あの自動車のへこみは人をはねた跡。あのビルの屋上からは、飛び降り自殺をした人がいるの」

 きいちゃんは時々、そんなふうに妙にリアルな怖い話をすることもあった。

 そんな時、ぼくは何だかきいちゃんが本当はとてもとても遠くにいて、ここに見えているのは幻とか蜃気楼みたいなものなんじゃないかと思うことがあった。その体に触れようとすると、すっと手がすり抜けてしまうんじゃないか、と。

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