(6) 新たなる人物
スンッと鼻で息を吸うと、吸いたくないと思っていた匂いが鼻腔を満たした。
血の匂いだ。
孤児院で暮らしていた優真は三歳の頃にとある研究者に買われていった。そこで絶滅したはずのニホンオオカミの細胞を埋め込まれて、数多くの実験体の中で唯一オオカミの能力を手に入れて生き残ることができた。優真はその時に能力者になった。先天的でも後天的でもない、人口で作られた異能力者に。
あの男の研究所は、常になにかしらの血の匂いで満ちていた。非人道的な実験はもとより、男は死体を解剖するのも趣味としていた。イカレ具合はそれに留まることなく、その男は自らを「狂気の科学者」と名乗っている。自然に周囲の人間も、彼のことを畏怖を込めて、「
優真はまだ幼かったのにもかかわらず、その男のことはよく覚えていた。忘れたくても、忘れられないのは、きっと匂いがいまだに鼻腔にこびりついているからだろう。
いつも研究所に充満していた、拭い切れない血の匂いは、能力により嗅覚が鋭くなっている優真には、耐えきれないほどに濃く歪に残っている。
その匂いが、思い出したくもない懐かしい匂いが、再び優真の鼻腔に侵入してくる。
その原因の主を睨みつけながら、優真は低く唸った。
「夢幻泡影」
その偽名に似合わない儚いとは程遠いほど下卑た笑みを浮かべた泡影が、優真だけを見てくる。さすがの研究者根性なのか、彼の目には周囲の人間は見えていないようだ。自分の実験にしか興味がないから、実験体しか視界に入らないのだろう。
優真の唸り声に、近くにいた英が反応する。
「知り合い?」
「ああ、昔馴染みだ。孤児院から、オレはあいつに買われた」
「買われた?」
「あいつは研究者だ。それも非人道的なことを平気にするイカレ野郎。オレはそこで異能を手に入れたんだよ。……って、なんでこんなことおまえに」
ハッと口を噤むと、優真は視線を落とした。
そんな優真に、英が笑顔で語り掛けてくる。
「優真。話しづらいこと、話してくれてありがとうね。十一年前に優真を拾ったとき、どうしてそんなに獣みたいな目をしているのだろうとは思っていたけど、聞きづらかったんだ」
「興味なかったんだろ」
「相変わらず警戒心強いなぁ。もっとデレてくれればいいのに」
「誰がデレるかハゲ」
「お父さんに向かってハゲはやめなさい。――で」
それまで穏やかな笑みを浮かべていた英は、視線を泡影に向けると、真剣な眼差しになり右手を上げた。
「今更、あなたはどうして優真に会いに来たのですか?」
あくまで丁寧に、けれど警戒を解くことなくいつでも能力を使えるように、体の周りに赤い薔薇の花弁を舞わせた英が問いかける。
その時、やっとほかに人間がいることに気づいたのか、男は優真から視線を逸らした。
「優真? ふむ、そんな名前だったかな?」
首をかしげる泡影に、背後にいた立派な赤い髪の少女が助け舟を出す。
「主さマ。いマ彼は、灰色優真と名乗っているらしいデすわ」
可憐に微笑み、優しげな声音で言う少女を見て、優真はふと既視感を覚えた。
小柄な、まだ小学生ぐらいの赤い髪の少女。彼女とはどこかで会った覚えがある。それがどこだったのかは思い出せない。記憶を探るが、残ってはいなかった。
ニッコリと少女が目配せしてくる。ブルッと優真は体を震わせた。
ここからでは少女の匂いはうまく嗅ぎ分けられない。泡影の匂いは遠くにいてもわかるのだが、こうも人数が多いとひとりひとりの匂いを嗅ぎ分けるのは困難だった。
「どうして会いに来たのかも何も、それはワタシの実験体なんだぞ。ワタシが買った、ワタシのモノだ。手放したわけでもないのに、どうしておまえはワタシのモノを、自分のモノのように言うんだ?」
「優真はモノじゃない」
英が目を尖らせる。
赤い薔薇の花弁が、怒り狂ったように泡影に襲い掛かっていく。人を操ることができる能力を、英は珍しく、躊躇うことなく使った。
◇◆◇
「ふむ。よくわからないが、これは厄介だな」
泡影の呟きに、三姉妹がそれぞれ動いた。
真っ先に動いたのは、彼の後ろで寄り添うように立っていた長女だった。迷夢は泡影の前に出ると、彼を守る壁になるために迫りくる花弁に目を向ける。
(現実世界ではたいしたことはできませんが、主さまを護ることぐらいはできますわ)
次に動いたのは二女だった。アップで片サイドに結っている青色の髪の毛をはためかせ彼女は走り出す。向かった先はもちろん、花弁を操っている本人。毛先のカールした金髪の男性だった。
けれど、少女のいく手は分かれて迫ってきた薔薇の花弁により進路を逸らさざる終えなくなる。
最後に動いたのは三女。泡沫は二女の動きにより花弁の動向を読み、とっさに泡影の腕を引っ張った。
文句を言うことなく泡影は三女に引っ張られるがまま後ろに下がっていく。先ほどまで探偵たちとの間にあった距離が四メートルほど広がった。迫ってきていた花弁は、ちょうど泡影の鼻先で、ピタリと動きを止めた。
三女はため息をつくと、泡影の腕を離し、つたない言葉を探しながら語り掛ける。
「主さマ。無事?」
「見ての通りだ。助けてくれてすまないな」
そっけない態度だが、泡影は礼はきちんとしてくれる。そんなところも泡沫は気に入っていた。それに彼は泡沫の顔を「醜い」と一度も口にしたことはない。両親たちに蔑まれ続けていたこの顔を見ても、彼は何も言わなかった。
のっぺりとした白い仮面。目の部分に空いている穴から、泡沫は前方の状況を確認する。泡沫の能力は視線を合わせることでしか発動できない。どうにか隙を見て、あの中の何人かの動きを止めて、こちらが優位に動くように仕向けたいところ。そうしないと、主さまが最高傑作だと言っていたあの実験体を奪取することができない。
そう警戒をあらわに、仮面の下で能力を発動した瞬間――。
「やっと、見つけたぞ。ネクロマンサー」
静かに張りのある声が、その場に響いた。
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