(5) 穢れ


 電気の灯っていない暗い部屋の中で、朱音は、机の上に置いた掌サイズの一枚の紙を前に、手を合わせて瞑想していた。

 否、机の上にあるのは紙ではない。朱音の先祖より長きに渡って伝わる神界に住む神霊をこの世に顕現させるのに必要な霊符れいふだった。俗称で言うとするならば、式神ということになるのだろう。

 けれどこの式神は、通常のものとは異なっている。神霊の中でも特殊な存在、この世の理を脅かす存在でもある、十二支の神霊がひとつを閉じ込めているものだった。もし術者のいない状態で、に十二支の神霊が顕現するような事態に陥るものなら、十二支の神霊は一夜も経たずに世界を滅ぼしてしまうだろう。この霊符を手にできるものは生まれ持った才能と、洗練された強靭な精神が必要とされている。

 生まれ持った才能というのは、言わずもがなの濃い陰陽師の血が。

 洗練された強靭な精神というのは、三日三晩飲まず食わずに瞑想して神に祈る、潔斎けっさいにより補うことができる。


 現在、朱音は自身が契約している、十二支がひとつ――朱雀すざくと心を通わせている最中だった。

 十三歳にして、十二支の神霊と契約することが叶った天才少女でもある朱音にとって、これは欠かせない日々の鍛錬でもあった。

 兄である織武や青秦は知っていることなのだが、天才と呼ばれているにも関わらず、朱音の力はいまだ未熟である。もしこの鍛錬を一日でも怠ってしまうと、未熟な朱音の陰陽の力は、簡単に十二支の神霊に吸い取られてしまうことだろう。陰陽の力がなくなってしまえば、家名を背負うことは赦されなくなる。


 一時間にも及ぶ瞑想を終えて、視線を上げると、時計の針は夜九時を示していた。

 そろそろ湯浴みをして床につこうと立ち上がるのと、粗暴な足音が近づいてくる音は同時だった。


 乱暴な性格の表れでもあるかのように、激しいノックの音がする。瞑想が終わったあとだから良かったものの、もしこの音が瞑想中に起こったとすると、非常に厄介なことになるだろう。いや、この音の主の場合、それを承知の上で、ちょうど瞑想が終わる時間を見計らってやってきたのに違いないのだけれど。

 平静を装い、ちょっと意地の悪い笑みを浮かべた朱音は、清潔に見えるように黒髪を一つに括ってから、ノックをされた扉を開ける。


「おう、あかぼう。兄者がお呼びだぜ」

「すぐに向かいますわぁ」


 ふわりと可憐に笑って見せる。

 扉の先にいたのは、短い黒髪に青色のメッシュを混ぜ込んだ、和洋折衷のような風変りの服装をした青年だった。到底名のある陰陽師の家系とは思えぬ風貌なこの男も、朱音の二番目の兄であり、また十二支の神霊と契約をしている人物でもあった。

 名を、青秦せいじん。十二支がひとつ――青龍せいりゅうを使役している陰陽師である。

 青秦は、嫌味を口にしたのにも関わらず、なんの反応も見せない朱音の態度に一瞬眉をしかめたが、彼もまた自分の感情を制御するのに長ける陰陽師であるため、すぐに厭味ったらしい顔つきになると、口を歪めた。


「朱ん坊。朱雀がきついのであれば抜けても良いと、兄者が言っていたぜ」

「まあ、そんなことあたしは聞いていませんが。どうせ青兄あおにいの戯言なのでしょう? 織兄しきにいから直接言われるまでは、信じませんわ」


 ふわりと言葉を交わすと、朱音は歩きだす。

 舌打ちをしてから、青秦は朱音を追い抜かすと、先に一番上の兄である織武しきぶの部屋に向かって行った。




 畳の敷かれた室内で、姿勢正しく背筋を伸ばし、正座をしていた二十代半ばほどの男性は、目を開けると部屋に入ってきた青秦と朱音に目を向けた。

 青秦は全く信じていないのだが、陰陽師の中には、自身の髪に神力が宿っていると信じている者がいる。一番上の兄である織武もまたそうだった。

 織武は男性にしては長すぎる黒髪を白いリボンで一つに結んでいる。端正な顔立ちをしているのも相成り、服装が豪華な着物とかであれば、女性に間違えられてもおかしくはないだろう。

 朱音の一番上の兄である織武もまた、十二支がひとつ――玄武げんぶを使役している陰陽師だった。しかもこの若さにして、早くに亡くした父親の跡を継ぎ、陰陽師の中でも生粋の陰陽師と云われる、阿部あべ家の当主をも務めている、希代の奇才である。天才と呼ばれる朱音より、遥か上の実力を持っている陰陽師だ。


 細い目を開けると、織武はふたりが座るのを見届けてから、口を開く。

 余分な前置きをせず、織武はすぐに本題に入った。


「先日、突如あらわれた霧の正体が判明した」


 青秦は胡坐をかき、朱音は淑やかに正座をしながら、織武の言葉に耳を傾ける。


「一言で言うなれば――穢れだ」

「穢れ、なのですか?」


 霧の正体を、ニュースでは「異能力者以外には毒となる霧」と言っていた。それを鵜呑みにしたわけではないが、あまり予想していなかった正体に朱音は驚く。

 青秦は、眉を潜めた。


「穢れだぁ? 本当か、兄者」

「本当だ」

「どうしてわかった?」

「霧の源を調べた」

「なるほどなぁ」


 ひとまずは納得したのか、青秦は口を閉じる。

 タイミングを見計らい、朱音は質問をした。


「穢れというと、やはりずっとそれを浴びていると、?」

「もちろんだ」


 迷うことなく頷く織武。

 現在朱音たちが住んでいる兄の知り合いに借りている古い民家は、家自体を覆うように結界を施してある。そのため毒となる霧は侵入できないのだが、よく家から出て周囲を散歩している朱音にとって、毎日浴びているのが「穢れ」だということを知ってしまえば、さすがに驚くというものだ。

 なんせ、「穢れ」というものは、能力を持たない人間以外にも脅威となる代物だからだ。

 簡単に言えば、「穢れ」は異能力を持つ人間にも影響を及ぼす。能力を持たない人間には数日も経たずに浸透するは、異能力を持つ人間には薄く、けれど明確に体を蝕んでいき、一か月以上も経てば死に至る可能性さえある、だった。

 生粋の能力者の家系である朱音たちも例外ではない。長く霧を浴びてしまえば、「穢れ」に侵されて、死んでしまうかもしれない。


「それで、清めるために、何が必要なんだ?」

「麒麟の鱗、という宝石だ」


 青秦が訊くと、織武はきっぱりと答えた。


「麒麟といやあ神獣にも数えられる、神界の生き物じゃねぇか。その鱗とは、またたいそうイカした名前をつけやがる。宝石にしちゃあよ」

「でもその宝石は、確か先日、怪盗メロディーという盗賊さんに盗まれてしまったのでは?」

「だから霧が発生した。ニュースでもやってたじゃねぇか、朱ん坊よぉ」

「それにしては、青兄は麒麟の鱗という言葉を初めて聞いたようでしたが?」

「はんっ。そんなわけねぇだろ。言葉遊びみたいなもんだよ」

「そうですか。それは失礼いたしましたわぁ」


 朱音はふわりと笑う。

 青秦は煩わしそうに鼻を鳴らした。

 ひとり織武だけは無表情で、いや、なにもかもを抑え込んだ、感情など知らないといった顔で、ふたりの言い争いをおさめるような声を上げる。


「戯言はよせ」


 その一言で、ふたりは言葉を止める。

 圧力に似たピリピリとした威圧感を感じながら、青秦は負けじと声をだした。


「で、どうすんだ?」

「泥棒を捕らえて、麒麟の鱗を基の場所に納める」

「それはいいが、ここまでてしまっているのなら、それだけでは収まんねぇだろ」

「ああ、そうだ。だから、我らで五行の封印を施す。あとふたりおれば、可能なはずだ」

「ふたり? 他の十二天将を呼ぶのか?」

「すでに文は送ってある」

「それはご苦労なことで」


 青秦は、一度足を崩すと、足を組み直した。


「長い、仕事となる。苦労をかけるが、頼んだぞ」


 真摯なねぎらいの言葉に、朱音と青秦は頷く。


「――さて」


 織武が立ち上がる。朱音たちを見下ろしたまま、次の指令を下すべく、張りのある声を上げた。


「まずは明日、怪盗たちを余すことなく、捕らえるぞ」

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