(5) 過去の話①/あだ名


「あだ名を決めようぜ!」


 唐突に彼が言った。

 日加里蜂にっかりはちは、眉を潜めて不機嫌さを露わにする。

 あだ名? 何を言っているのだ、この喜多野千里きたのちりとかいう男は。

 彼とは、まだ出会って一日も経っていない。あの息苦しい家から救いだしてくれたことに感謝はしているけれど、なんの脈略なくあだ名をつけ合うほど仲良くなった覚えはない。


 黙っていると、なにやらうんうん唸っていた千里が、いきなり人差し指を向けてきた。

 蜂は危機感を感じて背を逸らす。


「俺は、今日から君のことを、はっちん、と呼ぶ!」


 そして今度は千里自身を指さす。


「そしてはっちんは、俺のことをちーちゃんって呼ぶんだ!」

「なんで」


 長い間、誰とも会話することなく影のように生きてきた蜂は、喋ることをしてこなかった。慣れない言葉は粘り、乾いた口から不愉快な音程で響く。

 蜂は口を閉じた。もともと蜂は口を開くのが好きではない。蜂の容姿は、小柄だ。それはまだいい。蜂はまだ十二歳で、成長期はこれからなのだから。伸び放題で長かった炭のように真っ黒の髪の毛は、先ほど千里がバッサリと切ってくれた。前髪がぱっつんなのはちょっと気にいらないが、邪魔にならないのが心地いい。だけど、これだけ前髪を短く切られると、蜂の人に見せるのが嫌な容姿が露わになってしまう。ぱっちりとして大きな瞳。それから大きな口。その大きな口を開くと、歯並びの悪い歯が露わになる。それが蜂が口を開くのを嫌っている原因だ。


 むっつりと口を閉じる。

 問いかけは終わった。千里の返答を待つだけでいい。口を開くのは慎重に、どうしても必要な時だけにしよう。蜂はそう決めた。


「え? なんでって、何が? あ、もしかして、はっちん、というあだ名が嫌だったのかな? じゃあ、どうしよう。俺は、君のことをなんて呼んだらいい?」

「……なんで、あだ名を、つけるって」


 言葉が上手く発音できている気がしない。蜂は小声でぼそぼそと、歯並びを隠すように口を開く。


「そんなの決まっているだろ?」


 当時、まだ二十歳の学生だった喜多野千里は、情報屋というバイトをしていた。それが後々仕事になるのだが、今は関係ないだろう。

 千里はにかっと歯を見せて笑うと、とんでもないことを言い放った。


「はっちんは、今日から俺と一緒に暮らすんだからな!」


 なっと目を見開く。同時に口を開いたことに蜂は気づいていなかった。


「な、なんで。お前なんかと、一緒に、暮らすって」

「じゃあ、はっちんはこれからどこに行くの? 家族のもとにはもう帰れないのだから、はっちんはこれから一人で暮らさなくっちゃいけなくなるんだよ? まだ十二歳の君を、仕事が終わったからと放っておいて過ごすなんて、俺にはできない」


 その時まだ蜂は千里の事情を知らなかった。千里は、蜂と出会う一年前に、異能力に目覚めた影響により家を勘当されていたことに。

 だから蜂は憤ったし、慣れない怒りに混乱した。


「で、でも」

「あ、はっちん。安心して。俺一人暮らしだから」

「そ、そういう意味じゃ」

「お金も心配しないでいいよ。家を追い出されたとき、親父からたらふくお金をせしめてるから」


 笑顔で言う千里に、蜂はとうとう言い返すのをやめた。いや、もとより反論する必要もなかったのだ。蜂はただ、わけがわからない怒りを発散したかっただけ。

 蜂は口を真一文字で引き締める。

 一人で生きていくには、蜂はまだ世間を知らなすぎる。いままであの息苦しい家で、一人で生きてきた蜂は、本当に数年ぶりに外に出ることができた。

 だから。あそこから救いだしてくれた千里を、利用してやろうと蜂は思った。自分が一人で生きていけるようになるまで。馬鹿げたことを言う千里なら、利用しやすいだろうと蜂は思った。


「クソヤロウのちーちゃんめ」


 これが、蜂が千里に向かって初めて吐いた暴言だった。




 真夜中。ふと目を覚ました蜂は、体を起こすと、人がひとり通れる空間を空けた隣にある、ベッドで寝ている人物の寝顔を眺める。

 すやすやと気持ちよさそうに、もう二十三歳のはずの男が眠っていた。

 まるで子供みたいな寝顔の男は、いまでも蜂と一緒に暮らしている、喜多野千里だ。

 彼は最近、いろいろな問題に悩んでいる。その悩みについて、蜂はよく知っているが、彼の事情に介入しようとは思っていなかった。

 蜂と千里は他人だ。それに千里に至っては、自分でその問題に首を突っ込んだのだから、自分で蹴りをつけるべきだろう。


 フンと、蜂は鼻を鳴らす。


「よだれ垂らして眠りこけやがって」


 少女特有の高い声で吐き捨てる。

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