シンドウさん

@Takaue_K

 

 忘れもしないあれは三年前、僕が大学二年の夏の夜のことです。


 その日の僕は、バイト後の同輩たちと仕事上がりに飲みに行きました。

 元々地方の出だった僕は大学には余りなじめず、一方で仕事先には上司が同郷だったこともあってどちらかというとバイトに比重を置いた生活をしていました。


 そのため、その日の飲み会も羽目を外してしまい、うっかり終電を逃してしまったのです。


 幸い夏休みに入っている上に翌日(というかもう当日か)は非番であり、予定も特に入っていない僕は歩いて帰ることにしました。


 漫画喫茶やカラオケもあることはあったんですけどね、やはりそこは学生。無駄にお金を使いたくない。かといって一人で始発まで待つのも辛い。携帯は充電し忘れて電池切れ。

 なら、どうせ時間つぶしも兼ねてぶらぶら帰るのも風流じゃないか、そんなことを考えたんです。


 幸い飲み会が行われたのは都内のI駅前。そこから、自分の住むN駅までは、直線距離にしてそう遠くない。

 高校時代野球部員だった僕は、体力にも自信がありました。順調に行けば3時間くらいで帰れるはず。

 そんなわけで、僕は鼻歌交じりに歩き出したのです。


 …が、やはり酔っ払っていると、正常だと思っていてもどこかおかしかったようです。


「…あれぇ?」


 一時間ほど歩いて、まったく見覚えの無いところにきていることに気づきました。


 本来の想定どおりなら、位置的には傍に賑やかな大通りがあるはず。一本二本道を外れたとしても、道路を走る車の喧騒は日夜関わらず聞こえているところなのです。


 ですが、僕の左右はうっそうとした生垣に囲まれて、まっすぐ一本道だけが伸びている。通ってきたはずの道を振り返っても、同じような生垣がずーっと伸びているんです。


 さすがにそこにじっとしている訳には行かないので、ひたすらまっすぐ進みます。その間、聞こえるのはさやさやという木の葉のざわめきだけ。…そう、鳥の囀りも、虫の音も無いのです。


 その癖風はそよとも吹かず、じっとりと暑苦しい空気が立ち込める中をひたすら進むうち、僕もだんだんおかしい、と感じるようになっていました。


 暢気に歌ってた鼻声が途切れ、周囲を見なくなり、早足になる。と、眼前の小さな街路灯がようやく生垣以外のものを映し出しました。


「あ、線路がある!」


 先を急いでいた僕の前に、小さな踏切が見えたことでほっと胸をなでおろしました。


 ここがどの辺りか判らないが、線路があるなら必ずどこかの駅に行ける筈。

 この辺り、都内は田舎と違って大変に助かります。


 単複線しかない小さな線路に沿い、僕は進路を変えました。

 いくつかの民家のせいで遠回りしながら、おおむね線路の進むほうに向かって歩き続けていくうち、ようやく小さな駅が見えてきました。


「なんて駅だろう?」


 駅名を記す看板には、きさらぎ駅――と書いてあるはずも無く、I駅から二つほど先の私鉄の駅名が書いてありました。


「よかった、ここからなら大体判る」


 僕はほぉっ、と安堵の吐息を吐き出しました。

 ここには以前友達と駅前へ遊びに来たことがありましたから。

 そこからならまた軌道修正できる。


 そういう訳でひとまず駅前から帰途に戻ったのですが。


「ねえ」


 横断歩道で青信号になるのを待っていた僕の背後から不意に声が掛けられました。

 すでにシャッターの下りた入り口から声を掛けてきたのは、白いドルマンスリーブを着た、僕と同じくらいの年の黒髪の長い女の子でした。


「ちょっと、あなた」


 そう声をきた彼女は結構かわいい子で、そんな相手が笑顔で近寄ってきたことから僕はつい警戒心を解いて返事してしまいました。


「何ですか?」


 もしかしてこれが世に言う逆ナンパって奴か。僕も捨てたもんじゃないじゃあないか――そんな下心が芽生えた僕ですが。


「あなた、シンドウさんですよね?」


 へ、と思わず間抜けな声を上げてしまいました。僕の名前はシンドウではありません。


「い、いえ、違いますよ。人違いじゃないですか?」

「うっそだー。シンドウさんですよ」


 面食らいながらも違う、そう明言したのですが彼女はなおも力強くシンドウであると言ってきます。その表情を見て、僕は体がこわばりました。

 笑顔です。ですが、目だけはじぃっと、瞬きすることなく僕の目を見ている。


「いいえ、違いますってば。関係ありませんって」

「ううん、判るの、私には。あなた、シンドウさんだよね」


 口調こそ疑問系でしたが、明らかに断言しています。いい加減薄気味悪くなり、顔がひくつくのが自分でもわかります。


「何回言えば判るんですか。違いますって。あなた、まさか酔ってるんですか?」

「ううん、酔ってないよぉ。ちゃんと判ってるってば。シンドウさんこそ、自分のこと判らなくなってるなんて大丈夫?」


 …とうとう、おかしいのはこっちということにさせられたことで、僕はむっときました。


「大丈夫かって言いたいのはこっちですよ。何度も言ってるじゃないですか、シンドウじゃないって。何なんですかあなた、気持ち悪いです。いい加減にしないと警察呼びますよ!」


 そこまで言ったところで、ようやく僕は失敗に気づきました。


「ねぇ、また嘘つくの? あたしに嘘つくの?」


 彼女の顔から、笑顔が消えていました。

 残されたのは、僕を凝視する真っ暗な瞳だけ。


 突然の変化に、思わずたじろいだ僕が後ずさったときです。


 ひゅん。


 直後、僕の鼻先を何かが掠めました。


「あ…避けんなよ!」


 そう彼女が言いながら、右手を振り上げます。つられて視線を向けると、そこにはいつの間にか握りこまれた出刃包丁がぎらり、夜の灯りを反射していました。


「う、うわああっ?!」


 反射的に仰け反り、たたらを踏んだ僕は、ちょうど交差点の段差から足を踏み外してバランスを崩しました。


 それが、後になって考えてみれば幸運だったのでしょう。


 後ろにすっころんだ形になり、偶然振り上げた僕の足が、包丁を突き刺そうとしてきた彼女のひざ下を蹴り飛ばした格好になったのです。


「ぎゃっ」


 膝の衝撃で支えきれなくなり、突き込んだ勢いそのままに地面に転んでしまいました。


「だ、大丈夫…」


 打ち所が悪かったのか、そのままぴくりともしないのを見て僕は思わず屈んで手を伸ばそうとしました…が、済んでのところで手を引き戻し、そのまま点滅していた横断歩道を渡って逃げることにしたのです。


 無責任だとは思ったのですが、それでももはや彼女とはこれ以上関わりあいたくなかったというのが僕の思考の大部分を占めていました。


 そのあとはひたすら駆け通しです。家に辿り着いたころにはもう日が変わっていました。


 あの女性の気持ち悪さは、走り続けた疲労と汗で張り付いたシャツの気持ち悪さ、そして喉の渇きによって完全に拭い去られており、冷たいシャワーを浴びた僕はビールを一本飲んで就寝しました。


 それから一月経ち、僕はバイトなどのおかげでこの日のことをすっかり忘れていました。

 本来なら、このまま一生忘れていたはずです。


 記憶を引き戻したのは、何の気なしに職場でテレビを見ていた上司の言葉でした。


「なあ。あれ、君の住んでるアパートじゃないか?」


 そういって指差したのは、ニュースで殺人現場になったというアパートの映像です。

 その建物は…確かに、よく見知ったものでした。


「え、ええ…そうですが…」

「うわぁ、危なかったなぁお前」


 そういう上司の声が、どこか遠くに聞こえていたのをよく覚えています。


 被害者の名前は、シンドウ マコト。

 僕の部屋の、二軒隣の人物でした。


 そして、かろうじて喉元で堰き止められていたはずの悲鳴は、次に犯人とされる人物を見て迸りました。


 画面でカメラに向かいにやにやと笑う女。


 あのとき、僕にシンドウと尋ねてきた女だったのです。


 その後僕は上司に事情を話し、職場を変えました。家も、仕事が新しく決まり次第すぐに変えました。


 あれ以来、僕の周りでは変なことは起こっていません。

 ですが、ときどき視線を感じるのです。

 

 カメラの向うで、こちらを向いてにやにや笑っている彼女の視線を……。

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