舞台の上の、ただのぼく

文咲 零字

序幕

黒板に残された、薄いチョークの色。

端の破れた時間割表と、インクの匂いのする「夏休みのしおり」。

教室に響く、声、声、声――

学校は嫌いだった。

みんな、ぼくと違っていたから。


少し張り詰めた、学校とは違う空気。

やや大人びた難しい数式と、難しい漢字。

教室に響く、声、声、声――

塾も嫌いだった。

みんな、ぼくと違っているから。


「でね、わたしもこのままの成績なら智坂に行けるって!!」

塾からの帰り道、ぴょこぴょこと飛び跳ねるように、彼女は喜んでいた。

僕の生返事をものともせず、まっすぐこちらに向けられる瞳。

屈託無く、輝くように透き通った、声、声、声――

そんな鮎川七海(なつみ)も、今は嫌いだった。

「りょーちゃん、それじゃまた明日学校でね。バイバイ!!」

そう言って彼女は、明るい家のなかに吸い込まれてく。

理由は、それだった。

七海はぼく違って、ぼくと七海と違うから、嫌いだった。


深夜まで響き続ける、怒号と泣き声。

部屋の扉越しに感じる、黒く澱んだ空気。

僕を奪いあってぶつかり合う、声、声、声――

家は、一番嫌いだった。


 僕の居場所は、僕の世界にはどこにもなかった。だからその日、僕は逃げ出した。聞きたく無い声がしない、静かな場所を探して。今年の誕生日にもらった、欲しくもなかった24段変速のマウンテン・バイク。 そんな一方的な贈り物に跨って。

 たどり着いたのは学校だ。小学校ではない。僕の中学受験が成功すれば、来春から通うことになる私立中学。家から歩いて15分。急勾配の上にある、智坂学園だ。

 自転車は坂の下に放り棄てて、坂をのぼる。敷地に入るために塀をのぼって、一番背の高い建物に侵入して階段をのぼる。一番上までのぼったら梯子があったので、またのぼった。立ち入り禁止と書かれていたが、カギは壊れていた。

 そして出たのは、屋上だった。

 ふらふらと、だが一歩一歩。何かに魅入られたように、その端に近づいていく。

柵はない。ただ、コンクリートの段差があるだけだ。おそらくは人が立ち入ることを想定されて作られた屋上ではないのだろう。ふらりふらりと、僕は端に近づいていく。

 そして、最後の一歩。

 飛び降りたわけではない。段差の上に立っただけだ。

 足元を見下ろすと、五階建ての校舎の屋上はめまいがするほど高かった。坂の上の、一番高い建物の上。周囲にはここより高い物は何も無い。

――やめだ。

 ここからすべてを投げ出して、嫌な顔や嫌な声の届かない場所に行くのは魅力的だけど、わざわざ自分からそうしてやるのは、なんというか、シャクだった。

 ぐるりとあたりを見回すと、低学年の頃、お遊戯会で演劇をしたときのことを思いだした。あたりに散らばる明かりは観客。ステージはこの屋上。そして主演は、自殺を想う小学六年生。それなりに滑稽で、それなりに悲劇的だった。

 僕は強く目を閉じた。

「1、2、3……」

 強く目を閉じて十秒間。世界を変えるおまじない。目を開けるとそこは、ここ以外のどこか。

「5,6,7……」

 最近、よくやるのだ。人と話したくない休み時間の教室、みんな問題を解いている時の静かな塾、そして、今から騒がしい声が漏れ聞こえる布団の中で。

「9……10!!」

 目を開ける。

 結果は、いつも同じだった。

 広がっているのは、当たり前すぎる現実だ。 幕引きのない僕の世界は、まだまだ続く。

 もう帰ろう。

 そうして、僕が段差から降りると――

 響くはずのない拍手が、響いた。

 ぱちぱちと。

「名演技」

 それから、恐ろしく冷たく透き通った、一言の歓声。

「私もよくやるんだ。部活帰りに」

 白いブラウスに、水色チェックのネクタイ。それから、同じ柄のプリーツスカート。多分、この学校の生徒だ。彼女は、「よっ」と小さく声に出して、屋上の端に飛び乗った。

「ここ、ちょっと舞台みたいだもんね」

ブレザーの隙間から見えるうなじは、病的といってもいいほど白い。くるりと振り向いた彼女の唇は、どこか諦めたように笑っていた。

「でもちょっと惜しかったな、演技指導したげよっか」

「……はい」

 別に演技をしているつもりはなかった。だが、無駄なトラブルを起こして、父と母の言い争いの材料になるのだけはゴメンだった。 彼女も「立ち入り禁止」の向こう側にいることだし、うまくすれば、見逃してくれるだろう。

 そんな彼女は、「えっとねー」などといいながら、片足立ちで靴を脱ごうとしていた。空と屋上の境界で、綱渡りでもするかのように体を泳がせ――

「あ」

 と、気の抜けた一言と共にバランスを崩した。五階下の地面に吸い込まれそうになる彼女。僕はとっさにその左手をつかみ、体ごと倒れこむようにこちらに引き寄せた。勢い余って僕は尻餅をつき、ついでに軽くヒジを擦りむいた。心臓の音がばくばくと聞こえて、自分が今は生きていることを強く意識して、ぞっとした。

彼女もどこかをぶつけたようで「いたたたた……」と声を漏らしていた。

「何考えてるんですか!」

 僕は、「死ぬ気ですか!?」と、数分前に自分が検討したことを、強く非難した。

 彼女の黒い、黒すぎる瞳が、慌てる僕をとらえた。彼女は身近に迫った死の危機に少しも慌てていないころか、どこか余裕があり――しばらく僕を見つめてから、クスリと笑った。僕はふと、彼女は幽霊なんじゃないかと馬鹿げた考えを持ってしまった。

「そんなわけないじゃん。だって、ホントに自殺する人は、靴、脱ぐんだよ」

「――え?」

 呆然と、尻餅をついたままでいる僕をよそに、彼女は立ち上がり、ぱんぱんと土埃を払うと、中途半端に脱げた右足のソックスを脱いだ。続いて、ローファーごと左足のソックスも。

「はい、自殺者ルック完成」

 彼女はちょんちょんと、右足の親指で僕の肩をこずいて、「どう?」と感想を求めてきた。

 おそろしく綺麗な光景だった。すらりと伸びた白い足は、肉を捌く長い包丁のような、日本刀のような――刃物を連想させる怪しげな魅力を帯びていた。小学生の僕は、ただ茫然と、彼女を見ていた。

 彼女はちょっとだけ拗ねたような表情を浮かべると、右手にローファーをつまみ、左手に靴下を握りながら、段差の上に飛び乗った。「ここが私の舞台」とでも言うかのように段差の上をふらふらする彼女。

「おっとっと」

 そして再び彼女はバランスを崩し、段差から転落した。

 今度は、僕はもう慌てなかった。慌てることすら、できなかった。

 彼女という存在が、あまりにも神秘的で、幽霊みたいで、妖しくて。すべて現実味がなかった。ただ、ずっと彼女を見ていた。国語で習った「目を奪われる」という慣用句の意味が、こういうことなのだということを理解した。

「ちぇ。もう驚いてくれないか」

 彼女は、拗ねたようにそうつづけた。彼女が落ちたのは、段差の手前側――地面のある方ではなくて、僕がいまだひっくり返っている屋上の石畳の、すぐ隣のほうだったからなのだが。

どうやらわざと、彼女風に言うのなら、演技だったようだ。

「自殺を何度も考えたけどどうも踏ん切りがつかなくて、夜な夜な反対側に飛び降りる女の子の役、でした」

 彼女は、そんなことを、つまらなそうに語る。

 ふらりと、こちらに近寄りながら。

「演劇部なんだよ。部活が。役作りの一環としてねー」

 彼女は、そんなふうに、つまらなそうに騙る。

 しゃがみ込み、視線を僕に合わせつつ。

「でさ、君は……どんな役?」

 彼女が微笑んだ。視線が、絡まっていく。

 甘く響く、何かを諦めたような声、声、声――

 そして僕は、あるくだらない、つまらない「役」の練習をすることを決めた。夜な夜な繰り広げられる両親の口喧嘩に、心を痛める男の子の役だ。

 その一言目の台詞を吐こうと深呼吸をすると、知らない匂いがした。

 あれは彼女の――ハルカの香水だったのだろうか。

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