優しい後輩は断らない(やや痛い百合)

※まえがき

 こちらのお話には暴力表現があります。お気をつけください。



 ***


「『あんたって、ほんと先輩好きすぎ』とか言われたんですけど、別にそんなことないと思うんですよね~」


 そう言ってソファに座りながら笑うのは、私の後輩だ。


 里屋雛乃(りやひなの)はノリが軽くて、ちょっと頭がユルそうで、ついでに髪の色も明るくて、けれど笑顔のときに見せるえくぼがかわいらしい女の子。


「でもふたりきりの部室に入り浸ってるんだもの。そう見えるんじゃない?」

「え~~? センパイまでそんなこと言います~~?」


 イジられ慣れてるこの子は、私がちょっと突っ込んだことを言ったところで、なんでも光に変えてしまうような魅力をもっている。

 

 未亡人がかぶる黒いベールのような髪を伸ばした私は、よく近寄りがたいとか、話しかけづらいだとか言われているのに。

 彼女はそんな雰囲気なんて気にすることなく、放つ光でなにもかもを照らしている。月並みな言葉だけれど、太陽のような女の子だ。


 ここは文化棟の端っこにある文芸部で、学校がかっこつけの『文芸部ぐらいは定番だし残しておこう』という目論見のために、置いてあるだけの場所。

 よく魔女に例えられるような私にはぴったりの日陰だけど、雛乃さんにはミスマッチもいいところすぎて、一周回ってインスタ映えしそうなエモさがある。


「ていうかわたしは~……別に部室に来たいんじゃなくて、センパイに会いに来てるだけですからね」


 そんな一言一言に語尾を跳ねさせて、この部屋の光度を高めてゆく。背は私と同じぐらいで、吸う酸素も吐く二酸化炭素も同じ程度だろうけど、確実に彼女のほうが人類に貢献していると思わされる。

 実際、私だって、自分の鏡よりも彼女と話をしているほうが楽しいだろう。


 後輩、雛乃さんはその小動物のように愛嬌たっぷりの麗しい容貌よりもずっと、素晴らしい人格者だ。優しくて、愛らしくて、温かい。


 どうして私は彼女がこんな場所にいてくれるのかわからない。どこにだって輝けるような彼女を前にして。


 だから、私はきょうも。


「ねえ、雛乃さん」


 ろくに読んでもいなかった文庫本をぱたりと閉じて、彼女を見やる。


「お願いしていいかしら?」


 一瞬ぎくりとした表情を浮かべたのを、私は確かに見ていた。雛乃さんは表情を隠せない。それは擬態すら必要のない光の中で彼女が生きてきた証拠だ。


「センパイの頼みなら、そりゃ、いいですけど……」

「──ありがとう」


 二の句を告げる前に礼を言うと、予想通り彼女は黙り込んだ。もしかしたら思っていたのかもしれない。『きょうは違うんじゃないか』と。

 その通り、私の機嫌はよかった。理由はいくつもあるけれど、六月末で最近暑い日が続く中、割と涼しかったからだとか。お気に入りの文庫の発売日だからだとか。

 昼休み、たくさんの友達を引き連れた雛乃さんとすれ違って、それなのに大勢の友達の前で雛乃さんは私のためだけに「センパイ~」と手を振ってくれたから、だとか。


 だから、私は。


 本棚の横に打たれた釘にぶら下がっているグローブを取る。人を殴るために作られたパンチンググローブだ。この空間にこんなものがあるということが、そもそも異質なのだが。

 両手に嵌めた後、雛乃さんに差し出す。雛乃さんは年離れた弟の靴紐を結んであげるみたいに、根本のマジックテープを止めた。マジックテープを彼女に止めさせるようにしたのは、ただの私の悪趣味だ。なんてことはない。私の細胞は余すところなく悪趣味だけでできている。


「まっすぐに立って」

「……は、は~い」


 文芸部の中で、線の細い私がパンチンググローブをつけて、派手な外見をした彼女を前に拳を握り固める。薄く開いた窓から風が入り込んできて、お互いの髪を揺らす。放課後の学校には、どこかで誰かが練習している高いトランペットの音が響いている。


 上から下へと振り下ろすように、私は雛乃さんの腹を殴った。


 んぐっという彼女が本来ならば一生に一度も口にすることないうめき声が聞こえて、その足がわずかによろめいた。何度髪を切っても軽くなった頭に慣れないのと同じように、雛乃さんは痛がってうずくまった。


 私の手の甲もジンジンとうずく。けれどそれ以上に熱い塊が下腹部でうごめいていた。雛乃さんは気まずい沈黙を破るみたいな調子で、笑う。


「あっ、きょう、けっこう痛いですね~……センパイ、もしかして、筋肉ついてきました~? 前から思ってたんですよね、センパイ細すぎるから心配だなあって~……」

「うん、立って」


 雛乃さんはへらへらと笑いながら垂直に立った。今度はその肺あたりを殴る。げほげほ、とむせる彼女の、肩を殴る。しゃがみこんだ雛乃さんの、脇腹を上履きで蹴った。上から頭頂部を殴った。


 笑みはかき消えない。息を切らした私を下から見上げ、涙目の彼女はそれでも情ある親しき言葉を口に出す。


「センパイ、情熱的~……」

「………………」


 雛乃さんは、優しすぎる。

 私はその優しさが彼女らしくて気に入っていて、そして嫌で嫌で仕方なかった。


「ど、どうですか~……? これ、きもち、いいですか?」

「ええ」


 すごく。


 雛乃さんを立たせて、腹を殴る。また立たせて、殴る。やがてひとりで立てなくなった彼女が壁にもたれているところを、また殴った。


 この瞬間、雛乃さんの目は私しか見ていない。私という暴力を振るう先輩を前に、全身が身構えて、固くなって、防衛本能が警報を鳴らしているのに逃げ出せず、己を律しなければならなくなる。生き物としての本能と、後輩としてのポジションがコンクリフトを起こして、頭は真っ白になり、全身は汗だく、大きくてぱっちりとした瞳からは涙がこぼれてゆく。


「センパイが、きもちいいなら、わたしも、も、文字通り、体を張ったかいが、ありますねっ」


 顔は殴らない。だって私が見たいのは、その表情だから。笑みが完全に消え去るその時なのだから。


 意志とは無関係に、雛乃さんの体が震え出す。怯えの差した瞳は艷やかで、恐怖と痛みによって引きつった口元から溢れる吐息は、甘ったるい。


「なに休んでるの。まだ立てるでしょ。早くして。私を待たせないで」

「はっ……はい……。センパイ、スパルタなんだからぁ~……」


 その言葉に弾かれたように立ち上がろうとする雛乃さんだけど、実際はのろのろと起き上がるだけで、その弱々しさは憐憫を誘った。


 ああ……と私は心の中で感嘆のため息をついた。雛乃さんは今、昼休みに集っていた友達のことも思い出すことはないだろう。両親も、友達も、先生も、なにもかもが消えて、その胸の中にはたったひとり存在しているのは、私だけだ。


 私は今、里屋雛乃さんの肉体、心、そのすべてを支配している──。



 ***




『美鶴(みつる)さんって、虫も殺さなそうな顔をしているよね』と言われたことがある。


 おしとやかだとか、お嬢様だとか、そういう意味ではなかった。虫なんて殺す価値もないと見下していそう、という意味だったらしい。そのことを話したのが誰だったか、私はもう覚えていない。


 実際に私は周りのことがどうでもよかった。最低限の勉学と友達付き合いをしていれば、干渉されることはほとんどなくて、その気楽さに甘えて私はどんどんと自分だけの世界に閉じこもっていった。


 先輩が卒業してひとりきりになった文芸部なんてその最たるもので、できれば下級生など入ってきてほしくはなかった。先輩の立場で後輩を指導するなど、考えただけでゾッとする。


 そこに、里屋雛乃という新入生がやってきた。


『一目惚れです!』なんて、到底意味のわからない言葉を引っさげて。


『センパイはスラリとしてて~、長い黒髪がきれいで~、頭よさそうだしクールな感じがかっこよくて~、とにかく、わたしの理想! って感じで~!』


 最初はバカにされているのか? と思ったけれど、どうやら彼女は本気だった。少人数で静かな部活に入る大人びた青春を過ごしたいと思ってて、その上、私みたいな先輩がいるところなんてまるで夢みたいだ、とさえずる小鳥のように語っていた。なるほど。


 頭がユルそうで、私とは合わないな、って思った。

 前者は正解で、後者はハズレだった。


 雛乃さんの明るさと人懐っこさは、私の心さえも溶かした。私は毎日毎日部室に通う彼女の相手をするうちに、私ですら打ち解けてしまった。彼女を可愛いなと思い、初めは飼うことに反対していたのにいつしか自分で率先して犬の世話する母親のようになってしまった。


 雛乃さんは学校でもたくさんの友達ができていった。誰とでもすぐに親しくなって、人間社会を生きるために最適化された存在とは、彼女のような人のことを言うのだろうと思った。別に羨ましくはなかった。水槽の中で誰よりも華麗に泳ぐ人魚を見て、自分に置き換えたりはしないでしょう? それと同じことだ。


 最初はこの優しい後輩のことを、単純に好ましく思っていたのだ。


 高校生活のあと二年間、卒業までの放課後を、彼女と過ごせるのならそれは悪くないと思っていたのだ。本当だ。


 やがて彼女は部室に来る頻度が減っていった。


 自明の理だ。彼女にとって約束は増えることはあれど減ることはない。雛乃さんは友達が等しく大事なのだ。そこには私も含まれていて、雛乃さんの体がひとつしかないのが問題だった。半年も過ぎた頃には、彼女が部室に来ることは週に一度になっていた。


 部室に来るたびに雛乃さんは『こないだは友達とあの店にいったんですよ~!』と嬉しそうに報告してくれた。どこへいった、なにを食べた、誰がかわいくて、誰が素敵だ。悪口なんてひとつも言わず、ただ楽しさを振りまいた。


 彼女の友達が増えて学園生活を謳歌することを私自身が望んでいるかのように錯覚してしまいそうだった。嬉しかったのは、雛乃さんがいつも楽しそうにしているその笑顔だけだ。それ以外のことはどうでもよかった。雛乃さんが笑顔なら、凶悪事件が起きて小さな子が犠牲になったのだという話題ですら、私は嬉しくうなずいていただろう。むしろ、そっちの方がマシだったとさえ言える。だって、それは本当に手の届かない遠い世界の話なのだから。


 ある日、集中できずに文庫の行を目でなぞっている最中、私はなにもかもを嫌に思っている自分に気づいた。


 明るく話す彼女の言葉を聞いている最中に、大きな錠剤を飲み込んだようにつっかえる喉の違和感に、思い当たったのだ。


 きょう彼女が来るのだろうか? と自分は浅ましくも期待していた。人に期待を抱いたことなどなかったから、わからなかった。私の世界のドアは開け放たれていて、彼女が訪れないその日はひどく虚しかった。幸せなのは週に一度だけ。それ以外の日に私は孤独で染め上げられた。


 心底、嫌になった。浮かれた恋愛ソングに共感する自分に。共感など一生したくなかった。どんな物語も他人の世界をのぞき見ただけの気分でいたかった。私は私だけのものを守りたかった。


 だから、突き放すことにした。したんだ。


 けれど、方法にはこだわりたかった。私は雛乃さんを憎んでいるわけでも、嫌っているわけでもない。彼女に変質してもらうような別れ方はしたくなかった。ただ、彼女がもう二度と私に関わりたくないと思うようなことをしたかった。


 彼女が部室に来たその日、私は言った。


『雛乃さん、久しぶりだけど聞いてほしいことがあるの』

『なんでも聞きますよ、センパイ~! いつもわたしが話してばかりでごめんなさい! わたし、センパイのお話も聞きたいです~!』

『そう、ありがとう。でも、明るい話じゃないの』

『なんでも言ってください!』

『雛乃さんなら、そう言ってくれると思った』


 私は正面のソファに座る彼女へ、前かがみになりながら告げた。


『実は、あなたを痛めつけたいの』


 は……? とさすがの雛乃さんも、これには面食らっていた。そんな風に目を白黒させる彼女を見るのは、実のところ少し楽しかった。


 奇矯に振る舞う緊張感に乾く唇よりも、普段とは違う一面を見せる雛乃さんに意識が向いて、私の舌はよく回った。


『私にはね、そういう衝動があるの。人を殴りたいのよ。だから誰とも関わらないように、生きてきたのに、もう、我慢できないの。家に帰ってダンボールを殴るばかりの生活なんて、飽きたわ。お願い、雛乃さん。優しいあなたならわかってくれるでしょう? 私にあなたを殴らせて。きっと痛いでしょうけれど、すべてあなたのせいなのよ。あなたが、私に近づくから』


 すべて雛乃さんのせいだと、私はそう言った。私は性倒錯者で、馴れ合うべきではないと警告を発した。きれいで行儀のいい先輩としての化けの皮は剥がれ、さぞかし雛乃さんは失望をしているだろう。


 彼女が理想郷だと思いこんで入ってきたこの部室は、実のところただの地獄でしかなかったのだから。夢から覚めた彼女がどんな表情をするのか、私は間近で見たかった。だから、身を乗り出したのだ。この忘れ形見ぐらいは覚えていても構わないだろう。


『そうですか~』といつもの調子で、彼女は言った。『じゃあ~……殴ってみます?』


 雛乃さんは優しいから、言葉だけでは追い返すことはできないかもしれないと思ってはいた。まさか平然と言い放つとは予想外だったが。まあ、それならそれで構わない。


 私は部室の奥から、かつて誰かが使っていたであろう古びたパンチンググローブを持ってきて彼女の目の前に置いた。いかにも使い古されたように見えていて、私の発言を真実だと立証しているようだった。


『殴るのは好きだけど、自分の手が傷つくのは嫌なの。興味本位ならやめておいたほうがいいわ。泣きを見るわよ』

『そりゃ、こわいですけど~……あはは、でも、センパイがそうしたいなら……』


 どこか媚びたような笑顔を浮かべる彼女に、私は内心毒づいた。いいだろう。そっちがその気なら、後悔させてやろう。本当はやらないとでも思っているのだろう? もう二度と、私の世界に立ち入れなくなるように。愛と幸福だけで形作られた彼女にとって、私が不要な存在であることを思い知らせてやろう。


 彼女を私の前に直立不動で立たせた。肩幅に足を開いて、腕は後ろ。傷まないように髪を結ばせ、ブレザーは脱いでワイシャツだけ。静脈注射を待つように緊張に引き絞られた口元に、無理やり笑みが作られた。


『え、遠慮せずに~、いつもみたいに、ドーンっと、やっちゃってくださいね、センパイっ』


 バッターボックスに向かう打者を見送るマネージャーのように、私を鼓舞さえする。まったくもってありえない。どこまでお人好しなのか。もしかして強盗に襲われてもその相手を気遣ったりするのかもしれない。


 私はぶかぶかのグローブを装着した。ならば構わない。ここで日和ったら逆効果だってのはわかってる。私は彼女の目を真っ直ぐに見た。気圧されたように、雛乃さんは小さくのけぞった。


『いくわ』

『……ど、どうぞ?』


 握った私の拳が、その古びた布越しに、彼女の腹部を殴打する。力いっぱいにハンバーグをこねたような感触がした。手応えは手の血管を通して心臓に悲鳴をあげさせた。


 大変なことをしてしまったと思った。さすがの私も、本気で人を殴ったのは初めてだ。彼女に訴えられたら、私は言い訳も許されず退学にされるだろう。背筋が凍りついた──のも、顔をあげるまでだった。


 雛乃さんは苦しみ悶えていた。体を折って、咳き込んでいた。口の端から唾液を垂らし、涙ぐんでいた。どうして自分がこんな理不尽な目に遭うのだろうと、人を呪うような目をしていた。


 が、それも一瞬のこと。すぐに彼女は私へと微笑みかけてくる。


『こ、こーゆーの初めてです、けどぉ……けっこー、痛い、ですねっ。あっ、でも、わたし、ぜんぜん耐えられますよっ』


 ぞくり。


『そう』


 続けて打った。


 雛乃さんは二発目が来るとは思わなかったのか、一発目よりも大仰に痛がった。彼女のきれいだった光がわずかに薄れ、今まで照らされていた部分にべちゃりと私の体液が付着したような気がした。


 すべては虚言だったはずだ。人を殴るのが好きなのも、あなたのせいというのも。けれど、殴れば殴るほどに私は自分の意志では止まらなくなった、光が、目の光が薄れてゆく。闇だ。雛乃さんに、私の闇が刻み込まれてゆく。一生消えない入れ墨のように、あるいは懇願のように。


 ペットボトルの水をグローブで不器用に開けて飲んだ。汗が止まらなくて、髪が肌に張りつく。人を殴るのは思った以上に重労働だった。文学少女を気取る私には骨が折れる。床に座り込んで泣く雛乃さんを振り返りざまにまた殴った。


 雛乃さんは丸いクッションのように部室内を壁まで転がった。自分から言い出したことで『もうやめてほしい』と言い出せないから、せめてその素振りで許してほしいと思ったのかもしれない。私はやめなかった。馬乗りになって、胸を殴りつけた。腕の感覚はとうになくなっていたのに、不思議と殴りつけた手応えだけは脳に届いた。


 そのとき彼女は私のものだった。他の誰でもない、私だけのものだ。今までこうして彼女を殴った者など、いなかっただろう。私が生まれて初めてで、そして最後の相手だ。己を昂ぶらせる声は、内側から果てなく響いた。


 このまま彼女を壊してしまいたい──と、私が生まれて初めて抱いた他人への狂おしいまでの衝動は、不意に中断させられた。何度殴ろうと思っても、腕が動かなかった。筋力の限界が訪れたのだ。


 静けさが部室をおっかなびっくりと覗き込むように、雛乃さんは顔をかばっていた腕をゆっくりと解いていった。


『セン、パイ……』


 その涙声に。


『……もう……やめて、くださぃ……』


 羽根をもがれた燕のような声に。


『雛乃』


 私は初めて彼女の名前を呼び捨てにした。


『よかったわ』


 雛乃さんはそれ以降、なにも言わなかった。しばらく床に横になってしゃくりあげていた彼女は、よろめきながら立ち上がると、鞄を抱いて部室を出ていった。背を向けて窓の外を眺める私にかけられた声はなかった。


 この日の思い出を胸に、これから一生を独りで生きていくのだろう、と私は思っていた。


 変質したのは──否、させられたのは私だった。


 不可逆で、昨日と同じ私にはもう二度と戻れなかった。



 雛乃さん三日間学校を休み、その翌日、部室を訪れた。



 以降、私はたびたび彼女を殴った。彼女はときに冗談交じりで、あるいは仕方ないと観念して、私にその身を捧げた。一度、部室で粗相をしてしまったときに雛乃さんは子どものように泣きじゃくりながら後片付けをして、さすがにこれでもう二度と現れないと思った私の予想を裏切って、翌日も雛乃さんは部室へやってきた。


 憐憫や、同情や、執着、被虐心、破滅願望。そのどれでもなく、彼女はただ優しかった。私が誰よりも雛乃さんを求めていることを知ると、えくぼのある笑顔でその身を差し出してきた。


『センパイ、わたし以外の人殴っちゃ、捕まっちゃいますからね~?』

『……そんなこと、しないけど』


 一年と二ヶ月が経ち、私は三年生に、彼女は二年生になった。六月の末、私は雛乃さんの底知れぬ優しさの底をどうしても見たかった。


 もはやこれは、私と彼女の意地の張り合いのようだった。




 ***




 曇り空の放課後、私はいつものようにひとり用のソファに座りながら、文庫本を開いていた。雛乃さんは足を伸ばして向かいのソファに座り、うんうんうなりながら課題の暗記問題の教科書を開いている。


 私たちは時々、まるでただの先輩と後輩のように、勉強を教えたり、くだらない雑談をして過ごすときもあった。


「ピアスをあけたいんだけれど」

「えっ、マジですか??? センパイ、耳の形いいから、きっと似合いますよ~!」

「……髪を長く伸ばしているから、耳とか見えないと思うんだけど」

「いやいや、殴るときはまとめるじゃないですか~」

「……ああ」


 確かにそうだ。


 しかし、殴る側と殴られる側が笑い合って話しているこの空間は、我ながらあまりにも異常だ。


「じゃあ、あけてくれる?」

「え~? いいですけど、緊張するなあ~。なにか冷やすものとかあったりすると、痛くないって話ですよね~」

「必要ないでしょ。痛みにはずいぶん慣れているんだもの。あなた」

「???」


 目が合った。彼女は耳を押さえたままのけぞる。私の顔を見て、まるで鬼婆にでも出くわしたように。


「ピアスあけるの、わたしですか!?」

「他に誰がいるの?」

「いやめちゃくちゃセンパイがいるじゃないですか~!」


 私は鞄からピアッサーを取り出して、机の上に置いた。準備が整えてから宣告し、その場でやることもあれば、彼女を怯えさせるために前々から予告することもあった。


「ねえ、ピアスをあけるから」

「え~~と~~……」


 わざわざ調べなくとも、彼女の噂はどこからでも伝わってきた、曰く、バスケ部一の人気を誇るキャプテンに告白されただとか、あるいは家が裕福で礼儀がちゃんとしていることだとか。


 雛乃さんが耳に勝手にピアスをあけたら、怒られるのだろうか。あるいは許されるのだろうか。わからないけれど、逡巡するその態度を見て、私は彼女に詰め寄った。ピアッサーを手に、パチンパチンと鳴らす。


「嫌なの?」


 ここが彼女の限界なのか? わたしはプールの底にタッチするような気分だった。達成感はなく、ああ、そうか……という寂しい納得だけがあった。


 けれど。


「……いいですよ、センパイ」


 髪をかきあげて、雛乃さんがかわいらしい耳を差し出してきた。


「センパイになら、ぜんぜん」


 その瞳の色は深すぎて、私にはまだ深淵が見通せなかった。先に私のほうが限界を迎えそうだ、と私は思った。そしてその予感は、的中した。




 ***




 外には雨が降り籠めていた。梅雨明けはまだ来ない。文庫をめくるふたつの音も、ざあざあという雨に塗り潰されている。鬱屈した空気が蔓延している。先に耐えきれなくなったのは、私のほうだ。優しさの刃物が突きつけられた喉元は、もはや正常の言葉を発することなどできなくなっていた。


「ねえ」

「はぁい?」


 雛乃さんが顔をあげる。私は顔をあげない。その耳に光るファーストピアスを視界に収めたくはなかった。


「あなた、こないだ先生に注意されていたって」

「え、どのことでしょう~?」


 すっとぼける彼女に、私は付き合わない。


「ピアス、校則違反だって言われてるのに。つけっぱなしなのね」

「一ヶ月ぐらいつけないと、穴が安定しないみたいですね~」

「外していれば、いずれ塞がるんでしょう」


 返事が一拍遅れた。


「でも~~……せっかく、センパイにあけてもらった、ピアス穴ですし?」


 そのにやついた声に私は、根負けしたように雛乃さんを見た。目が合った雛乃さんは相変わらずにこりと笑って、私の心に得も知れぬ嵐を巻き起こす。


 やりすぎたと、私は思っていた。ピアスをあけて校則違反をしたとなれば、彼女の内申にも影響が出るかもしれない。


 結局のところ、私は心臓に獣を飼っているだのなんだの言っておきながら、今まで決定的なことばかりは避けてきた。彼女の顔を殴らなかったのだって、きっと誰かにバレるのが怖かったからだ。肉を殴っておきながら、決して骨や関節部には影響が出ないようにセーブしていた。


 私は。


 私の世界を守ることが、できない。


「雛乃さん」

「なんですか~?」


 許されることなら聞いてみたかった。『どうして私に構うの?』と。しかし雛乃さんが私の望む答えを告げることはないだろう。だって、彼女の善性は彼女が意図してやっていることではないのだ。理由なんてなくて、雛乃さんは誰にでも優しい。その中で雛乃さんがかまってくれるのは、雛乃さんの知っている限り、きっと私が一番『可哀想』だからだ。


 人を殴ることでしか衝動を発散できない私のために、彼女は付き合ってくれている。最初は演技のはずだった。でも今は違う。私はどうしても彼女を殴りたい日に、自分を押さえられなくなっている。そんな私を哀れんで、彼女は優しくしてくれている。私は彼女じゃないとだめなのに。


 私は自分が本当はなにを望んで、なにを欲しがっているのか、わからない。優しすぎる彼女に支配されているのは私のほうだ。雛乃さんが手のひらを返すその日まで、私の行為は『彼女に甘えてる』などという低俗な言葉にラッピングされ続ける。


 限界だ。


「雛乃さんは」


 あなたは。


 私のことをどう思っているの?


 聞いたところで、雛乃さんは『センパイはセンパイです』としか答えない。光の照らされた空間に遮蔽物はあってはならない。影なき彼女の心は、どこまでも見晴らしがよかった。私とは違う。


 彼女が私と同じようになれば、私にも雛乃さんの気持ちがわかるようになるのだろうか。


 立ち上がった。私がグローブを身につけていないから、雛乃さんは身をすくめることもない。ソファの隣に座る。怪訝そうに見つめるあなたに、私は。


 そうだ。傷つけることでしか、私はあなたに自分を見てもらえないのだ。


「……肌、きれいね」

「え? せ、センパイに褒めてもらえるとか、なんか、びっくりですね! もちろん嬉しいです、けど」


 頬を撫でる。いつも殴っているはずの彼女の体なのに、まるで初めて触れるように暖かかった。これが、布を隔てることのない、生の感触なのか。


 知らなかった。私は。


「きょうは、こういう趣向でいきましょう」

「ええ~? なんですか、いつも健気な雛乃ちゃんのために、ご褒美ですか~?」

「そうかもね」


 胸元に顔をうずめる。汗の匂いもしなくて、柔らかい。雛乃さんの香りだ。力を込めると、雛乃さんは簡単にソファに倒れた。私はその上に覆いかぶさる。馬乗りになって、初めて殴らずに身を寄せる。


「せ、センパイ……あの、これ、どーゆー……?」

「雛乃」


 私は両手を彼女のワイシャツの中へと差し込んだ。なめらかな腹に、きょうはアザもない。手のひらでまさぐる。これをもしかしたら今まで触れたことのある誰かがいるのかもしれないと思うと、目の奥がツンとしてきた。より行為に熱が入る。


「く、くすぐったいですよ~? わたし、くすぐったいのは弱いかもですけど~……」


 私はまるで壊れ物を扱うみたいにおそるおそる指でなぞっていた。いつも殴っているから、こんなことで彼女がガラスみたいに砕け散ったりはしないって、わかっているはずなのに。


「雛乃」


 そっと体を倒して、彼女のあけたばかりのピアスに口を近づけた。その耳たぶを舐める。「ひゃんっ!」という声が近くでした。下腹部のうずきが身悶えた。手を雛乃さんのスカートから伸びた脚に触れる。その感触はたまらなく、艷やかだ。雛乃さんは異性からみても明らかに魅力的で、私の動力を助長する。


「あ、あの~……せ、センパイ……」


 何度めかの声に、私は雛乃さんの目を見た。まつげの長い二重の瞳。そこには明らかな戸惑いがあった。いつもみたいな笑顔はあっという間に消え去り、少女のように彼女は震えていた。


「ほんと、これっ、どーゆー……」


 殴ったって、支配したって、彼女は私のそばを離れない。


 なら、もう、心を傷つけるしか、ないじゃない。


 唇をその顔へと近づける。火照って、けれど怯えの混じった瞳が、私を拒む。顔を横に傾けて、彼女は首を振った。駄々をこねるように。


「や、やです……こ、こんなのは、やですっ」


 明確な拒絶は初めてのことだった。私はこれが見たかったはずなのに。親に初めて怒られた幼女のように、私の心は波打った。


「せ、センパイっ、おねがいだから、やめてくださいっ……こーゆーのは、だめ、だめですっ……他のことなら、なんでも……」


 乾いた声が漏れる。


「どうして」


 あれだけ散々殴ってきたのに。どうして今さらそんなこと言うの。どうして。いいじゃない、別にこれぐらい。お願い、ここでやめさせないで。私はもっとあなたに触れていたい。やはり傷ついてでも、素手で殴るべきだったのかもしれない。


 そうだ。別に痛いことをするわけじゃないし、先生に怒られるようなことをするわけでもない。ただ、肌と肌を直接触れ合わせるだけ。それなのに、どうしてそんな顔をするのか、私にはまるでわからない。


「わ、わかんないんですか……? センパイ……」


 わからない。


 雛乃さんは、微笑んだ。


 獅子の母が我が子を守るために抗うような笑顔に見えた。


「だって、こーゆーことは……す、好きな人と、するもの、じゃないですか」


 私はぴたりと止まった。なにも言えなくなって、頭が真っ白になった。彼女は私のことが好きではないと、そうはっきり言ったのだ。直後、雛乃さんが精一杯の抵抗をして私を突き飛ばす。ソファから落ちた私の前、雛乃さんは慌てて衣服を整えた。


「しっ、失礼します!」


 思い出したようにお辞儀をして、雛乃さんは部屋を出ていく。私は取り残されて、今にも雨が染み込んでくるような天井を見上げた。


「……好きな人?」


 わからない。当たり前だ。だって私はとっくに許されないことをして、雛乃さんを何度も泣かせてた。けれど殴っても殴っても雛乃さんは私のそばを離れずに、微笑んでくれて、私は彼女を追い出したかったはずなのに、なのに。


 拒絶されただけで、どうしてこんな気持ちになってしまうのか。本来ならば、最初からそうだったはずだ。どうして、どうして窓を叩く雨が、私の目からこぼれ落ちてしまうのだろうか。


 床を濡らす。私は独りぼっちだった。もともと誰にも期待せず、ひとりの世界で生きていたのに。


 彼女なら受け入れてくれるとでも、思っていたのか。愛のない行為はあまりにもあっけなく見破られ、一蹴された。残ったのはどこまでも惨めな女ひとりだ。


「私は……」


 この気持ちにもし名前をつけられるのなら、雛乃さんに正しく伝えられたのかもしれない。


 けれど、わからなかった。好きでも、愛しているのでもなかった。傷つけたいわけでも、嫌っているわけでもない。ただ雛乃さんのことを見ていたかった。私の横で笑っていてほしかった。言葉を交わしたかった。声を聞きたかった。毎日、部室に来てほしかった。それが叶わないのなら、私のことなど一生忘れてほしかった。もともと出会わなければよかった。出会ってしまったのなら、もっと構ってほしかった。私に寂しさを教えた責任をとってほしかった。だってすべては、あなたがいたから。


 彼女の笑顔を見ていたかった。もっと喜ばせてあげたかった。私が間違ったことをしたときには、叱ってほしかった。私が泣かせたのに、どうして申し訳なさそうにするのかがわからなくて、本当はその頭を撫でてあげたかった。甘やかしたあとにはその期待を裏切って、壊してやりたかった。相反する無限の言葉を並べることでしか、私は私の気持ちを表すことができなかった。


「雛乃さん」


 この一年と二ヶ月は、きっと楽しかった。雛乃さんにとっては地獄のようで、忘れ去りたい思い出になってしまったことを、私は今さらながら謝りたかった。


 けど、後悔はできない。なにもしなければ、雛乃さんは私のことなど忘れて、今ごろどこかの違う友達と仲良くなり、やがて部室には来なくなってしまっていただろう。傷つけるだけでも、ゼロよりはよっぽどよかった。私はただひとつ、彼女を繋ぎ止めることにだけ成功していたのだ。


 そのひとつの事実をもって、ならば改めて言葉にしよう。


 私は。


「あなたに、そばに、いてほしかった」


 雨が降り止んでもなお、私の涙が枯れることはなかった。







 ***



 雛乃さんはいつも、私の予想を裏切るのだ。


「なんで」


 昨日の雨が嘘のように晴れ渡った翌日も、雛乃さんは部室にやってきた。きょうからずっと独りきりを覚悟していたはずだったのに、いともたやすく。私はこれから一生人と共にいることはないだろうと己を呪った言葉は、あっけらかんと砕け散っていた。


「……だめなんですからね、センパイ」


 警戒するようにドアを背に立ち、いつもとどこか違うよそよそしさで私に尖った目を向けてくる。なにかを責められているようだが。


「あーゆーこと……恋人同士ですることなんですから。私とセンパイは別に、違うんですから~」

「ええと」


 夕食前にお菓子を食べたばかりの子供を諭すような口調で言われたところで、どこまで本気なのかわからない。いや、雛乃さんはいつだって本気なのだけど。


「ごめん」


 頭を下げる。


「ほんとーに反省してます~?」


 腰に手を当てた雛乃さんが近づいてくる。私は言葉を失ったみたいに、なにを言えばいいかわからず、もう一度「ごめん」と繰り返した。それだけで、雛乃さんは満足していた。


「ま、いーですけど~? ほんと、センパイは仕方ないんですから~」


 その瞳に浮かんだ期待の眼差しは、いったいどんな意味があるというのか。私は、薄々勘付きながらも、自らの考えを否定する。


 先に待ちきれなくなったのは雛乃さんのほうだ。彼女は定位置のソファに腰を下ろして、靴を脱いで両膝を抱えた。その膝の間から私を見やる。顔は赤くなっていた。


「まったくも~……センパイ、わたしのこと好きなら好きって、ちゃんと、言葉に出して言ってくれないと……びっくりするじゃないですか。真剣に、言ってくれたらわたしだって、考えるんですから……ね、センパイ、もう一度、やり直します?」


 反射的に『いや』と言いかけて、私は口をつぐむ。私には、違うかどうかすらわからないのだ。でも、もしかしてとは思う。好きだと言えば、雛乃さんは私のそばにいてくれるのだろうか? 傲慢な考えだ。


 私が許されることなどない。私はずっと雛乃さんを傷つけてきた。その罪悪感と引け目がある限り、私が雛乃さんに歩み寄ることはきっとない。彼女が近づいてきたときに、突っぱねられるかどうかは別の話として。


 だから。私は自分の家を忘れた迷子のような気持ちで、言葉を探した。


「まさかとは思うけれど、雛乃さん。あなた、殴られるのが好きってわけじゃないわよね」

「まさか! さすがにそんなヘンタイじゃないですよ~! センパイじゃないんですから。でも、センパイがケーサツに捕まっても嫌ですし……」


 一応、その程度の情けはあるようだ。まったくもって自分が情けない。私が彼女を支配していたときなんて、本当は一秒もなかったのではないかと思い知らされる。ずっとずっと、支配されていたんだろう。ならば、お互いの立場もそれにふさわしいものに変えたほうがいい。


「雛乃さん、そういえばなんだけれど」

「は~い?」

「たまには私のことも殴ってみない?」


「──え!?」


 私はグローブを彼女に放り投げる。雛乃さんは慌てながら受け取って、グローブと私を交互に見つめていた。


「例えばの話だけれど、私が人に殴られるのも好きだって言ったら、どうかしら。あなたは、疲れることは嫌い?」

「……それ、ほんとーの話ですか?」

「もちろん」


 もちろん嘘だ。


 あるいは雛乃さんもまた、嘘だとわかっていたのかもしれない。だとしたら、帳尻を合わせるために、彼女は断らないだろう。雛乃さんは、あまりにも優しすぎるから。


 だけどこれで、私が答えを探すための時間はたっぷりと稼げる。雛乃さんは首を傾げながらもそのグローブをはめた。先日、私に押し倒されながらも他の頼みならなんでも聞いてくれると言ったばかりの雛乃さんは咳払いして、私を前に立たせる。


「センパイ、細いから殴っちゃったら、折れちゃいそうなんですけど~……」

「別に折れたところで、まあ。素手で殴ってもいいわ」

「いやですよ、手が痛くなりそうですし……あ~あ、センパイってやっぱり、頭おかしーですよね~……」

「今さらでしょ」


 確かに、と言って雛乃さんは控えめに笑った。


「殴られるより、殴るほうが、なんか、緊張しますね~……」


 沈黙を埋めるようにつぶやいた雛乃さんが「それじゃあ」と言って、拳を振りかぶった。




 瞳に星が散って、私は情けなくも痛みに失神しそうになってしまったのだけれど。


 一瞬垣間見た光景は、私と雛乃さんがベンチに座って、お互い少し今よりも大人になって、いろんなことをちゃんと清算して、笑いながらお話をしている──そんな優しくて幸せな未来だったような気がした。


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シュークリーム ~あなたに響く百合短編集~ みかみてれん(個人用) @teren_mikami

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