最終話 再会の言葉は、嘘
*
「わざわざ劇を観に来てくれ、って言うから足を運んでみたら、まさかこんなことになるなんてな」
穂積君は私の顔を見つめながら、どこか複雑そうな表情を浮かべて言った。私は観客の消えた会場の末端の席に座り、俯いて震えているしかなかった。
「あのまま俺は劇が終わるのかと思ってたよ。それが、突然加奈子さんが現れて本を朗読し始めるんだ。あれには驚いたよ」
穂積君は肩を揺らせて笑い、私の背中をぽんぽんと叩いてくる。私はただ「ごめんなさい」と繰り返し謝った。
あの時は、どうしても物語の続きを知ってもらいたくて、あんな手段に出てしまったのだ。本のことになると見境がなくなってしまうのはいつものことなのだけれど、まさかあんなことになるなんて自分でも予想していなかった。
即興で俳優達が劇を演じて何とかラストまで漕ぎ付けたから良かったものの、あのまま滔々と喋っていたら野次が飛んでいたかもしれない。
それでも、ここまでやっても後悔は全くなかった。私は観客の人達にあの物語のラストを伝えることができた。それだけでもう、自分の恥など全く忘れてしまえるほどに幸せだったのだ。
穂積君は私から視線を外すと、まっすぐにステージを見て、ぽつりとつぶやいた。
「まさかこの作品が劇として上演されることになるとは思ってもいなかったよ。この本をあの図書館に置いたのは、それほど大した理由があった訳じゃないんだ。ただこの本を誰かが読んでくれて、それでその人が何かを感じてくれればいいと……結局そんなことしか思っていなかった」
私は穂積君を見つめ、薄っすらと青白く色づいた彼の頬を手で擦った。彼は加奈子さん、とつぶやき、そしてどこか憔悴しきった顔でこちらへと振り向いた。
「俺のおやじは笹山一樹と言って、全く無名の小説家だったんだ。あいつが書いた作品はどれも幸せ一杯の現実とはかけ離れた虚構の中の虚構だった。たぶんそのギャップが読者を惹きつけなかったんだと思う。それに比べて、俺が書く作品はとにかくリアリティを重要視している。あいつみたいな甘ったるい文章はどうしても書けない性質なんだ」
そう言って、穂積君はどこか言い淀むような様子を見せてから、そして言った。
「あの本を書いたのも俺だ。普通に小説家として仕事をもらってるし、おやじの作品を手直しして本にすることぐらい訳もないことだった。ただ、積木正太郎が書いた本だと誰かに悟られはしないかと心配だったんだ。文体までは変えることができないからね」
私は「……穂積君」と言って、そして溢れ出てくるその想いを言葉にした。
「私はこの本を読んで、あなたに真っ先にその言葉を伝えたかったの」
私にこの本を届けてくれて、ありがとう。
すると、穂積君は目を見開き、そして何か苦しそうな声で呻いた。私はそっと微笑み、彼の腕を握った。
「積木さん。あなたの想いはちゃんと私達の心に届いているわ。お父さんの作品を大切に想い、そして彼ができなかったことをあなたの力で成し遂げようとしたんでしょ? あなたの力はお父さんの作品を救ったのよ」
加奈子さん、と穂積君は声を漏らして、歯を食い縛って俯く。そして、「俺は」とつぶやいた。
「おやじの絵本が誰の目にも触れずに葬り去られるのに耐えられなかったんだ。俺だったら、この作品のレベルを何段階にも上げて、すごい傑作にできると信じていたから。傲慢な話かもしれないけど、だけど俺は――」
そこで彼は唇を噛み締めて拳を握り、その想いを必死に押し留めようとしているようだった。
「あきらめたくなかったんだ。だから、学内見学で訪れてあの図書館に行った時、こっそりと本を置いた。おやじが通っていたこの大学なら、きっと理解してくれる人がいると思って」
そうして彼は額を抑えて嗚咽し、「だから、本当に嬉しいんだ」と途切れ途切れになりながらも必死の言葉で語った。
私はうなずいて、「穂積君にね、見てもらいたいところがあるんだ」と言った。彼は乱暴に目元を拭い、「何だよ、説教でもする気か?」と健気にも笑ってみせた。
「あなたのお父さんが残した遺産が、まだ残っているのよ」
そうして私は「古書店に、ね」と彼の手を握って立ち上がった。
彼は私がバイト先まで来て欲しいと言うと、途端に顔をしかめて、「そこに何かがあるのか?」と動揺を抑えているようだった。
「そこに行けば、必ずあなたの求めているものが見つかるから」
「なら、行くよ」
穂積君はうなずいてそのまま立ち上がり、私に案内するように促してきた。会場を出るともう既に人の姿はなく、路上ライブをしているのか、どこからか歓声が聞こえてきた。
私は彼の手を引いて大学を出ると、そのまま電車に乗った。移動している間、彼はずっと悔しそうな、複雑そうな表情をしており、時折私へと視線を送ってくる。
私は頷き返しながら、自宅近くの最寄り駅へと降り、そのままバスに乗った。そうして二つ目の停留所で降りた。
真夏の輝く太陽が雲の隙間から顔を出し、私に何かを囁いてくるような感覚があった。それは自信を持って、と私の背中を押してくれるようでもあった。
ようやく古書店に辿り着いた時、彼の口からはどんな言葉も漏れてこなくなった。
店先に札がかけられていて、特集 笹山一樹という文字が掲げられていた。私が彼に声をかけようとした時には彼はそっと店に踏み込んで、階段側のスペースに並べられた本をじっと見つめていた。
何でこんな場所に、と穂積君は未だその事実が信じられないように、恐る恐る一冊の本をつかんだ。
そうしてページを捲り、彼は顔に近づけてその文字を食い入るように見つめている。それを目にして、ようやくこの情景が嘘ではないと悟ったように、「おやじの本がこんなところにあるなんて」とうわ言をつぶやいた。
私は彼の隣に立ち、そこに並べられた一冊の絵本を手に取って開いた。そうして読み上げる。
「彼と彼女は再び出会いました。再会の言葉は嘘ではなかったのです」
冒頭のその一文を読み上げた瞬間、彼の体がふらりと傾き、彼は地面に手をつきながら、本を握り締めて嗚咽し始めた。
おやじ、と繰り返しながらその本を胸に抱き、涙を流し続ける。私はその涙が喜びによるものだとわかっていたので、何も言葉をかけることはせず、ただ彼の背中を擦ってあげるのだった。
あの時、穂積君がそうしてくれたように、今度は私が彼の涙を拭い取ってあげるのだ。彼の瞳は、今は亡き店主が作った特設コーナーへと据えられており、一つの棚をすべて笹山一樹の説明で埋め尽くし、彼の著作を丹念にポップで紹介したその熱心なファンレターに、どんな言葉も出てこない様子だった。
笹山一樹が遺した著書の数々は、今でもこうして人々の目に留まり、新たな物語を作り出しているのだ。彼の残した最愛の息子が再びこの本を手に取って、そして涙を流すその瞬間を、彼は今、どこかでじっと見ているのだろうか。
私は胸を覆うこの晴れ晴れとした気持ちをどう表現したらいいのかわからず、ただ「ありがとう」とつぶやいていた。
私達の言葉はこの作品を何回だって蘇らせることができるのだ。その事実に、いつまでもいつまでも心を震わせ、さらなる物語に惹かれていく。
*
その作品『再会を信じて』のラストには、二人が再び巡り合い、そして永遠の愛を誓い合うというシーンがあった。彼は彼女のことを忘れられずに、心の中でずっと想い続け、この愛が叶うことがないのならば、いっそ死んでしまった方がいいと悲観する。
そうして彼女と出会ったその丘に向かい、そこで夕陽を受けて佇む彼女の姿を見つけるのだ。
「如月さん」
彼が彼女の背中に向かってその名前をつぶやくと、彼女が振り返って、彼の名前を呼び返す。
彼らは歩み寄り、そしてお互いの手を握り合って囁き合うのだ。
「やはり、私達は再会する運命にあったんだ。どうしてもこの命はあなたと結びついて、惹かれあう関係にある。もう夢を見ることはやめよう。私はあなたとただ言葉を交わしていたいんだ」
「こうして再会したのだから、もうお互いの想いに嘘をつくことなんて真っ平ごめんだわ。ただ私達は繋がっていればいいの。そのことに気付くのに何年かかったのかしら」
そうして、「どうか、永久(とこしえ)に」と二人は共に語り合うのだ。
二人は永遠の愛を誓い合う運命にあったけれど、それをどうしても私は受け入れることができなかった。
だって私は、『彼女』と運命を共にすることはできないのだ。あの言葉はすべて嘘で、覆すことなどできないと私の言葉で伝えなくてはいけなかった。
この物語のように、私は再会の言葉を受け入れることはできない。だから――。
文化祭が終わり、あれだけ歓声に溢れていた校内は静まり返って、期待に満ちた声で語り合った生徒達は冷めた様子を見せるようになった。夢から醒めてしまったような、そんな白けた空気が漂っていた。
蘭と咲も、自分達のサークルの出し物で疲れ切っているらしく、今日は授業を休んで昼寝をしているという報告があった。私もあの本のことで協力してもらったので何も言うことはできず、ただ授業をぼんやりと聞いていた。
あれだけ胸を焦がして奔走したのが嘘のように、元の平凡な日常が戻ってきてしまった。
「再会を信じて」は今でも私の心に深く根付いているけれど、完結を目の当たりにして、私の中で一つの区切りがつき、前ほどに思い悩むことはなかった。
古書店の店主が残してくれたプレゼントを目にする度に、私は何度もその作品に想いを馳せて、これからもあの作品の現在の作者、穂積君を支えていきたいと思っている。
穂積君は今でも小説家の仕事を頑張っているし、ぎくしゃくとした兄妹仲も私が彼らを元気付けることで少しずつ良くなってきている気がする。すべては順調にあるべき姿へと戻り、私を優しい世界でほっとさせてくれるのだ。
それでも、まだ私にはやり残したことがあったから。
私がノートを取っていると、傍らに座っていた登美子さんが「ねえねえ」と話しかけてきた。あの飲み会で本を探す約束をしてから、彼女もたくさんの協力をしてくれた。そのことで私は恩を感じ、頼られる度にすぐに頷いてしまう癖があった。
「今日これから映画観に行くんだけどさ、一緒に行こうよ。ほら木月卓也が出てるやつ」
私は苦笑して、そして教授に悟られないように声をひそめながら言った。
「ごめんね。今日これからすごく大事な用事が入っちゃって」
登美子さんは「えー」と不貞腐れたような声を出したけれど、こればっかりは無理な話だった。
授業が終わって講義室を出ると、いつか昼食を共にした二人の男子学生が声をかけてきた。「加奈子さん加奈子さん、これから映画観に行かない?」「ほら、木月卓也が出てるやつ!」と興奮した様子で言った。
登美子さんが「あのね」と何かを言いかけるのを私は手で制し、「私、実はお付き合いしている人ができたんです」と言った。
「「なッ」」
彼らは体を仰け反らせて、そしてその途端詰め寄ってきた。
「どういうことなんだ、相手の男とはもう……」
「知り合いの高校生なんですけれど、とても優しくて」
ではこれで失礼します、と私は頭を下げ、彼らの横を通り過ぎていく。
「見てよ、あの顔。私の加奈子ちゃんに手を出そうとした罪よ」
登美子さんは「ふん」と鼻を鳴らして、そのまま中央校舎の前で別れた。去り際に登美子さんは「年下もいいわよね」と笑って歩いていった。私は彼女を見送った後、いつか『彼女』と話したその場所へと向かって歩き出した。
どうしても彼女にその言葉を伝えて、すべてを終わらせなくてはいけなかった。私が今まで彼女を無遠慮な言葉で騙し苦しめた罪を、今清算して償う必要があるのだ。
私が彼女を追いつめて、誰かを愛することをやめさせてしまったのだ。だから、この囚われを消し去る言葉を、私が紡ぎ出す必要がある。
私は図書館へと足を踏み入れて、彼女がいる窓際の席へとまっすぐ歩み寄っていった。香奈さんはいつものように優しげな微笑みを浮かべて参考書を開き、鉛筆を走らせていた。
その窓辺には淡い黄金の日差しが舞い込み、その一帯が煌めいているようだった。その中心に彼女がいて、輝く太陽の中に髪が踊っているような、そんなどこか幻想的な情景が広がっていた。
私は歯を噛み締めてその決意を確めた後、彼女の肩にそっと手を置いた。彼女の体が震えて、そっとこちらに振り返った。
「……先輩」
香奈さんはどこか戸惑ったような瞳で私を見つめ、そして何か言葉を探しているようだった。私はただ彼女の頬にかかった髪を掬い、「これから少し話したいの」とつぶやいた。
香奈さんは目を見開いて数秒間私をじっと見つめてきたけれど、やがて俯き、「はい」と震える声を絞り出した。すぐに席を立って、鞄に参考書を入れ始めた。
「もう気持ちは吹っ切れた?」
私がそう聞くと、香奈さんはふっと自嘲げに笑い、「そんなはずないじゃないですか」と言った。
「私は彼のことを絶対に忘れられないんです。この呪縛はきっと彼にしか解けないはずだから」
香奈さんはそう言って私へと正面から体を向け、「で、どこまで行くんですか?」と首を傾げてみせた。私は短く息を吸った後、決然とした表情で言った。
「あなたが知っている場所まで案内するわ」
香奈さんの手を取って、私は歩き出した。すると、香奈さんはどこか怯えたように「先輩。手、痛いです」と言った。けれど、私は立ち止まらずにそのまま図書館から出ていき、大学の外へと彼女を引っ張っていく。
香奈さんは震える声で、必死に「先輩」と呼びかけてきたけれど、私のその尋常ではない力に震えている様子だった。しかし、徐々にそっと私の指を優しく握って動揺を宥めてくれた。
私は香奈さんのその澄んだ眼差しに心が少しずつ平静に近づいてくるのを感じ、そっと彼女の手を離して、「ごめんね」と笑った。
けれど、彼女の顔を見ることはできず、大学の正門を潜って、そのまま無言で駅に向かって歩いた。香奈さんは何も言わずに前だけを見据えている私に、何か問いを投げかけることもなく、ただそっと後ろをついてきた。
私は香奈さんのその優しさを理解しながらも、心は色々な感情によってぐちゃぐちゃにかき回されて、叫び出しそうだった。
そうして電車に乗って一時間程移動し、ようやくその駅に到着して、香奈さんは頭上に掲げられたその駅名を見ると、喘ぎ声を漏らした。
「どうして……」
香奈さんはそうつぶやいて私の顔を見つめ、強く縋りついてきた。そして、「もしかして、こないだの言葉は本当だったんですか?」と必死に腕をつかんで揺すってきた。
私はそこで大きく息を吸って、そしてそれまでの想いをすべて吐き出した。自分を信じてその言葉をつぶやいた。
「これから、すべての真実を説明するわ」
香奈さんが「本当ですか」と目元に涙さえ浮かべて言うと、そっと私は彼女の両手を握って優しく振ってみせた。
「香奈さん。私が何を言っても、決してすべてを投げ出したりなんかしないと約束してくれる? 私はいつも懸命に自分と向き合っている香奈さんが大好きなの。その想いをどうか忘れないで」
私がそう語ると、香奈さんは興奮する気持ちを抑えるように、いつものような落ち着いた表情で大きくうなずいてみせた。そして「私をそこまで案内して下さい」と真剣な瞳を向けてきた。
私は小さくうなずいて、彼女の手を引いて歩き出した。一歩足を踏み出す度に、心臓に杭が打ちつけられるような、そんな恐怖が私の心を覆い尽くそうとする。
けれど、今の私にはたくさんの人々の心が溶け合い、あの作品の力強い脈動が臆病な私の心を後押ししてくれるのだ。あともう少し頑張ろう、と自分に言い聞かせることができた。
そうして駅を出て自然公園に入り、私はゆっくりとそのゆるやかな坂道を登っていった。歩を進めるうちに香奈さんの息遣いが静かになり、私の指を握るその手の力が強くなっていく。
そうして私の前にその場所が現れた。日差しが燦燦と照りつけるその丘の上に、一つのベンチがあった。そこで、かつて私が香奈さんと交わした言葉の一つ一つが私の胸に押し寄せてきて、私は唇を噛んだ。
そっとそのベンチへと歩み寄り、香奈さんへと振り返った。
「香奈さん」
私が目を逸らさずにそっとつぶやくと、香奈さんは打ち震えながらも「はい」と小さく返答した。私はそっと彼女の手を取り、自分の胸元に近づけた。彼女の指にリングをはめる男性のように、その手をじっと見つめて、そしてその声を絞り出した。
「香奈さん。あなたの願いはもう、聞き届けられることがないの」
香奈さんの口から、ただ小さな呼吸音が漏れ出し、表情を全く動かせることなくただ私を見つめてきた。私は彼女の手を胸元に置き、そして言った。
「何故なら、彼はもうこの世に存在していないから」
香奈さんは何か声を漏らして、そして私を感情のない瞳でじっと見つめてきた。そして視線を彷徨わせ、最後に体をふらつかせて額を抑えた。
「嘘ですよ、それは」
香奈さんがそうぽつりとつぶやき、顔を上げた時には彼女の頬は透明の雫で光り輝いていた。私は彼女の手をぎゅっと握り締めて、ただ首を振った。
「本当よ。だってあなたの知っているその人は、元々『いなかった』の」
香奈さんは私のその言葉に、すべての言葉が頭から抜け落ちてしまったように、口を開いたまま硬直している。その瞳から流れ出していく涙が止まり、ただ「何で」と彼女はその疑問を口にした。
「言葉通りの意味よ。彼はこの世に元々存在していなかったの。だって、その人は――」
他ならぬ、私だもの。
私がその言葉をつぶやいた瞬間、香奈さんは私の顔を食い入るように見つめて、そうして何かを悟ったように呆然と声を漏らした。
「私はね、香奈さん――あなたと再会した時、どうしても追いつめられているあなたを救いたいと思って、あなたの心を支える人になりたいと思ったのよ」
「だって、先輩と会ったのは最近で……どうしてあなたが……」
「それよりもっと以前に、私とあなたは会っているのよ。じゃあ見ててくれる?」
私はそっと手を髪へと伸ばして、腰まで届いたその長い房をかき集め、そしてバックから取り出した帽子を被り、その中に髪を押し込んだ。
「どう? こうすれば、わかるわよね?」
香奈さんは私の顔をじっと見つめて、それまでの違和感が全て形となってその事実を浮かび上がらせたように「信二さん」とその名前を呼んだ。
「ある事件によって私は幼い頃から、一緒にいた妹と生き別れてしまったのよ。私はその妹をずっと探していた。そうして血の滲むほどの努力をしてようやく十六の春に見つけ出して、そしてまた一緒に暮らそうとあなたの前にやって来たのよ。だけど、」
香奈さんは事件の傷跡によって憔悴しきっていて、もう私の言葉など聞けないほどに、追いつめられていた。私のことなどわからず、香奈さんが立ち上がれなくなるのではないかと私は身を切られる想いでその考えを導き出したのだ。
「だけどね、男として、あなたの恋人になろうとしたの」
香奈さんがその場に崩れ落ち、私の顔に視線を縫い止めたまま、動かなくなってしまう。私は唇を噛み締め、自分の腕を強く握り締めて言葉を続けた。
「あなたが誰かに心を開いてくれれば、それであなたの心は救われると思ったから。だから、私は彼になって、あなたと一緒にいることにしたの」
香奈さんはもう心が空っぽになってしまったかのように、体から力が抜けて私を人形のように見つめていていた。私は頭を下げ、そして言った。
「でも、あの数ヶ月を一緒にあなたと過ごして、これはどうしようもなく残酷なことだと悟ったの。あなたを騙して、叶うことのない恋にあなたを巻き込んで、それで心をかき乱して……。だから、最後にあなたに別れを切り出した時、あなたの心が壊れないように嘘の約束をしたのよ」
――大丈夫、いつか必ず戻ってくるから。……君が一人で生きていけるような気丈な心を持てたなら、その時必ず迎えに行くよ。僕らは一緒になれるから。約束するよ。
あれはなんて最悪の決断だったのだろう、と思う。香奈さんを期待で縛り付けて、それだけを祈って生きさせることに繋がったのだ。だから、私はその囚われをすべて葬り去らないといけない。
「でも、私は彼とただ会いたかったんです。彼がこうして戻ってきてくれれば、」
「駄目よ」
私は彼女の言葉を掻き消し、そしてしゃがみ込んで、彼女の肩に手を置いた。
「あなたはこれから、一人で決断して生きていけるようにならなくちゃいけないわ。もう誰にも選択権を譲ってはいけないの。すべて自分の選択で、自分と向き直って生きていきなさい、香奈」
私があの本とは違った別のラストを目前にしてその言葉を口にすると、香奈さんは「嫌です」と泣いて首を振った。
私は彼女の額に自分の頬を打ち付け、そして言った。
「彼はもうあなたの前には現れないから。あの本のように、二人が再会して永遠の愛を誓うことは最初から叶うことのない夢だったの。それよりあなたは次の恋を探せば良いわ」
「次の恋なんて……何言ってるんですか。私には彼しかいないんですよ」
私は短く息を吸い、そして大きな声で言った。
「その囚われを自分の手で打ち破るの。もう私はあなたの前には現れないから。でもね、これだけはわかって欲しいの」
私は額を触れ合わせ、彼女の肩に手を置いて言った。
「私はただ残酷にあなたの心を踏みにじって、勝手に別れを切り出すんじゃない。あなたがあなたの足で地に立って歩めるように望んでいるから。だから、もう彼の後を追うのではなく、自分で生きることを決意しなさい。それがたぶん、あなたの――」
『彼』への最大の想いとなるはずだから。
香奈さんの肩から力が抜け、彼女は地面に手をつき、ひれ伏した。私はゆっくりと彼女から離れ、そして立ち上がった。
そうして一歩、また一歩と後ずさっていく。
「加奈子さん。私は、ただ彼のことを見ていたいんです」
香奈さんが砂を固く握り締めて、地面に倒れ伏したまま言った。
「でも、彼がいないのなら、私は彼の言葉に従って歩いていくだけです。一人で地に立って歩いていきますよ。それが彼の言葉なら、私は再会の言葉を反故にされても歩み続けますから」
私は足を止めようとするけれど、そのまま彼女に背を向けて歩き出した。私の瞳から丸い雫が落ちていき、地面に染みを作った。
「私は絶対に彼を忘れません。でも、一人で歩いていくんです。彼の言葉を自分に刻み付けて生きていくんですよ。絶対に。絶対に……」
香奈さんの言葉は涙で原形を残さないほどに掠れ切っており、でもそこには血の滲むほどの決意が篭められていた。
私はふっと微笑み、彼女に「さようなら」とつぶやき、そして最後にその言葉を残した。
――どうか、永久に。
香奈さんの言葉とそれは重なり合い、二つの言葉が溶け合って夏の名残となり、空に銀色の軌跡を残した。私は走り出し、自分の顔を腕で擦って必死に涙を拭って、泣き続けた。
喚き散らしながらも、何度も香奈さんの幸福を願ってやまなかった。それが私にできる香奈さんへの、せめてもの罪滅ぼしなのかもしれなかった。
そうして私達は別れて、あの日の約束は果たされることがなかった。
しかし、私達の前には確かな道しるべがある。それはあの作品なのだ。再会を信じて、まっすぐにその道を歩み続けた彼らをあの物語で知り、私達はまたいつか、再会できる日が来るかもしれないと信じている。
彼女がもう彼のことなど忘れてまた新たな人と出会って、そしてその囚われから抜け出した時――私はまた彼女の元を訪ねようと思う。
その日が来ることを、私はこの本を読む度に、何度だって夢見ることだろう。再会の言葉が、真実となる日を信じて、ただ私は自分の道を歩み続けよう。
だから、そう――。
再会の言葉は嘘なんて、もう言わないことにしようと思う。
再会の言葉は、嘘 御手紙 葉 @otegamiyo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます