第3話
その本のストーリーは、男性が愛する女性に必死の想いで別れを告げ、彼女から離れていくことに耐え切れなくなり、再び二人の恋愛が始まるという内容だった。
彼は彼女が自分にとって絶対に必要な存在であることを悟り、彼女に永遠の愛を誓うのだ。そうして想いが通じ合い、新たな道を歩みだしていく。私はこの作品を読んで、オーソドックスな内容が気にならない程に、心情描写が優れていることに気付いた。
その言葉はまるで劇中で俳優が語るように臨場感があり、周囲に情景が浮かんでいつの間にか作品の中に入り込んでしまうような、不思議な魅力があった。
この魔法のような作品に出会うことができて、私は本当に何度だって読み返してしまうほどに、夢中になっていたのだ。
いつまでもこの作品に触れていたい――そう思ううちに、どうしてもこの物語の続きを読んでみたくなってしまう。
そうして来る日も来る日もその作品に思いを馳せ、やがてどうしようもなく狂おしい感情へと繋がっていくのだ。
その日も私は大学からの帰り道、あの本のことについて考え続けていた。ぼうっと時を過ごしてしまっていたのだ。駅で本屋に寄って物色した後、自転車で家へ向かったけれど、心をどこかへ置いてきてしまったようだった。
そんな中、堤防沿いの道を歩いていると、そこで見覚えのある人影が腰を下ろしているのが見えた。
私は思わず自転車を停めて、彼女の背中をじっと見つめた。するとその足音に気付き、女の子が振り返って、「あ!」と声を張り上げた。
私は笑顔を浮かべて、彼女に駆け寄った。すると、女の子は嬉しそうに「本のお姉さん!」と同じように走り寄ってくる。
「今日もここでずっと本を読んでいたの? そろそろ寒くなってきたし、早く帰りなさいね」
「だってさやか、ジョウブだから……少しぐらい平気だよ」
女の子はそう言って胸に抱えたハードカバーを見せてきた。私は何気なくそのタイトルを見て、その瞬間目を瞠った。
――積木正太郎 『銀色の砂を掬う手』
思わず彼女の手からその本を受け取って、顔に近づけて見てしまう。私は『ほとぼりが覚めるまで』を読んだ時から積木正太郎のファンで、書店でも彼の作品を前に何度も立ち止まってしまう程だった。
「積木さんの本ね。こんな難しい本まで読んでいるの?」
私が驚きを含んだ声でそう言うと、彼女は「うん。私も好きなんだ。積木さんの本が」と声を弾ませて言った。
「本当に好きなのね。お姉ちゃんだって、こんな難しい本は読めた試しはないわよ」
「難しくたって、どうしても読みたいんだもん」
女の子はそう言って私の手からそれを引き抜いて、大事そうに胸に抱えた。思わず私は彼女の表情を見て頬を緩ませ、「それ程大事なのね」と彼女の頭を撫でてあげた。
「私も、本当にどうしても好きで堪らない本があるのよ。もう夢中になって、好きな人を見つけたみたいになって」
すると、女の子は目をぱちくりさせ、「お姉さん、なんか思い詰めた顔してるね」とそっと手を握ってきた。
「あなたにも読んでもらいたいの。ちょっと待ってて」
私はバッグからそっとその一冊の本を取り出し、彼女の小さな手に握らせた。女の子は何も書かれていないその表紙を見て、「ヘンな本」と顔をしかめた。
「ちょっと読んでみて」
そうして私達は芝生に腰を下ろし、女の子の背後に回って、彼女の顔の前で本を捲ってあげた。
『私はどうしようもなく苦しい恋をしている。この恋はもはや誰にも理解されない歪なものと化している』
私がそう読み上げた瞬間、彼女は黙りこくり、文字の羅列をじっと見つめて、私の言葉を聴いている。
女の子の暖かな温もりを感じながらページを捲っていると、彼女が突然「これ、知ってるよ」と声を上げた。私は「え?」と目を見開いた。
「これと同じ絵本、読んだことがあるよ」
私は思わず彼女の肩をつかんで、「それって本当なの?」と声を張り上げてしまう。女の子は何度もこくこくとうなずき、「読んだことあるよ」と言った。
「絵本で同じものがあるの?」
「だってさ、この男の名前も全く同じだし、最初の辺りもまるっきり一緒だよ」
私は彼女の手を握って、しばらく何も答えられなくなってしまう。そんなことが本当に有り得るの? 同じ内容の絵本が存在しているなんて。
私はとりあえず彼女と正面から向かい合って、話を聞いてみることにした。彼女は確かに小さい頃、兄にその絵本を読んでもらい、何度も繰り返しその物語に触れたことがあったと言う。
「まだその絵本、持っているの?」
「わからない。ずっと前のことだし、捨てちゃったのかも」
私はその感情を必死に押し留め、彼女の両手を握った。女の子は涙が滲んだ私の瞳を見て驚き、顔を引き攣らせている。
「お願い、さやかちゃん。その本を持ってきて欲しいの。私に力を貸して……」
その日の夜、私は布団に包まりながら、枕元でその本を広げて溜息を吐いていた。その緻密な構成で語られたわかりやすい文章を口に出して読んでみると、リズムに乗っていくらでも物語に浸ることができてしまう。
そんな中、私の頭の中には、さやかちゃんの言葉が駆け巡っていた。
――これと同じ話の絵本、読んだことがあるよ。
――だってさ、この男の名前も全く同じだし、最初の辺りもまるっきり一緒だよ。
私は気付けばその言葉を復唱し、そこに篭められた意味を何度も反芻していた。
もしも彼女の言うことが本当なのだとしたら、誰がその絵本を小説にしたのだろう。それとも、昔からあったその小説を元に、誰かが絵本を書き上げたのかもしれない。
考えても、私にはどんな答えも導き出すことはできなかった。やがて本は汗に濡れて私の香りが染み付いていく。
彼女が絵本を持ってきてくれることをただただ願うしかなかった。それでその絵本の作者を見つけることができるなら……。
そのまま眠ってしまっても、心のどこかでその本について考えている自分がいた。まるで心に何かが染み付いてしまっているかのようだった。
次の日、私は夕方に大学を出て、そのまま急いであの堤防へと向かった。自転車を押しながら歩く事が多かったこの道を全力で滑走するなど、大学に通い始めてから一度だってなかったことだった。
それ程までに私は気持ちを抑え切れなかったのだ。そうして昨日女の子がいた辺りまで来て、「さやかちゃん!」と声を張り上げて彼女の姿を探した。
けれどそこには彼女の姿はなく、私は自転車を停めてその場に立ち尽くすしかなかった。数分経過しても彼女は現れず、私は俯いて芝生に力なく腰を下ろしてしまった。
そうして彼女のあの溌剌とした声を再び聞くことはできず、私は自然とバックから本を取り出してそれに目を走らせた。
やがて夕陽が沈み、辺りが宵闇へと覆われても、私はいつまでも本のページに視線を落としたままその場から動けなかった。
どうしても、彼女の言葉を聞きたかったのだ。唯一同じ志を持った彼女から何を聞けるのか、心待ちにしていたのかもしれない。
どうしてこんなにも思い詰めてしまうのだろう。私はその本をぎゅっと握った。この本を読んでから、何か別の自分が心の中に現れて、言葉を語りかけてくるような違和感があった。
*
そうして私の日常は再び何一つとして起伏のないものとなり、その欠乏感を拭い去る為に私はバイトを多く入れ、どうにか心のやるせなさをやり過ごそうとした。
古書店でいつものように本を棚に並べながら汗を拭っていると、そこで店主のおじいさんが近づいてきて言った。
「掘り出し物があったよ」
そうして本を無理矢理差し出してくる。
私はいつものことなので驚かずに、「何ですか?」と本を受け取ってその表紙を見つめた。そのタイトルは煤で汚れて見難くなっており、著者名も私が知らないものだった。
「これ、自費出版されたものなんだけど、売れない割に面白かったんだよ。私が若い頃に偶然見つけてはまった作品なんだけどね」
「へえ……ちょっと拝見していいですか?」
本を開いてみると、そこには割りと綺麗な状態の目次があり、私は順にページを開いてその物語を読み始めた。
「笹山一樹は、絶対にデビューできるだけの素質は持っていたはずなんだけどな。ただ、どうしても文章が単調になりやすくて、読者が飽きてしまったんだろうね。でも、もっと有名になれたはずなんだ」
そっと本から顔を上げて店主の顔を見つめると、彼はどこか爛々と輝く瞳で表紙をじっと見つめていた。まるで失った宝物を取り返したような、そんな幸せそうな表情をしていた。
彼をここまで興奮させる本は一体どんなものなのだろう、と私は興味を持ち、文章に目を走らせた。
「今度、彼の特設コーナーでも作ってみようかな。結構話題になるかもしれない」
そんなことを言って、店主は「君も、仕事に戻ってね」と肩を叩いて、カウンター奥へと戻っていった。
すると、棚の隙間から顔を出していた和子さんが、「また父さん、変な本を加奈子ちゃんに薦めちゃって」と呆れたように言った。
その後、休み時間にその本を読んだけれど、とても心が暖まるストーリーだった。どうしてか私の胸の奥が疼き、その本を手放したくないと思えてきてしまうから不思議だった。
何故か、どこかで同じ感覚を前にも抱いたことがあるような、そんな錯覚があった。
そうして何度となく通りがかったその道を、その日のバイトの帰り、私は力ない足取りで歩いていた。自転車の車輪がくるくると回って、私の足元の影も揺れた。一見のどかな情景だったけれど、心は深い沼に嵌まったように沈んでいた。
あれからさやかちゃんはこの道に現れることはなくなった。毎日この道に足を踏み入れる度に、期待を胸に抱くのだけれど、いつもその想いは空回りするだけだった。
もう疲れ果てて、溜息を吐くしかなかった。そこで紙を捲る音が聞こえてきた。私ははっと目を見開き、そっと顔を上げた。
すると、信じられない光景がそこにあった。あの女の子が芝生に座って、『その人』と話していたのだ。彼は私の前では見せたことがない、そのどこか強張った表情で彼女を見つめ、そしてうなずいている。
私の口から、穂積君、とぽつりと言葉が漏れ出た。
彼がそっとこちらに振り向き、その瞬間、顔を硬直させた。私達はお互いの瞳の内にある動揺に気付き、声を掛け合うこともできずに無言で視線を交わし合った。
そこでさやかちゃんが私へと振り向き、「あ、本のお姉さん!」と弾んだ声を上げた。そのまま駆け寄ってくると、彼女は私のスカートに顔を埋め、「また会ったね!」ときらきらした瞳で見上げてきた。
私はそっと微笑み、彼女の頭を撫でてあげ、そうして穂積君に何と言うべきかと迷っていた。穂積君は私と彼女を順番に見つめ、とても複雑そうな顔をして視線を逸らした。
「穂積君、もしかしてさやかちゃんと知り合いだったの?」
そこで彼の肩がぴくりと震え、そして穂積君は何故か唇を噛み締めて俯いた。さやかちゃんが「私のお兄さんだよ」と私のスカートを引っ張って言った。
「俺の方こそ驚いたよ。加奈子さん、こいつと知り合いだったのか」
穂積君の声に、どこか突き放すような響きが含まれていることに気付き、私は不安になって「穂積君?」と聞き返した。すると、穂積君はようやく私の顔を正面から見て、「さやかが話していた本のお姉さんって加奈子さんのことだったのか。妙な偶然があるものだな」と苦々しく笑った。
「ごめんね。私、どうしても穂積お兄ちゃんを迎えに行かなくちゃいけなくて、こないだは来れなかったんだ」
「いや、あれはただお前が無理矢理俺の学校まで押しかけてきたんだろうが」
「そうだっけ?」とさやかちゃんは笑い、本当に嬉しそうな顔を浮かべた。彼はばつが悪そうに立ち上がり、「悪いけど、俺達もう帰るから」とさやかちゃんの腕を握った。
さやかちゃんはそこで顔を歪め、「お兄ちゃん、痛いよ」と腕から彼の手を引き剥がそうとする。それでも穂積君は手を離さず、「また今度だね、加奈子さん」と笑った。しかし、その笑みはどこか引き攣っているように見えた。
「絵本、今度探してみるから」
さやかちゃんがそう言って手を振ってくる。すると、穂積君がその手をつかんで、力一杯に下ろさせた。私は目を見開く。
「いい加減にしろ。加奈子さんも、お前の相手をして困ってるだろ」
さやかちゃんは顔を膨らませて何かを言いかけたけれど、すぐに「お姉さん、またね!」と私へと振り向き、その道を歩いていく。
夕陽の光を一身に浴びながら、手を繋いで歩いていくその二つの影はどこか幸せそうに見えたけれど、その歩調はどこかぎこちないように感じられた。
それよりも、私の頭には穂積君のその酷薄な笑みがこびり付いていて、声をかけることもできなかった。
穂積君のその思い詰めた顔が忘れられずに、何があったのだろうと気になっていたけれど、突然告げられたその事実に、今までの悩みすべてを忘れて、呆然とするしかなかった。
古書店のおじいさんが亡くなってしまったのだ。彼は普段から心臓病に苦しんでいて、そして病態が悪化し、そのまま搬送先の病院で亡くなったのだ。
私の前では全くそのような素振りは見せなかったのに、持病を抱えていた事実なんて今まで知らなかったのだ。それが私をさらに深い哀しみへと引きずり込んでしまった。
いつも本を愛していたあの人は、初めて会った時から私の想いを理解してくれた。和子さんはお葬式の時に何度も感謝の言葉を伝えてくれたけれど、私は結局何もできなかったのだ。
私はただ自分自身が読書を楽しめればいいとしか思っておらず、彼に何一つ恩返しできていなかったのかもしれない。
そう思うと、恐怖感が背筋を覆い尽くした。私は一人きりの部屋で途方に暮れるしかなかった。
古書店にあの溌剌とした声は響くことはなく、ただ和子さんの悲嘆の声が本に染み込んでいくだけだった。
私は何かに急き立てられるような心地で図書館に通うようになった。あれから穂積君は顔を出さなくなり、私は一人で窓際の席に座ってぼんやりと過ごすことが多くなった。
あの本を探し求めているうちに、溜まった疲れが押し寄せてきて、それは様々な物事と複雑に絡み合って私の心を圧迫していった。
私は何か間違った方向へと歩もうとしているんじゃないだろうか。そんなことを思って、本を捲る手が止まってしまう。
その時、ふと肩に手を置かれた。私は息を止めて体を震わせ、振り返った。
すると、そこには私が何度も心の中で名前を呼んだその人の姿があった。
彼はにっこりと穏やかな微笑みを浮かべて、私を見つめていた。私はその瞬間、様々な感情が一斉にこみ上げてくるのを感じ、しかし、どれも言葉にならなかった。
私の瞳から涙がこぼれ落ち、頬を伝った。彼はそれを見ると目を見開き、すぐに私の肩をつかんで「何かあったの?」と囁いてきた。
私は唇を噛み締め、ただ首を振るだけだった。すると穂積君が私を立ち上がらせて、背中を押してきた。図書室の外へと促してきて、そのまま私は彼に連れられて屋外に出ると、ベンチへと座らされた。
「加奈子さん……俺は前に、あなたには感情移入をしてしまう一面があるって言ったよね?」
私が小さくうなずくと、穂積君はそっと手を握って言った。
「加奈子さんはいつも誰かの為に泣いてしまうんだ。それはすごいことだけど、それでも、その哀しみを我慢しちゃいけない。だから――」
そう言って穂積君は私にハンカチを渡し、「そのハンカチ、汚してもいいから」と笑った。私はその途端に、何か張り詰めたものがプツンと切れてしまったような、そんな切ない気持ちになった。ハンカチを目に押し当てて声を押し殺し、泣いた。
目の前に様々な光景が浮かんでは消え、それは涙と一緒に私の外へと零れ出て行く。そうして徐々に哀しみは薄らいでいき、やがては消えていった。
私がひとしきり泣いて顔を上げると、穂積君はただじっと私を見つめて笑っていた。それはいつか彼が向けてきた慈しみに溢れた眼差しと同じだった。
私はまた涙を零しそうになったけれど、すぐに唇を結んで堪えた。そして、「もう大丈夫だから」と言った。
「誰か、側についてくれる人がいたから、乗り越えることができた気がするの」
「また落ち込んでたら俺はどうしたらいいんだ?」
「そしたら、また慰めてもらおうかな」
私がそう言うと、穂積君はふと笑って、私の頬の涙を指先で払ってくれた。私は恥ずかしく思いながら、ありがとう、とただ頭を下げた。
穂積君は苦笑して、「律儀なのは、加奈子さんの方だよ」と言ってそのまま歩き出した。その背中が入り口で止まって、彼は振り返った。
「今は、ゆっくり行こうか」
私はうなずき、彼へとそっと近寄った。彼の言葉が胸にこびりついて暖かな温もりとなり、心を癒してくれた。あれ程胸を覆い尽くしていた哀しみが、どこか喜びに変わっていくのを感じた。
そうして私は再び頑張っていこうと思えたのだ。
その日から私の心は次第に晴れ晴れとした穏やかなものへと変わり、それはまるであの作品と出会ったその日々を思い出すようだった。
私は全くあの作品の続編を読むことをあきらめてはいないし、それに自分自身の問題から逃げようなんて考えてもいなかった。
彼女はまだその人が現れることを夢見て、彼との再会を待ち続けているのだ。でも、彼は絶対にもう現れることはない。私はそれを知っているのに彼女に教えてあげることができなかった。
そんな中、どうしても香奈さんに対して罪悪感を抱いてしまう。それでも、いつかこの関係に終止符を打つ時が来るのかもしれないと思う。
だが、その瞬間は突然私の元へと訪れたのだ。
文化祭当日に、『再会』の舞台が開演することになり、とうとう五巻の所在を突き止めることができなかった。私はまだその事実を受け入れられず、その本を必死に探し回っていた。
親友達も巻き込んで、ビラを作って通行人に配り、とにかく五巻を探すことに奔走した。その作品が読めるなら、と思っていたけれど、それでも見つけることさえできなかった。
「そろそろだよ」
清水さんが舞台裏でどこか興奮した面持ちで私の肩を叩き、そうして開演時間が迫った。演劇サークルの部員達は円陣を組んで掛け声を上げた。
「この傑作を、舞台の上で演じきるんだ。そして、観客の心を興奮させるぞ。いいか、この作品は我々にしか演じられないんだ! 行くぞ!」
「「おうッ!」」
そうしてあっという間に時間となり、衣裳に身を包んだ部員達が次々と舞台へと繰り出していく。
そのまま部長が舞台に出る番となって、そして彼は私の前まで近づいてきて言った。
「加奈子さん、君がこの作品を見つけてくれたから、今の我々がいるんだ。本当に感謝している」
そう言って部長は大きく頭を下げてきた。
「……あの、部長さん」
彼はその言葉に振り返って、苦笑した。
「この作品の続編が見つけられなかったことは本当に残念だ。だけど、それでもこの作品が傑作であるということには変わりはないから」
「わかってます。私は私のできることをするだけです」
部長はその後に何かを言いかけたけれど、すぐに前へと振り向き、そして顔を引き締めて舞台へと繰り出していった。そうして開幕となった。
私は舞台裏に回って必死に自分を奮い立たせ、ただこの劇が無事に終わって何らかの糸口を新たに見つけることができるのをただただ祈っていた。
その心の裏には、本当にこれでいいのか、と自責の念が渦巻いていた。
『如月達子と申します。何か御用でしょうか?』
『私達は文芸サークルを個人的に開いているんだが、少し建物を見学させてくれないだろうか? 私は林と言うんだ』
セリフが始まり、すぐに観客の声が静まり返って、張り詰めた雰囲気が舞台裏にまで伝わってくる。
この劇を観賞している彼らは、この物語の本当の結末を知らないのだ。
そうして素晴らしい作品を忘却の彼方へと投げ捨てて、「あの劇、大したことなかったね」と笑い話にしてしまうのだろうか。私は単なる思い込みだとわかっていても、どうしても譲れない想いがあり、拳を握り締めて苦悶の声を漏らしてしまった。
『私はあなたのことが好きなんです。どうしてもこのしがらみは私の心に根付いて離れません。どうか、どうかこの心を理解してください……』
『それは、私の耳に届くことのない言葉です。私はあなたの言葉を聞くよりも、ずっと前に自分の言葉を聞いていたのです。ですから、私も今、この場所であなたに自分の心を伝えましょう』
観客が息を呑んで、その舞台で口付ける二人の姿に見入っているのがわかる。私も目を閉じ、その作品を頭の中にイメージして、浸り続けていた。
そのまま劇は順調に進行していき、閉幕へと刻一刻と近づいていく。私は唇を噛み締め、何か言葉をつぶやくけれど、そこで舞台に響き渡るその声が聞こえてきた。
『私はどうしてもあきらめられないの。あなたのその想いを受け取ったのに、それをみすみす手放すことはできないから』
『私だって本当はそんな結末など望んでいなかった。だけど、これはもうただの劇のワンシーンに過ぎないんだよ。私達の関係はただの甘ったるい芝居でしかなかったんだ』
『……それでも、私はッ!』
気付けば私はその言葉を受けて、立ち上がっていた。周囲で控えていた部員達が振り向き、「どうしたの?」と囁いてくる。
少し席を外します、と言って舞台裏を飛び出し、観客席へと出た。もしかしたら、この舞台を見ている人の中に、あの続編を持っている人がいるかもしれないのだ。
私はそっと通路に立ち、薄暗い中、観客席を見渡してみた。そうしてふと、見知った顔が視界を横切った。はっとして振り向くと、舞台を見つめている香奈さんの姿があった。
彼女は胸に一冊の本を抱いて、じっとセリフに耳を澄ませている。私はそれを見た瞬間に、駆け出していた。
周囲で飛び交う声など気にせずに、私は強引に観客席へと割り込み、そして彼女の名前を呼んだ。すると、香奈さんがこちらへと振り返り、ぽつりと言葉を漏らした。
先輩、とどこか疲れ切った声を上げたのだ。私はすぐに彼女の手首をつかんで立ち上がらせて、「ちょっとこっちに来て」と腕を引いて歩き出す。
香奈さんは抵抗せずにふらつく足取りで歩き出した。私は彼女の肩をつかんで支え、ようやく会場の外へと連れ出すと、一言「香奈さん、仲間だったんだね」と微笑んだ。
「……何が、ですか」
香奈さんは唇を震わせてそうつぶやき、そして縋りついてきた。私はしっかりとその手を握り締め、そして言った。
「あなたはこの物語を知っていたんだね。この作品に惹かれて、今こんなにも心を震わせているんでしょう?」
「私は彼女のようになれるのでしょうか、先輩」
ふと香奈さんの肩が震え出し、そのまま崩れ落ちてしまう。私は彼女の肩を抱いて支え、「香奈さん」と耳元で囁く。
「私、どうしてもあの人と巡り合って、永遠を共にしたいんです。彼女みたいにいつでも彼を呼び戻せて、無理にでも自分の愛を伝えられたら、そしたら……」
香奈さんはそこでその想いを声に出して、泣き始めた。彼女は私の腕を振り切って、そのまま地面に倒れ伏してしまう。
私は言葉をかけることができず、彼女のその苦悶する姿を見ながら、鋭い刃物で切り付けられたような痛みを感じていた。
彼女がこうして苦しんでいるのも、すべてあの約束を反故にした自分の所為なのだ。この作品の結末に自分を重ね、喘ぐ香奈さんの姿を見ていると、私がとても残酷な罪を背負っているように思えてきてしまう。
「私もいつか、彼と再会したい。だから――」
香奈さんがそうつぶやき、本に視線を落として何か言葉を探しているようだった。私はそっと彼女に近づき、その肩に手を置いてうなずいた。
目を閉じて、その決意を確めた後、言った。
「会えるよ、きっと」
その言葉が静まり返った廊下に響き渡ると、香奈さんが私をじっと見つめてきた。私は罪悪感で押し潰されそうになりながらも、その続きを口にした。
「きっとあなたの前に、彼が再び現れるわ。私が約束するから……」
香奈さんは「それは……」と顔を歪めたが、私は彼女の手からその本を受け取り、「この本ね」とつぶやいた。
「どうしても今、この本が必要なの。香奈さん、見届けてくれるよね?」
香奈さんが私へと手を伸ばそうとした時には、私は「ごめんね」と言って歩き出していた。「先輩」と香奈さんが掠れた声を上げ、私はそっと振り返って言った。
「私は今、この作品の結末をたくさんの人達に届けないといけないの。だから――」
そう言って香奈さんに必死の眼差しで訴えかけると、香奈さんはふっと微笑んで、「行ってください」と言った。
「加奈子さんはいつも私から離れていってしまうんですね。でも、今はどうしてもその本を必要としていると伝わってきます。だから、もう行ってください」
私は「香奈さん」とつぶやき、そして正面を向いて大きく息を吐き出し、その途端に走り出した。香奈さんの姿が視界から消え、私は会場の中へと再び入って通路を駆け下りた。
舞台はもうラストが目前に迫っていた。すぐにでも終幕のセリフが観客の心に刻み付けられようとしている。でも、それだけは何があっても止めなくちゃいけなかった。
彼らに届ける言葉は、今この胸の中にあるのだから。
私は舞台裏に入ると、ぎょっとして振り向くスタッフの間を抜けて、そのまま舞台へと降り立った。
すべてのスポットライトが降り注ぎ、私は前だけを見据えて一歩前へと進み出た。側で立ち尽くす部員が「加奈子さん!」と状況を呑み込めずに叫んだ。
周囲のどよめきも、制止の声も聞かずに、ただその本を開いて語りだした。
「彼と彼女は再び巡り合い、その愛を確かめ合いました。再会の言葉は嘘ではなかったのです」
そこから、新たな物語が始まるのだ――。
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