👼40 境界を持たぬ感情の行方は

『ラファエル……! ラファエル!

 僕の声が聞こえますか?

 お願いです。……どうか、どうか、迷える僕をお導きください』


 薄闇の広がりつつある空。

 愛しきリュカが私の名を呼びながら、地上界の果てを目指して舞い上がってくる。




 私はその声に応えることはできない。

 彼に向かって手を伸ばすことはできない。




 なぜなら、私には今の彼を導くことができないからだ。

 私が彼に与えたいと望む言葉は、彼の幸福を約束するものではないからだ。





 強い西日でオレンジ色に染まる入道雲の上端まで来ると、リュカはその場に留まった。

 空で一番高い雲。そこから上は天上界となっている。


 彼の元いた世界であり、私と共に過ごした世界。

 けれども、堕天した彼には、決して入ることを許されない世界。




『ラファエル……。僕はまた同じ罪を犯してしまうのでしょうか。

 僕のこの迷いはやはり罪となるのでしょうか。

 僕にはわからないのです。自分の取るべき道が……。自分の望む方向が……』




 彼が何を迷っているのか、私にはわかる。


 スパポーンに異常がないことを安堵した彼は、ちえりの耳についていたはずのピアスが片方なくなっていることに気づき、廊下を探しに戻っていた。

 落ちていたピアスを拾い、病室に戻る手前でラウンジにいるちえりと益次郎の会話を耳にしたのだ。


『僕は自分の贖罪以前にちえりの幸せを願い、そのために全力を尽くしているのだと自負していました。

 それなのに……僕は今日、ちえりの幸せよりも、自分の欲が満たされることを望んでしまいました。

 マラカスさんの時と同じように――』


 彼は宙に浮いたまま跪く態勢を取り、両手を組んで懺悔の姿勢を示す。


『ちえりの恋の成就が近いと悟ったとき、僕はその時が遠ざかることを望んでしまいました。

 彼女が幸せを手にすれば、僕の贖罪は終わります。

 それが彼女との別れを意味するのなら、僕はもう少しちえりの傍にいたいと思ったのです。

 ちえりの世話を焼きながら、彼女の成長を彼女と共に喜び合う。

 そんな今の日常を手放したくないと考えてしまいました』




 私が懸念していたこと――。

 私と彼が再会を果たした時、別れ際に彼がほんの僅かに見せた躊躇い。

 砂粒ほどの大きさだったそれは、やはり彼の中で看過できぬほどに存在を膨らませていたのだ。




『僕にはちえりの幸福を心から願い、導くという務めがあります。

 それなのに、僕の心にはまたしても欲が芽生えてしまいました。

 このままでは、僕はまた相手の幸せを考えずに一方的な親愛を押し付け、以前と同じ罪を犯してしまう気がします。

 天使としてあまりにも未熟で成長のない僕を、ラファエル、どうか貴方に導いてほしいのです』




 迷える彼に手を差し伸べたい。




 一日も早く天使としての姿を取り戻し天上界私のもとへ戻るために、己の贖罪というその一点にのみ心を砕けばいい。


 しかし、その忠告をしたとて、彼の迷いの一切は消えてなくなるのだろうか。

 その忠告に従ったとて、彼の歩み進めるその先に彼にとっての真の幸福があるのだろうか。

 その忠告をする私こそ、大切な者の幸福を考えず、己の欲を満たすだけの者となるのではないだろうか。




 深い湖の色の瞳を揺らめかせ、私の言葉を求めるリュカに、身を引き裂かれる思いで背を向けた。


 そのとき、ちえりが泣きながら彼の名を呼ぶ声が聞こえてきた。

 ばさり、と翼の音がする。

 そっと振り向くと、我が愛しき者の姿は夜の海に溶けんばかりに離れていく。

 その遠ざかる翼に縋りたい衝動を、私の理性が押さえつける。




 リュカよ。

 答えは君の心の内にあるはずだ。


 闇に溶け込むこの空と海のように、君の中にあるちえりへの感情はまだ境界を持たぬまま只そこにある。

 いずれ夜が明け陽が当たれば、その境界が、その色が、明瞭に表れるときがくるだろう。


 それはちえりも同じこと。


 彼らの互いを思う感情は、はたしてどのような輪郭と色をつけるのだろうか。




 私がリュカに手を差し伸べるのは、その答えが出てからでなければならない。

 それが感情に行動を支配されることのない、天使としての不都合な宿命さだめなのだから――





「……こんなつまんない作戦、アタシはやっぱり下りるわ。あのお嬢ちゃんのこと傷つけたって、アンタにだって何のメリットもないと思うけど」


 ふと濁声だみごえが耳につき合宿所の方を見やると、ガブリエルがと話をしていた。


「あなたから話を持ち掛けてきたくせに、ずいぶん勝手な言い草ね。

 ……まあいいわ。ここまで準備がそろってるんだもの。あとは実行に移すだけだから」


 ふん、と鼻で笑う彼女をガブリエルは苦々し気に一瞥し、ばさりと飛び立った。


 ちえりへの攻撃を止めるとは、使い魔のガブリエルの心にもリュカの誠意が少しは届いているようだ。


 しかし、当の彼女はやはりちえりに何かを仕掛けようとしているらしい。


 彼女の存在が、ちえりとリュカの曖昧な感情に何らかの方向づけを加える可能性は多分にある。


 闇夜の嵐が過ぎ去れば、朝日が一層鮮やかに彼らの心の内を照らすであろう。

 そこで彼らが見るものを、私もここで見届けることにしよう。





『ラファエル様。ボスがラファエル様をお呼びです』


 伝令の天使の声が頭上から不意に落ちてきた。


『わかった。すぐに行く』


 子供の姿をした伝令にそう応じると、私は燕尾服の襟を正し、白い翼を広げて花の咲き誇る白亜の神殿に向かって飛び立った。

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