👼33 大切な存在であるからこそ


 私は逃げてしまったのだ。



 嘘をつけないリュカの清らかな瞳から────




 彼に警告を与えた後、許されてはいなかったが最後に一言だけ、自分の本心を伝えるつもりであった。


『私の元に戻ってきてほしい』と。


 その願いを告げようとしたとき、私の言葉をさとったリュカの深い湖の色の瞳がごく僅かに揺らめいた。


 その清らな湖面に映した感情は躊躇いであった。

 彼自身気づかぬほどの、砂の粒ほど小さなものではあったけれど。


『僕は必ずあなたの元へ戻ります』


 彼がその言葉を口にする前に、私は姿を消した。


 そう言わしめた時、彼自身がその躊躇いに気づくことを恐れたのだ。




 私は意気地無しだ。

 ちえりには、二人の行く末がたとえ私の望まぬ方向に舵を切っても見届けると告げたのに、心の底ではやはりそれを恐れている。




 リュカの心が私の元へと戻らなくなることを────




 とは言え、私がリュカと再会を果たしてから、彼がこちらを見上げることが多くなった。

 その瞳は私に向けられているであろう思慕の情に溢れており、あの時見せた躊躇いは彼の意識に掬い上げられなかったように思われる。




 願わくば彼をもう一度抱きしめたい。




 私の心の内に湧き上がる彼への思いを、

 言葉に、

 眼差しに、

 のせて伝えることができたなら。



 一度沈んだその砂粒に気づかぬまま、彼は私の元へ戻ってきてくれるだろうか────





 ちえりのいる講義室を抜け出てきたリュカが、中庭に植えられたモチノキの枝に止まるガブリエルを認めて漆黒の翼を広げた。


 ばさり、と一度羽ばたかせ、彼はふわりと枝の上に降り立つ。


『ガブリエル。話があります』


 そう切り出したリュカに、林檎の皮を啄んでいたガブリエルが「改まって何よ?」と警戒心をあらわにする。


『君が僕の贖罪の邪魔をしようと画策していることは知っています。

 ……君という友人に裏切られることはとても悲しく残念なことではありますが、君の気持ちもわからなくはないのです。

 君と共に過ごした三百六十八年と百四十九日間は、僕にとっても穏やかな日々でしたから』


 リュカの言葉には答えず、ガブリエルは林檎の皮を啄み続ける。


『君は僕の大切な友人です。だから、君の幸せも僕は願っているのです。

 君が使い魔としての生活に戻りたくないというのなら、僕もできる限りのことを協力します』


「協力って、堕天使のアンタに何ができるっていうのよ?」


『僕が天上界へ戻る時に、君も一緒に行けるように上に掛け合います』


 嘴の動きを止めたガブリエルが小首を傾げてリュカを見上げた。


「アンタ正気なの? 地底界の使い魔が天上界に行けるなんて話は聞いたこともないわ」


『確かに前例は聞いたことがありませんし、このままでは無理でしょうね。

 でも……』


 リュカの穏やかな眼差しがガブリエルの黒い瞳を捉える。


『天使が罪を負うと地底界に堕とされるならば、使い魔が善を行えば地底界を追い出されるんじゃないですかね?』





 驚いた。


 リュカがまさかそんなことを考えているとは──





「……アンタねぇ。簡単に言うけど、使い魔のアタシが善行なんてできると思ってんの?」


 案の定、当のガブリエルもフンと鼻を鳴らして笑う。


『何か善いことをしなければと意気込むと難しいかもしれませんが、誰かを大切に思うことができれば、きっとそれは難しいことではなくなるんじゃないでしょうか』



 芝生を踏み分ける音に気づいて私が見遣ると、中庭に出てきたちえりがモチノキに向かって小走りに近づいてきた。


 茂る枝葉で彼女に気づかないリュカが言葉を続ける。


『ガブリエル。たとえば君は先日ちえりにベーグルを貰っていましたね?

 君のねぐらのあった木が伐採されてしまった時も、ちえりは新しい塒を見つけるまでアパートの自室に居候させてくれましたね。

 急な大雨でずぶ濡れになった君にタオルを差し出してくれたこともありました(拭いたのは僕でしたが)。

 そんなちえりを傷つけようとしていることを、君は本当に何とも思わないんですか?』


「……あのお嬢ちゃんより、アタシは自分が大事なのよ。

 アンタだってそうじゃない?

 お嬢ちゃんより自分が大事だから、天上界に戻るためにあのお嬢ちゃんを利用してるんでしょ」


 木の下で二人の会話を聞いていたちえりの顔が強ばる。

 しかし、リュカの方はその深い湖の瞳に柔らかい光をたたえて微笑んだ。


『初めはそうだったかもしれません。

 ──でも今は違う。

 それははっきりと言えるのです』



 リュカの言葉に、ちえりがはっとして枝を見上げる。



『君も知っているとおり、僕が堕天したのは聖人だったマラカスさんを過保護にお世話して彼を堕落させたためです。

 あの時の僕は、親愛の情を彼に押しつけ、彼の身の回りを世話することで自分自身が満足することしか考えていませんでした。

 けれども、ちえりと共にいるうちに僕は変わっていきました。

 大切に思うからこそ、彼女の幸せのために自分がすべきことは何かを考えるようになったんです』


 リュカの表情があたたかく綻んだ。

 その笑みはいつものたおやかさの中に、芯が通ったような力強さを感じさせた。


『ちえりが白フンの君に思いを寄せているのならば、それを応援してあげたい。

 自分を変えようと努力しているのならば、それを支えてあげたい。

 ズボラなちえりの傍でそれができるのはきっと僕しかいません。

 僕が天上界に戻りたいと思っているのは事実ですが、今は僕の贖罪に関わらずちえりを幸せにしてあげたいと思っています。』



 そうか。


 リュカの過保護を、私は十分に受け容れてやることができなかった。

 リュカの過保護を、マラカスはただひたすらに享受するだけだった。


 けれども、ちえりは違う。

 彼女こそ、過保護なリュカの存在をまるごと必要とし、リュカ自身に自分がこの世に存在することの価値を認めさせているのだ。



 リュカの言葉をモチノキの下で聞いていたちえりが指先で涙を拭いながら立ち去った。



「……アンタがお嬢ちゃんを大切にしてるのはわかったけど、アタシはやっぱり自分が大事。他人のことを考えられないアタシに善行なんて到底無理ね」


 そう言ったガブリエルは、足で押さえていた林檎の皮をぽとりと下に落とすと伸びをするように黒い翼を広げた。


「それにね、はアタシが負の感情を増幅させなくても十分嫉妬に駆られているのよ。

 今さらアタシが作戦を下りたからって、きっと止められないわ」


『作戦!? ガブリエル、それは……』


 リュカが問いただすより先に、ガブリエルが飛び立った。


 木の枝に腰掛けたまま、ため息をつくリュカ。

 私の心にさざ波が立つ。




 私はこのまま見守るだけでいいのだろうか。

 私に何か出来ることはないのだろうか。




 私にとってもかけがえのない、

 大切なリュカのために────

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