💘24 宣戦布告は撤回しない



 その一瞬で起こった出来事は、まさにミラクルとしか言いようのないものだった。




 翼が使えず歩き慣れないリュカがつまずいてから、あたしとスパポーンの悲鳴が上がるまでの間に生まれた悲劇――


『うわぁっ!!』


 それは、リュカが倒れ込む瞬間、思わず前へ伸ばした両手がスパポーンの真紅のトランクスを道連れにしたときに起こった。





「きゃあっ!!」

โอ๊ยうわっ!!」





 あたしは見てしまったのだ。





 トランクスの下から現れた真紅のビキニパンツに覆われて、なだらかに小高い稜線を描く――――






 スパポーンのファウルカップもっ〇りを……っっ!!






 👼



 顔を真っ赤にして慌ててトランクスを引き上げるスパポーン。

 あまりの衝撃に呆然としていたあたしは、彼女……ううん、彼が走り去ろうとした時に我に返り、急いで彼を呼び止めると再び植栽スペースの花壇に誘い、詳しい事情を聞いた。


「えっと……。

 つまり、スパポーンは大山先輩をムエタイに転向させようと、二年間誘い続けている、ということ?」


「そうヨ。マスとワタシは入学してスグ、コノ武道館で知り合って親友ニなったノ。

 彼の空手ヲ見て、ワタシは溢れる才能ヲ見出しタ。

 マスはムエタイをするためニ生まれてキタ男なのヨ!」


 彼いわく、さっきの会話から、あたしが彼を女の子だと誤解していることに気づいたらしいんだけど、日本語で説明するのが大変だし、誤解されることにも慣れっこだから敢えて訂正しなかったんだとか。


 言葉を探しながら少しずつ教えてくれたスパポーンの事情をさくっとまとめてみると……。


 彼の本名は、ボーンなんちゃらかんちゃらチャイっていって、超長くて覚えにくい名前だ。


 成績優秀で日本への留学のチャンスを得たんだけど、五人兄弟の一番上ということもあって、日本での生活費を自力で捻出しつつ愛するムエタイの練習時間を確保するために、時給の高い多国籍ニューハーフバーでアルバイトをしている。

 日本語もバイトを通じて覚える機会が多いから、自然と女言葉を覚えてしまったそうだ。


 〇〇ポーンっていうのはタイでは女の子につける名前なんだけど、彼の名前が長くて覚えにくいので、バイト先の源氏名をそのままニックネームとして使ってるんだとか。




 うーん。

 なんだかなぁ……。




 大学では化粧はしてないって言うけれど、それでもポニーテールの黒髪にぱっちりしたきつめの黒い瞳が印象的な美人なんだよ?


 バイト先で女装した姿には、あたしも完璧負けると思う。


 隣に立つリュカもスパポーンが男性だとは気づかなかったらしく、『天使としての能力があれば見抜けていたと思うんですが……』と悔しがっている。


 あたしとリュカはエキゾチックな美貌を誇るスパポーンを前に、二人そろって妙な敗北感に打ちひしがれていた。




「空手部ニマネージャーとして入部するなんテ、どうせマスが目当てダロウって思っテ。

 彼ハそのうちムエタイニ転向するんだカラ、マスに近づくためニ入部したって無駄ダって教えてあげたのヨ」


 あたしに接触してきた理由をそう説明するスパポーン。


「でも、あたしはあなたが “忠告” だけじゃない敵意を向けてるように感じたけど?」


「……それハ――」




 あたしがスパポーンの横顔に問うた時だった。




「スパポーン! そんなところにいたのか。

 ……って、どうして藤ヶ谷が一緒にいるんだ?」


 Tシャツ姿の大山先輩がこちらに向かって歩いてきた!


「あっ、こんにちはっ」

「おっす」




 いつも部活で会ってるけれど、それ以外のタイミングで会えるとスペシャルな感じで余計にドキドキしちゃう!




 先輩はあたしに軽く挨拶をするとそれ以上は気に留める様子もなく、道着の入ったリュックサックからクリアファイルを取り出す。


「ムエタイ同好会の来月の武道場使用届に不備があったって、今教務部から再提出用の書類を預かってきたぞ」


 ファイルを差し出されたスパポーンがそれを受け取ると、大山先輩は彼の顔を見てやれやれと苦笑いした。


「なんだ、また俺に振られたからっていつもの場所でいじけてるのか。

 藤ヶ谷には俺がお前のことを傷つけたって怒られたし、うちのマネージャーまで心配させるなよ」



 あ、そう言えば……。



 スパポーンの涙を見たときに、先輩が彼の好意を冷たくあしらったと思って、非難めいたことを口走ったんだった!




 自分の勘違いに今さら気づき、火がついたように顔が熱くなる。




「別にいじけてたわけじゃナイヨ。

 この子ニ、マスはムエタイに転向する予定ダって教えてあげたダケ」


「おい! 勝手なことを吹き込むなよ!

 俺にはそんな気はさらさらない。

 もういい加減諦めろよ」


 呆れ返るような先輩の様子に、なんだかホッとした。

 先輩は、心を許した友人にストレートな物言いをしてるだけなんだ!


「俺は午後が休講になったから、武道場でトレーニングしてくる。

 藤ヶ谷、また後でな」

「はいっ!」


 大山先輩が小径を戻っていった後で、スパポーンがすっと立つ。


「ワタシ達もそろそろ行きまショ」

「うん、そうだね」




 立ち上がろうとしたあたしの方に、黒髪のポニーテールを揺らしてスパポーンが振り返った。


「言い忘れてタケド、誤解とハ言えワタシのこと心配してクレてアリガト。

 でも、やっぱりアンタは油断できない女だワ」


「へ? 油断できないって?」


「ワタシの勘。

 アンタのせいで、マスをムエタイに誘うのガこれからもっと難しくなりそうな気がするノ。

 こないだノ宣戦布告ハ撤回しないからネ!」


 悪戯っぽい笑顔でひらひらと手を振ると、スパポーンは小走りに去って行った。




「なんなんだろ、今の言葉……」




 ぽかんとしたあたしの隣では、リュカが腕組みをして首を傾げていた。




『スパポーンはちえりを買いかぶりすぎじゃないですか?

 田中千恵子や倍賞裕子には程遠いんですけどねえ……』

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