💘01 めんどくさいくらいに過保護だ!


 ある日突然あたしの前に舞い降りた堕天使の羽は、漆黒の夜闇と甘美な過保護に染まっていた。


 けれども、その過保護をあたしだけに捧げられた甘美な蜜として味わえるようになるのは、これよりもっと先のことだ。




 そして、あたしがその蜜の甘さにようやく気づいたとき。




 尽きせぬ蜜壺を傾け続けていた彼は――――





*****





「つー……いたたたぁ……」


『ちえり、大丈夫ですか? なんならちえりが大学に向かう間に、僕が部屋に戻って湿布を取ってきましょうか?』


 地面に強打したお尻をさすりながら立ち上がったあたしを、目の前の堕天使が心配そうに覗き込む。


「湿布なんて普段使わないからうちにないでしょ。それに、尻もちくらいほっときゃ治るし」


『尾てい骨にひびとか入ってたらどうするんですか!? 僕が見てみますから、ちょっとスカートのホックを外して……』


「何言ってんのよっ!! こんなとこで見せるわけないでしょーがっ!」


『元天使の僕に性欲が皆無なのはわかってるでしょう? 何を今さら』


「そういう問題じゃないってば!

 あっ! もうバスの時間になっちゃう!!

 リュカッ! 走るよっ!!」


 不毛な会話を切り上げて、あたしはお尻の痛みに耐えながらバス停に向かって走り出した。

 その後ろから、漆黒の翼を小さく羽ばたかせたリュカが音も立てずにぴったりとついてくる。


 バス停に着くと程なくして、大学行きのイエローベージュの路線バスがウインカーを出して寄ってきた。




 いつものバスは、途中の駅で降りるサラリーマンやあたしと同じ大学に向かう学生で毎朝けっこう混んでいる。

 けれども今日は二限の講義からの出席だから、陽射しが力強く差し込む車内はちらほらと席が空いている。


 あたしが周りに誰もいない一番後ろの吊革につかまると、リュカが耳元で囁いた。


『席が空いてるのに座らないんですか? ぐうたらなちえりが珍しいですね』


(お尻が痛いから座りたくないんだってば)


 独り言を言うヤバい子だと思われないように小声で呟くと、あたしの声を聞き逃すまいとリュカが顔を近づけてきた。


 深い湖の色の瞳に、不機嫌そうなあたしの顔がくっきりと映っている。


 はっきり言って、リュカはまさに神がつくりたもうたと信じられるほどに完璧に美しい男だ。


 やわらかく長めの黒髪に、黒い燕尾服、背中には大きな漆黒の翼。

 堕天使ゆえの深い夜闇の色の中に陶器のごとく滑らかな白い肌が浮き立ち、彫りの深い骨格を覆っている。

 モノトーンのたたずまいの中で、水面に森を映す深い湖の色をした瞳だけが鮮やかで神秘的な色彩をもっている。

 その微笑みは天に咲く花のようにたおやかで美しく、その声はチェロの調べのように伸びやかで心地よい。


 そんなこの世のものとは別次元にある美しさが眼前に迫るとつい惹き込まれてしまうけど、言うなればそれは名画に惹き込まれる感覚に近い。

 ドキドキするというよりも、心が吸い込まれるような、不思議な感覚。


『やっぱり湿布を貼った方がいいかもしれませんよ? 大学に着いたら医務室に行きましょう』


(二限の日本語史Ⅱの講義に遅れちゃうでしょ。もういいったら)


『だったら僕だけでも医務室に行って、こっそり湿布をもらってきますよ』


(湿布を持ち出してるとこ見つかったらどうすんの? 他の人から見たら、湿布がふわふわと空中移動しているように見えるんだからやめときなよ)


『そうだ! では、講義室に入ったら僕が椅子に座りますから、ちえりは僕の膝の上に座ってください! そうすれば、硬い椅子に座るよりお尻にやさしいでしょう?』


(あのねえ、リュカ。あたしがあなたの膝の上に座っている光景、傍から見たらどんな風に見えると思う? 講義中に空気イスって何それふざけてんの?って思われるよね??)




 ああ、もう。

 今日もめんどくさいくらいに過保護なんだから……。





 あたしはこれみよがしに盛大にため息を吐く。




 ある日突然リュカが目の前に現れてからもうすぐ二か月。

 この過保護な堕天使のおかげで、あたしのペースは狂いっぱなしだ。


 彼のこの異常なまでの過保護っぷりには理由がある。


 一つは、元来の性格がお世話好きで、ズボラなあたしと一緒にいるとどうしても世話を焼きたくなるらしいということ。


 もう一つは、彼が天上界へと戻るためには、あたしを幸せにすることが罪を贖う条件になるということ。



 とっても迷惑なことに、あたしは堕天使の贖罪の対象として、神様に勝手に選ばれちゃったのだ。



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