💘02 舞い降りてきた夜闇の欠片



 それは二か月ほど前のこと。



 月のない春の夜空の下を、コンビニ帰りにぶらぶらと歩いている時だった。



 ばさり、と大きな翼の羽ばたく音に驚いて見上げると、あたしの目の前に夜闇の欠片がゆっくりと舞い落ちてきた。



 それが、翼の生えた人の形だと認識するまでに三秒。


 息を飲むほどに美しい微笑みをたたえてこちらを眼差していることに気づくまで、さらに三秒ほどかかったかと思う。



 大学からの帰り道。お酒を飲んだわけでもないし、寝ぼけるような深夜でもない。


 ならば、この世のものとは思えない存在と対峙しているこの状況を誰がどう説明できただろう。



『あなたが藤ヶ谷ちえり、ですね?』



 黒い燕尾服の背中に艶やかな黒い翼を折りたたんだ異形のものが、伸びやかなテノールボイスで、澱みのない日本語で話しかけてくる。



「はあ」



 状況のまったく飲み込めないあたしは、あんぐりと口を開けたまま、なんとなく肯定の意に取れる声を出した。



『私の名は堕天使リュカ。今宵、この刹那より、あなたを守護しあなたに幸福をもたらすことで主に背きし我が罪をあがなうべく地底界より参りました』



 街灯の下、周囲の闇に溶け込む黒い髪と黒い翼、黒い服。


 それらと対照的に陶器のように白く滑らかな肌をした顔は、ちらちらと揺れる蛍光灯の光の下でその美しさを惜しげもなく晒していた。



 森を水面に映す深い湖の色をした瞳が細められ、淡い桜色の唇は親愛を表す弧を描く。



 胸に手をあてうやうやしくお辞儀をされたのはいいけれど、あたしはこんな状況で自分がどう対応すべきかのトラブルシューティングを持ち合わせていなかった。



「えっと……。言ってる意味がよくわからないんで、すみません」



 いくら凄まじい美形でも、変質者ならばスルーに限る。


 愛想笑いを顔に貼り付けて、できるだけ相手を刺激しないようにと通り過ぎたのだけれど、その変質者は足音も立てずにあたしのすぐ後ろをぴったりとついてくる。



 コンビニに避難したくても、踵を返した瞬間に向かい合うのは怖すぎる。


 あたしは激しく打ちつける鼓動を早足の靴音でごまかしながら、震える手でバッグをまさぐり携帯を取り出した。



「あ、もしもし! 不審者に後をつけられてるんですけど……。


 ……はい。身長は180センチくらい、痩せ型で、欧米人風の二十代半ばくらいの男です」



 警察に通報している最中でも、後ろから感じる気配が離れていくことはない。


 程なくして、近づいてきたバイクのライトが正面で止まったかと思うと、警察官のおじさんが走り寄ってきた。


 頼もしい制服姿を見た途端、全身から汗と安堵がどっと吹き出した。



「110番したの、あなた?」


「はいっ! すぐ後ろの黒づくめの人が突然現れて後をつけてきて……」


「すぐ後ろ? 誰もいないようだけど」


「えっ!? そんなはずは……」



 バッと後ろを振り向くと、胸がぶつかりそうなほどの至近距離に黒づくめの男がにこにこと立っている。



「きゃあっ! ほら! この人! この人ですって!」


「この人って、どの人よ? 一本道だし、隠れている人影もなさそうだけど」





 まさか、警察官のおじさんには見えていない──!?





「お酒飲んだ帰りなのかな? 一応この辺見回ってから戻るけど、幻覚見るほど飲んじゃあダメだよ!」



 あからさまに迷惑そうな表情を向けて、警察官は再びバイクに乗り込むとブルルンとあっさり去ってしまった。



『僕の姿はちえりにしか見えないようになっています。僕の贖罪はあなたを幸せにすることで成し得るのです。

 あなたに危害を加えることは一切ありませんのでご安心を』



 はっきりと聞こえるテノールボイス。


 はっきりと見える美しい姿。



 これが幻覚、幻聴だとしたら、あたしの頭はどうかしちゃったの!?


 それともこれは夢の中!?





「い……いやぁーーーーっっ!!」





 幻覚を振り払おうと、お腹の底から声を絞り出し、パンプスが脱げそうになるくらい全力で走ってアパートに駆け込んだ。

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