過保護な堕天使、ズボラなあたし。【本編】

💘20 一生懸命あたしを幸せにしようとしているんだ

「うわぁ！ すげぇ！ 今日はおにぎりかぁ～」

　平日より長めに取られた休憩時間におにぎりを出すと、部員たちから歓声が上がった。

「うちの炊飯器で炊けるだけだったので、ちょっと小ぶりですけど……」

「いやいや、練習中だし、小ぶりでちょうどいいよ！」

「これで組手もパワー出そうだな！」

　皆の笑顔に、心にできたささくれが癒されていく。

　三角形のなり損ないばかりがおしくらまんじゅうのように並んでいるけれど、そこを突っ込む人もいなくてホッとした。

「藤ヶ谷。いつも本当にありがとう」

　一番最後におにぎりを取った大山先輩が、目尻に皺を寄せて微笑んだ。

「いえっ！ マネージャーですから、このくらい当然ですっ」

「そんなことはない。部員皆のためにここまでするのはとても大変なことだ。

　……藤ヶ谷がマネージャーをやってくれて本当によかった」

　大山先輩が……

　感謝してくれてるぅーーーっっ！！！

　誰かのために何かをすることが、こんなに嬉しいことだなんて知らなかった！！

　ニヤニヤと頬が緩んだまま、リュカにハイタッチをしようと両手を差し出す。

　けれどもあたしの手の先に、いつもの華奢で大きな手のひらはない。

「あ……」

　リュカの綻んだ笑顔を思い出す。

　押し込めていた後悔が、蓋を弾き飛ばす勢いで沸き上がってきた。

「ちょっと外に出てきます……！」

　おにぎりを頬張る部員達に言い残すと、あたしは武道場の外へ飛び出した。

　👼

　いつも傍にいるリュカが、離れた時にどこに行くかなんて見当がつかない。

　ただ何となく、翼のある彼ならばどこか高い場所にいるんじゃないかと思った。

　とりあえず、武道館の階段を上る。

　二階の窓から隣に建つ農林学系棟を見上げると、果たして屋上のフェンス際、暮れに向かう白藍の空に、そこだけすでに夜闇が落ちてきたかのような黒い塊が見えた。

　急いで階段を下り、隣の建物の四階分を一気に駆け上がる。

「リュカ……っ」

　息を切らしドアを開けて名を呼ぶと、フェンスの上に器用に腰かけ俯いていた彼が顔を上げた。

　穏やかに口角を上げるけれど、その瞳は曇り空を映した湖面のように翳りを帯びている。

『おにぎり、間に合いましたか？』

「うん……。みんなすごく喜んで食べてくれてる」

『そうですか。それはよかった』

　再び俯いたリュカの隣に立ち、あたしはフェンスにもたれかかり息が整うのを待った。

　それから。

「さっきはごめん」

　溢れ出した後悔を言葉にしてリュカに向けると、隣から伝わる空気が僅かに揺らいだ。

「リュカがあたしにしてくれる色々なことをあんな言葉で突き返したの、悪かったと思ってる」

『ちえり……』

「あたしね、大山先輩達のために自分でレモンの蜂蜜漬けやおにぎりを作って、リュカの気持ちがちょっとわかった気がするんだ。

　誰かのために何かするって、どうやったら喜んでもらえるだろうって考えたり、その人の喜ぶ顔を想像したり。めんどくさくもあるけれど、楽しくて幸せなことなんだって思えたんだ。

　それに、実際喜んでもらえると、めんどくささとかそれまでの苦労とか吹き飛んで、すごく嬉しくなるんだってこともわかった」

　今ならわかる。

　贖罪のためも勿論あるだろうけど、それだけじゃない。

　あたしが喜ぶことで、リュカ自身も嬉しいんだ。

　空回りしすぎて噛み合わないところもあるけれど、リュカはいつも一生懸命なんだ。

　一生懸命、あたしを幸せにしようとしているんだ。

『……ちえりは悪くありませんよ。

　幸せを掴むために、自分自身が変わろうと動き出しているんです。

　それをサポートすることこそ僕の役割であり贖罪でもあるのに、僕はちえりの世話を無理やり焼き続けようとしました。

　自己満足のために、ちえりは僕がお世話しなければ何も出来ない女の子なんだって思い続けていたかったんです。

　これでは天使失格です。

　……って、すでに失格したから堕天使になってるんでしたね』

　冗談めかして自嘲する彼の横で、あたしは浅いため息を吐いた。

「あたし、こんな性格だからさ？

　リュカのこと、過保護で小言が多くてめんどくさいって思ってばっかりで」

『……このタイミングで傷口に塩を塗り込むのも、ちえりの性格が思いっきり出てますね』

「率直すぎるのはお互い様じゃない。

　……でもね。

　いつも美味しくて温かいご飯が出てくるのって、すごく嬉しいよ。

　散らかしてもすぐにリュカが片付けてくれるから、床に散らばったものを踏んづけて痛い思いしたり、必要な物が見当たらなくて探し回ったりすることがなくなって、部屋が快適になった。

　なんだかんだで大山先輩との距離も縮まって、ちょっとずつでも前に進み始めた気がする。

　他にもリュカが来てからいいことがいっぱいあったのに、勝手に押し掛けられてめんどくさいって理由で、ちゃんと感謝してこなかった」

　フェンスから背中を離してリュカに向き直る。

　折り曲げた膝の間に落とした彼の両手を握りしめると、彼はようやく顔を上げた。

「リュカ。いつもあたしのために一生懸命お世話してくれてありがとう」

　そう言って笑顔を向けると、あたしを映すリュカの瞳がゆらりと揺れた。

『……僕がこれほどちえりのお世話が楽しくなってしまった理由、わかりますか？』

「へ？」

『言葉での感謝をもらわなくても、僕はちえりの素直な反応で十分幸せになれるんです。

　僕が作ったご飯を食べている時の嬉しそうな表情とか、洗いたてのタオルに顔を埋めたときのうっとりした表情とか、たわいもないことを話しながら眠りについた後の安心しきった寝顔とか。

　そんなちえりの反応が嬉しくて、僕はついつい世話を焼きたくなってしまうんです』

「あたし、いつもそんなに幸せそうな顔してるかなあ？」

『いつもじゃないですよ？ その辺ちえりは率直ですからね。

　めんどくさそうな時も顔にはっきりと出ますし。

　そんなちえりだからこそ、僕は心からの笑顔を見たくてついつい頑張ってしまうんです』

　ふっと笑いを零したその瞳に映るあたしの姿は、深くて穏やかな湖に溶け込んでもう揺らぐことはない。

『でも、ちえりの笑顔は僕が世話を焼いたときだけに見られるものじゃない。

　今日おにぎりが出来上がったとき。

　そして、そのおにぎりを白フンの君や部員の皆さんが喜んで食べるのを見ているとき。

　きっとちえりはとてもいい笑顔をしていたんだと思います。

　今回は見逃してしまいましたが、これからはその笑顔を見るためにも、ちえりの傍にいたいと思います』

「それって……。

　もうご飯作ったり、掃除洗濯してくれないってこと？」

　あたしの問いかけに、リュカがぷっと吹き出した。

『いきなり自分で全部やれと言って、ズボラなちえりができますか？』

「できないから聞いてるんでしょ」

『さっきも言いましたが、ちえりの世話を焼くことは僕の楽しみでもあるんです。

　だから、ちえりを甘やかすことも許してくださいね？』

　リュカのたおやかな笑顔が綻んだ瞬間――

　トクンとひとつ、自分の胸の鼓動が聞こえた。

　リュカがあたしの手の中から大きな両手をそっと引き出し、音もなくフェンスから飛び降りる。

『さ。空手部の皆さんもおにぎりを食べ終わって練習に戻っているでしょうし、僕たちも行きましょう』

「あ、うん。そうだね」

　＊＊＊＊＊

　甘い蜜に溶かされ始めていた心。

　ズボラなあたしは結局その時の鼓動を心に留めることのないままに、仄かな甘やかさが残るその場所から立ち去った。