👼11 君の注ぐ蜜酒に酔いしれたい
洗濯物を干し終わったリュカとちえりは、アパートを出て大学へと向かった。
二階から突き出た彼女の部屋のベランダでは、初夏の爽やかな日差しを浴びた洗濯物が気持ちよさげに揺れている。
結局、ちえりのズボラな干し方に業を煮やしたリュカがほとんどを干し、ちえりは黒い「押忍」Tシャツだけを壊れ物にでも触るような手つきでハンガーにかけていた。
それでも――
吊るされて揺れるTシャツの裾は皺が寄ったまま。
袖口も少しめくれているし、ハンガーの位置が肩の縫い目から随分とずれている。
これではリュカがあれこれ世話を焼きたくなるはずだ、と思わず口元が緩んでしまった。
それを見て同時に思い出されたのは――
『あなたは何でも自分で完璧にすませてしまう。それでは僕が世話を焼いてあげられないではないですか』
花を慈しむような優しさで私を腕の中に囲い、そう囁いたリュカの困った笑顔――
金色の眉を切なげに歪め、湖よりも深い色をした瞳が僅かに揺らぐその美しさには、私もつい惹き込まれてしまったものだ。
私にもう少し甘えるところがあったなら、彼が担当聖人に過分な情を注ぐことはなかったのだろうか。
私がもっと彼なりの愛を受け入れていれば、彼が堕天することはなかったのだろうか──
感傷に浸っていると、彼方の空から黒い翼を広げたリュカが一人でアパートへ戻ってくるのが見えた。
ちえりの講義が始まったので、Tシャツの形を整えにこっそり戻ってきたのだろう。
型が崩れたまま益次郎に返したのでは、ちえりが幻滅されかねないと判断したに違いない。
しかし、リュカがアパートに着くよりも先に、近くの木の枝からベランダに降り立った黒い影がひとつ。
ガブリエルである。
彼はちょんちょんと跳ねながらベランダの手すりをつたうと、ばさりと羽を広げて物干しざおに飛び乗った。
そして、あろうことか――
益次郎の「押忍」Tシャツにフンをかけた!!
しかも、表側ではすぐに見つかってしまうからと、Tシャツの内側に器用に落とし込むように、である。
なんという巧妙な悪だくみなのだ。
これでちえりがフンに気づかず益次郎に返し、それを彼が着てしまったら――!
いや、それこそがガブリエルの思惑なのだ。
ちえりを貶め、不幸を味わわせる。
彼女が神を呪ったとき、我が愛しきリュカは再び地底界へと堕とされるのだ。
このままではまずい……
と一瞬焦ったが、どうやら私が出る幕はなさそうだ。
『ガブリエル、何をしているのです!?』
背後から掛けられたリュカの声に、ガブリエルがびくっと身を竦めた。
「あ……あらぁ! 随分早いお帰りじゃない?
空から戻ってきたってことは、あのお嬢ちゃんは置いてきたのかしら?」
『とぼけないでください、ガブリエル!
僕は見ていましたよ?
君は今、あろうことか白フンの君のTシャツに……』
珍しく眉間に皺を寄せて詰め寄るリュカに、ガブリエルが思わず後ずさる。
「だっ、だって──!
あの娘が幸せになったら、アンタは天上界に戻っちゃうんでしょ!?
アタシを置いて……」
ガブリエルは宙に浮いたまま瞠目するリュカをきっと見据えて言葉を続ける。
「アンタが地底界に堕とされてきた時、天上界からの要請を受けた
アンタと一緒に過ごした日々は、アタシの生涯で初めて感じた平穏で幸せな時間だった。
でもアンタが戻っちまったら、残されたアタシはどうなるのよ!?
どうせまた使い魔として下衆な下級悪魔たちに死ぬまで何百年とこき使われるんだわ!」
切実さが滲み出たガブリエルの言葉に、リュカの深い湖の瞳が揺らいだ。
『ガブリエル……。
君が話し相手になってくれたから、僕は地底界での謹慎中を退屈せずに過ごすことができました。
君には感謝しているし、友情も感じています。
しかし、僕はどうしても天上界に戻らねばならない』
そう言ったリュカが、こちらを見上げる。
『あのひとが……
愛するラファエルが、僕を待っているのです』
リュカ──
私のことを、思ってくれているのか──
喜びに心が震える。
私のことは見えていないはずの彼に向かって思わず手を伸ばす。
もう少しで、きっとこの手が君に届く日がくるはずだ。
「ふんっ!
誰が待っていようがアタシにゃ関係ないわよ。
アンタを天上界に戻すわけにはいかないんだから!」
ガブリエルはそう吐き捨てると、黒い羽を大きく広げて飛び去った。
『……仕方ない。洗い直すとしましょうか』
ため息をついたリュカは、益次郎のTシャツをハンガーから外し、掃き出し窓を開けて部屋に入っていく。
ああ……愛しいリュカ!
私はずっと君を見守っている。
どうか一日でも早く、罪を贖って
そうしたら、今度こそ私は天使長の鎧を脱ぎ捨て、君の注ぐ甘美な蜜酒に心ゆくまで酔いしれよう──
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