💘10 スタートボタンでオールOKでしょ

『ちえり。洗濯機を回しますから、今着ているジャージを入れちゃってください』


「ねえ、リュカ。今日はあたし自分で洗濯する。先輩のTシャツはあたしが洗いたいの」


 翌朝。

 いつものように洗濯を始めようとするリュカに、あたしはいつもと違う返事をした。


 その言葉を受けて、一瞬ぽかんとしたリュカがぱあっと顔を輝かせた。


『白フンの君のために、ちえりが自分で洗濯すると言い出すとは……!!

 恋の力によって、ちえり自身が変わろうとしているなんて、まさに幸せを掴むための第一歩じゃないですかっ!』


 そう言いながら涙で潤んだ瞳は、透き通る湖面を風が撫でたかのようにきらめいている。


「そ、そんなに感激すること?」


 たじろぐあたしの両手を握りしめて感涙していると思ったら、今度は突然何か思い当たったらしく、ハッと顔を上げて美しい眉を歪める。


『それはそうと、ちえりが大切なTシャツをきちんと洗えるんですか?

 下手に洗って色落ちしたり襟元がよれたりしたら、かえって白フンの君に幻滅されちゃいますよ?』


 この堕天使、怒涛の百面相の後に随分と失礼なことを言い出したぞ!?


「言っとくけど、リュカが来る前はちゃんと自分で洗濯してたんだから!」


『そうは言ってもちえりの場合、二週間くらい平気で溜め込んでいたでしょう?

 着た洋服を洗濯槽に放り込みっぱなしにしてたから、僕が来た時には洗濯槽のカビ臭がすごかったじゃないですか。

 洗濯槽カビキ〇ーを一体何本使ったと思ってるんですか』


「むう……。

 今から洗えばいいんでしょ!?

 今日干しておけば、明日には返せるし」


 むっとしたまま部屋着のジャージを脱いで洗濯機に放り込み、スタートボタンを押そうとしてリュカに遮られた。


『ちょっと待って!

 今使ってる洗剤はすすぎ1回でOKのものですから、ここの「すすぎ」ボタンを3回押して、すすぎを1回に変更してください!

 それから、脱水をしすぎると服の形が崩れます。脱水は3分に変更してからスタートボタンを押してください。

 それから、昨日はバスタブにお湯を溜めたので、このホースを使ってふろ水を……』


「だあぁっ!うるさいっ!!

 全自動なんだからスタートボタンをピッて押せばオールOKでしょうがっ!なんでいちいちめんどくさい操作をしなきゃいけないのよっ」


『ほらぁ、やっぱりめんどくさくなってるじゃないですか!

 だから僕がやりますって……』


「めんどくさいのはリュカがあれこれ口出すからよっ!

 あたしがやるって言ってるんだから、あたしのやりたいようにやらせてよっ」


イラッとして、ついきつい口調で言ってしまった。


リュカの瞳が一瞬揺らめいた。



『そうですよね。ちえりが自分で洗濯することが大切なんですよね。

……僕はまた同じ過ちを繰り返すところでした』



そう言って穏やかに微笑むけれど、深い湖の色をした瞳が寂しげに翳っていると感じるのは気のせいだろうか。



「“同じ過ち” って……?」


その言葉が細い鈎針のように引っ掛かり、あたしは思わず引っぱり出した。


『……ちえりは、“七つの大罪” を知っていますか?』


「七つの大罪? 何それ」


『暴食、色欲、強欲、憤怒、怠惰、傲慢、嫉妬の七つです。

 神は、人間の抱くそうした欲や感情が罪を犯す原因になると考えています。

 そして、僕はある人物にその罪を教えてしまいました』


 リュカの告白が始まる。


『僕は天使だった頃、聖人と呼ばれる人物に神からの啓示を伝え、その人を守護する仕事をしていました。

 僕が最後に担当した聖マラカス──。

 彼は信仰が厚く、無欲で慈愛の心に満ちた素晴らしい人物でした』


「そんな人が大罪を犯したの?」


『僕が悪いんです。

 明るくて優しいマラカスさんが僕は大好きだった。彼のために僕ができる最大限のサポートをしてあげたかった。

 その思いが強すぎた僕は……。

 彼に対して過保護になってしまったんです!』


 後悔の色に満ちた表情で唇を震わせるリュカ。


『彼のスケジュール管理から祈りの準備、身の回りの世話等々、僕が過剰に世話を焼いた結果、彼は “怠惰” や“暴食” に溺れてしまいました。

 マラカスさんはいつしか神への感謝を忘れ、信仰を忘れ、勤労を忘れ、迷える人々の救済を忘れました。

 彼は聖人の地位を剥奪され、僕は彼に大罪を教えたとして地底界に送られることになりました』


 なるほど。

 過保護なリュカのやらかしそうなことだ。


「じゃあ、このままだと今度はあたしに “怠惰” の罪を作らせることになるんじゃないの?」


 リュカが再び罪を作って地底界に堕とされたら――

 そんな不安が頭をよぎる。


 けれども、あたしの心配とは裏腹に、リュカは端正な顔を崩してにかっと微笑んだ。


『ああ、その点についてはご心配なく!

 ちえりの場合は、僕が現れる前からすでに “怠惰” の極みでしたからね。

 むしろ、その怠惰な生活を清潔で健康的な生活に導いているわけですから、僕はしっかり罪をあがなっているんじゃないでしょうか』


 なんだかエラい言われようじゃないか!?


「ええ、そうね。確かに私は怠惰ですけどね──。

 その七つの大罪の中に“憤怒”ってのもあったっけ?

 このままリュカに小言を言い続けられたら、あたしの中で憤怒の気持ちがむくむくと膨らみそうなんだけど」


 その一言で、リュカの顔が青ざめた。


『わっ、わかりましたよ!

 洗濯のことはあんまり細かく言わないようにしますから、せめて服は着てください。

 おへそが出ていては風邪を引きますよ!』


 慌ててクローゼットに私の着替えを取りに行くリュカ。


 あたしのためにいろいろしてくれるのはわかるけど、いちいちが細すぎてストレスがたまるのよ。


 背中に折り畳まれた黒く艶やかな翼に向かってあっかんべえをしながら、あたしは洗濯機のスタートボタンを押した。

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