脱出

白井惣七

脱出

 男は一週間ほど、眠りにつくたびごとに同じ夢を見た。もしかしたら細部は違っていたかもしれない。だが、いつも同じ女が現れるのであった。知らぬ女である。知っているかどうかさえ分からなかった。夢の中で男にはそれが誰なのか分かっていた気もするが、夢から醒めると、それを誰と同定していたのかわからなくなってしまうのである。顔が判然としない。夜のように深い黒をした髪が、不気味なまでに白い肌を千切り取っている。その表象は、靄が立ち込めたようにうっすらと男の記憶に留まってはいたが、顔の形はどんなもので、眼がどんなふうにどこに付いており、それが鼻の位置といかに関係していたか、ということすらすっかり忘れてしまうのであった。あるいは、夢の中でさえそれをくっきりと見て取ってはいなかったのかもしれない。白色と黒色とをもって、女の顔だ、というしかたでぼんやりと記憶しているのみである。唇が赤い。それだけで見れば健康的に艷やかさを持っていたが、肌の霜のような白さと比較すれば病的にも映るような赤い唇であった。女の顔について、その赤色だけは妙にはっきりと男の記憶に刻まれていた。そうしてその赤い唇がゆっくりと動いて、こう言うのであった。

「月のない夜、森に一本だけ生えた、あの椿の木の下でおあいしましょう」。

 声も記憶にない。音を介さずしてことばそのものが聞こえていたのかもしれない。だがこの赤い唇の女は決まってこう言う、ということがはっきりと男には記憶されていた。不思議な夢である。不気味な夢である。男は目覚めるたびにそう思ったのであった。しかしそれと同時に、夢が終わるたびに、半醒の頭で男は布団の中でこうも考えるのである。どうも、この女は美しいらしい。いや顔は分からぬが、美しい気がするぞ。美しいに違いない。悪霊だろうが鬼だろうが、美しいならよかろう。取って食われても、美しい女ならよかろう。あの唇ならよかろう。あの唇だ。どうにも、あの赤い唇がいまいましくもおれを惹きつけるのだな。ああ、唇よ。妖しく浮かぶ赤の光……。


 赤い唇が夢の中で語りかけてきて以来、男は、恋人との懐かしき再会を待つかのような落ち着かなさの中に暮らしていた。埃っぽい部屋で、背を曲げ、薄弱した視力によっては朧げにしか見えぬ活字を追い、普段の如く男が某という古代の人物についての研究を行っている時であった。男は、目で追いかける文章を構成しているアルファやベータといったギリシア文字が次第に白い紙面に沈んでいくような錯覚に襲われた。疲れを癒やすようにじっと目を閉じて再び文章に向かえば、また弱視によって境界の曖昧な文字が並んでいるのが見える。だが、そうしてくねくねとした文字に向かっていると、しばらくしてまた黒い文字が白へと沈んでゆく。目の前にある某の著作に印刷されたギリシア文字だけでなく、辞書や文法書に刻まれたラテン文字や漢字、平仮名までもがずぶずぶと沈み込んでゆく。字が判読できないまでに白い海に溶けてしまうと、今度は、夢で見たあの赤さがじりじりと浮かび上がってくるのである。なんという幻覚か! 男は可能な限り強く目を閉じるが、真っ暗な瞼の中でさえ、じりじりじりじりと焦がすようなあの赤がせり出してくる。男は捕らわれていた。いずれの書を手に取っても、黒い文字は一様に溶解し、書物に記されたあらゆる意味が崩壊しきった白い紙面から、針で刺した傷口から血が滲み出してくるように、あの赤い幻が浮かんでくるのであった。こうして日々を過ごしている内に、男は常に夢に浸っているような感覚に陥り、奇妙な興奮を抱くに至った。男にとって、もはやあの赤い唇の夢が主であり、万巻の書物を捲くる今ここという現が従であるかのごとくであった。


 時が月の薄片を悶えるような遅さで剥いでゆく中、その月の欠片の数だけ、夢の中で男はあの赤い唇に誘われたのである。

「月のない夜、森に一本だけ生えた、あの椿の木の下でおあいしましょう」。

 確かに、毎度一言一句この通りに、夢の女は囁くのであった。音を伴わない女の声は、少しずつ蓄積し、いまや、男の心は女の発するこのことばで殆ど埋め尽くされ、性欲と純粋な愛情とが境無く混ぜ合わされていた。男がかっと目を開いて書物へと向かっても、すぐさま文字は溶け去り、意味は崩れ落ち、紙面にはあの赤しか残らなくなっていた。男の精神は常に半ば寝ているようなものであった。男が夢のあの女へ、いやむしろあの唇へ抱いている想いはもはや狂乱のごとくであった。男にごく僅かに残された現の理性は、あの唇とは畢竟霊である、霊的なものへの強力な欲求とは是精神の昇華なり、声は即ち完成への通路に他ならぬ、とあれこれ思考するものの、夢にまどろむ男の本能にとって、やはり唇は肉体であり、その官能であり、その快楽であった。男には、椿の木のもとへ行き、あの女との約束を果たすことは、朦朧とした現実から明晰な夢への幸福な脱出であるように感ぜられたのである。


 今宵こそ、新月の夜である。日の傾きに併せて空気の密度は上がり、夜が更けていくにつれて、夜は濃さを増してゆく。世界が寝静まるころには濃密な黒が見える限りを覆い隠してしまっていた。男は、自分自身に対するものか、それともこれから会うであろう女に対するものか、ほとんど眠ってしまった理性のどこかに抱かれた羞恥のために、すでに愛欲に満ちた心を落ち着け、平静を装い、夜の空気へと踏み出した。興奮に熱気を帯びた男も、白く曇る吐息を吐き出すたびに風船のように縮んでいった。風が通り抜けるたびに男の肉体は震え、四肢は強張った。またそのたびに、冷たくかじかんだ指は肌の温い柔さを恋しく思う。そして男はあの唇を思い出すのであった。

 椿の木があるはずの森へ至るためには、小川に架けられた小さな木製の橋を渡らねばならなかった。小橋の先では、全てがそこに溶けてしまったような暗さの中に小径が伸びており、その両脇には杉の木がどれも同じ具合にまっすぐに高く伸びていた。見上げる男の目には、それらの木は、高い夜空にあたかも一つのものであるかのように融解してしまっているようにしか見えなかった。あたりは、明かりは空なる星が白い光をごく僅かばかり齎すのみの暗がりである。それでも、豆粒のような活字に倦んだ男の眼には、橋には一面、真っ白に霜が降りていたのが淡いながらも見て取られた。星の白い光を受けて、霜もまた白い光を放ち返している。男は小橋をギイと鳴らしながら、もはや薄っすらとしか覚醒していない頭で考えた。――


 星(私はこれを α と呼ぼう)は見知らぬ遥か遠く数百、数千、数万光年先から、宇宙空間を経て、霜(これは ω である)をめがけて白い光を投げかけている。その光に照らされて、霜 ω は、真夜中の空気の中で、なおいっそう白々と、くっきりと光を放っているのである。そしてその小さな結晶は、弱々しくではあるが、光をふたたび、宇宙空間を介して、星 α へと送り返すのである。α からの光は、ω において反射し、また α へと戻りゆく。光は α から ω にたどり着いた時そこで終わるのではなく、永遠に、無限に、この α と ω とを往復し続けるのである。永遠に、永遠に。――


 男の頭の中に、真黒な何もない平面に、針の先のように白い二つの点、すなわち星 α と霜 ω とだけが描かれた、膨大な宇宙空間を描く地図が茫漠と広がった。男の思考にとってこの地図は、壮大な幻想であり、美しい虚構であった。二つの白い点と、それ以外の無限の虚無と、というほどまでに単純化されたこの図式は、確かに何らかの意味で世界を正しく写し取っているように思われ、男はそれに満足した。だが同時に、男には、この地図のどこかに、自分が位置を占めているような気がするのであった。永遠に α から ω が繰り返され、そしてそれ以外の全てが欠落しているその極めて抽象的で無味乾燥な地図は、現在の自分を取り巻く冷静な現実であるように思われたのであった。


 橋を渡った先は、一度たりとも踏み入れたことのない地であったが、男は長く親しんだ道を行くかのように迷うことなく、導かれるように歩いていった。森のなかでは、すでに男の弱った眼はほとんど機能してはいなかった。前に最大限の注意を払っていても、突然、節くれだった枝が男の顔を打ち、冷たい葉が彼の頬を引っ掻いた。だが、その煩わしさに反比例して、男はますます興奮していった。これらの木々は、その最奥に待つ温かな快楽を守護する番人である。枝葉の防衛による痛みが男に生きた心地をさせる。悪路を歩む厳しさのためか、あるいは待ち受ける悦楽への期待のためか、男の体は火照り、心臓は激しく脈打っていた。息はもはや切れ切れである。男の吐いた息の、境界も定めぬ白さは、そのまま拡散し黒い闇の内に消失してゆく。男は駆け出さんばかりになっていた。ただ、その柔き赤、その温き赤、はやくそれに触れたい、という感情が男の魂を支配していた。


 やがて、すこし開けたところに出た。ようやく男は椿の木と出会った。夢の女は、椿の気は森にただ一本だけだと言っていた。これが、その椿の木なのだろう、と男は安心した。椿は、わずかに見上げたところにある艶かしく赤い一輪を除き、他は全て落ちてしまっていた。男は息を落ち着けることもなく、落ち着き無くあちらを見、こちらを見したが、あたりには誰もいなかった。柔きあの女の姿はなかった。

 それほど背の高くない椿の木の上はもう夜空であった。木々がどれもそこで溶け合っている。すこし見上げたところの、あの赤い花が夜空との境界であるかのように男には思われた。あの赤い花の下では、葉は各々の形を持ち、杉の木はそれぞれの太さをしており、地に落ちた花はどれも異なった朽ち方をしていた。

 待つ間、あの女の声ならぬ声が頭に焼き付いて離れなかった。体の火照りも拭い去られ、体は凍えてゆく一方で、男の神経は異様なまでに昂ぶっていった。風にこの椿の木が揺れ、葉が擦れあい、幽かな音を立てるのにも、あの女が現れたのかと思い、男はそのたびごとにいちいち振り向いた。男は、もはやあの女への愛が満たされることのみを求めていた。彼の理性はとうに眠りにつき、どこまでも抽象的なあの地図を、もはや朧げにさえ描くことさえできなくなっていた。白と黒との抽象的な世界は、鮮烈なあの赤色の侵食によって溶け落ちてしまっていた。「おあいしましょう」。その女の声を思わずにはいられなかった。あの女の、あの声。この椿の木の下で、いつになればおれは出会えるのだ。あの声を発する、あの唇。おれの五感が欲してやまぬ、あの女よ……。


 空が遠くからごく薄く陽の色味を受け取り始めても、一晩中、温き、柔き愛撫を求め、待ち続けた男には音を持たぬ幻聴のようにあの女のことばが繰り返され続けていた。男は、やはり夢は夢であり、現は現であり、あの女は夢の側に立つものでしかなかったか、と思いつつも、それでもこの椿の木の下で去り難く思っていたとき、ふと、何かが囁く声が聞こえた気がした。男は見上げた。すると、ふわと、この赤い花が近づいてきた。男ははっとして立ち竦んだ。この花弁は男の頬に優しく触れた。そしてそのままポトリと地に落ちていった。その驚きに、グズグズと立ち止まっていた男の思考も欲求も、そこでフッと吹き飛ばされたように消え去っていった。

 柔く濡れたこの椿の花が頬に残した雫を、男は薬指で拭った。凍えた指に、その雫は不思議と温い気がした。男は自分の乾いた唇を、その潤いで湿した。夢の女を待ちわびた男は、地に落ちて間もない、いまだ生命に溢れたこの赤い花をすこし見つめ、やがて椿の木の下を離れることにした。森を抜け、そして男ははっきりと目にした。淡い光を交えて少しずつ黒色から青みを取り戻し始めた空には、あれら、あの星たちそれぞれが己の色に輝き、そのいくつもの光に、橋に降りた霜たちは十色に反射している夜明けであった。日が登ってしまえば星は薔薇色の陽の光にかき消され、虹色に煌めく霜も儚く溶けてしまうだろう、と男は思った。

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