第10話 魔眼と射手

 排煙の街に夜な夜な狼が現れるようになってから、数日が経った。

 イデは朝早くから道で幼い声を張り上げて新聞を売っていた少年から一部を買い、テーブルで紙の束を開いていた。

 また雪が降るのかもしれない。新聞はやや湿って膨らんでいた。色の濃くなった紙面には、死者の知らせが載っている。


 しかし、イデの知っている怪奇の仕業に関しては、微塵も触れられていなかった。

 警察でネヴにみせられた写真の死体たちは、誰一人としてその名が書かれていない。食い殺された異常な死体――そんな記事があればすぐに見つかるだろう。

 実際に並んでいるのは、小さく載っている事故や病死ばかりである。悲しいが日常的な死者だった。


「あら、イデさん。面白い記事、ありました?」

「派手な死体だったのに、記者連中は何も書いてねえんだな」

「誤魔化すにも異様な死に方ですからねえ。野犬の仕業にするには傷が大き過ぎましたから。そのうち適当なストーリーで報道されて、いつのまにか迷宮入りするでしょう」

 

 ネヴの説明にイデは眉をひそめた。

 中古の帽子を被った下層民の死体が川を流れたのも、バラール国孤立も初期の話だ。

 上層民と比べれば扱いが悪くても、下層民だからと死にゆくまま放られていた時代は終わったはずだ。

 下層民といえど家族がいる。

 身元がわからない死体は新聞で告知がだされ、身元がわかれば遺体は家族のもとへ帰る。

 されど、死に方を知られてはならないがために隠された怪奇の被害者たちは?

 あの下層民は、己がどのように死んだかさえ真実を知らされぬまま、きっと消える。


「もしかして気に入りませんか」

「ああ。気に入らねえな」

「それは……ごめんなさい。下層民だからこのような扱いをするわけではないのですよ。たとえ貴族の子だろうと、同じようにします」

「俺にも理屈はわかんだよ。怪奇の実在を隠すためだろ。昨日聞いた。だからコレは俺が好きでへそを曲げてるだけだ、鬱陶しいからかまうな」


 だがかまうなといってかまわなくなる人間ではなかった。

 ネヴはイデが新聞を折りたたむ横で、神妙な面持ちで相槌をうつ。


「同胞の苦しみに胸を痛めていらっしゃるのですね。ですが、狼がいる限り、人知れぬ死者は増え続けます」

「こうしているあいだにも、どこかでだれかが……か」


 晴れない面持ちでココアを口に運ぶ。

 無情な倦怠感に包まれるイデの顔を、ネヴが覗き込んだ。

 告白に緊張する乙女のような面持ちで、パンと両手を合わせてある提案をしてきた。


「はい。そういうわけなので、今夜にでも狼狩りに行こうと思うんですけど。今夜あいてますよね?」

「急だなオイ」

「善は急げなので。ええ」


 元よりその話がしたくて話しかけてきたのだろう。

 昨晩のルーカスの話を聴いて、ネヴは閃くものがあったようだ。

 黒い瞳に宿る光はゆるぎない。彼女の瞳は、夜の海を照らす灯台のように、まっすぐに討ち取るべき怪物をとらえていた。


「わかった。俺にすることはあるか」


 ならばイデは頷くだけだ。

 下層民たちが無為に食い殺されるのを食い止める理由はない。だが、絶対に見過ごさねばならない理由もないのだから。

 なにより、もしもあの狼がルーカスであり、狼の暴威にイデが関わっているのならば。

 イデにも責任があるといえる。


(たとえどんな事情があろうが、ケジメをつけなくちゃならねえ。)


 柔く拳を握りしめる。買ったばかりの新聞がくしゃりと歪んだ。


** *

 

 準備をしてくるから、何もしないで待っていろ。

 そういわれて時は過ぎ、日付が変わる時刻になった。


「おっせぇ……」


 セーフハウスの前で、マフラーを口許までひきあげたイデが白い息を吐く。

 分厚い雲の向こうにある星も眠ったような、冷たく澄んだ夜だ。

 どのような結果になるにせよ、これが下層区を巨狼が駆る最後の夜だと覚悟していた。


 極力精神をしずめ、ことにあたるつもりだったイデも、時間が過ぎ去るのを待つ時間がこうも長いと苛立ちをおさえきれなくなってくる。

 彼の怒りが爆発するのを慌てて慰めるように、荒い勢いで運転されていた車がイデの前で急停止した。


「お待たせしました!」

「えらくノロマな善だったな。今夜が終るかと思ったぜ」

「善、バリバリ急ぎましたよ? だからまわってきたんです」

「イデくん、そんなとこで待ってちゃ風邪ひくよ。後部座席に乗りなさいよ」

 

 アルフの声とともにドアが開かれる。遠慮なくのりこめば、隣にアルフが座る形になった。緩く開かれた足の上には、ハンドガンを握った手が乗せられている。


「今日は運転手じゃねえのか」

「ああ、今日はお嬢が運転する。命綱シートベルトをきっちり締めろ」

「ちょっと急ぎで運転しますからね!」

「はいはい。そんなに急ぐくらい時間をかけて、何をしてきたんだよ」

「人目につきづらいよう手回しを。具体的にいうと事件をでっちあげてきました。今晩はよほどの無謀者でなければ外を出歩けませんよ! いやもう、これだけなのにめちゃくちゃかかっちゃってね!」

「これだけ……」

「ええ。私が動かせる人員とお金で雇った人達を使って、一軒一軒まわって警告していっただけなんですけど」


 夜間の外出を警戒せざるを得ない事件をつくりあげ、一日もかからず流布する。

 作業は単純でも、そのために必要な人数と資金を思うとぞっとしない。


「念のため更に出歩きづらく狼の出現報告の多い深夜を選びましたが、できる限り早い遭遇が望まれますね。急ぎます」

「で? 具体的にはどうすんだ?」

「いたってシンプルです。イデさんはこの街にお詳しいでしょう? できる限り高くて、狭い道をご存じないですか」

「教えたらどうなる?」

「住民が泣きます」

「わかった。どうなってもいい場所だな」

 

 そこが戦場になるのだと察して、イデは脳裏で地図を描く。

 この狭苦しい国で人の住まない場所はほとんどない。

 だが、その原因となった大地震を恐れ、倒壊に備えた造りになっている建物はある。

 下層区は頑丈な建物をつくりたくてもつくれないので、代わりにすぐ壊れても被害が小さく、立て直しやすいようになっているのだ。

 この地区で三年を過ごしたイデの頭には、どこに何があるのか、全てが収まっていた。


「できれば重い素材でできている場所がいいですね」

「だったらあそこだ」


 渡された地図と口頭で指示を出す。

 

「わかりました!」


 きくなりネヴはアクセルを踏む。

 エンジン音が妙に大きい気がした。

 虫の知らせか。ぶるりと悪寒がはしった。


「イデくん! 命綱シートベルト命綱シートベルト!」


 アルフが絶叫じみた忠告をあげる。

 バネが跳ねるようにシートベルトをした途端、衝撃的なGがイデを襲う。

 急な加速にタイヤが悲鳴をあげ、カーブに入れば車体が傾く。車内で体が軽く浮く感覚なんて知りたくなかった。

 かろうじて物理的にふるえる顎で道を教える。その間もまたたきすらできない。現れては消える壁やらガスライトやらに衝突しないか気が気でなかった。まばたきをした次の瞬間にはクラッシュしている気がする。

 

「ブ、ブレーk」

「まだ不要です。事態は緊急。善と運転ははやい方がいい」


 運転はゆっくりでいいよ! という訂正は言葉になることはなかった。

 助けを求めて横を見る。

 アルフは無表情に窓の底を眺めていた。

 心がここにない人間の顔だ。

 整った相貌にそこはかとない悲しみと諦念が満ちている。


(そういえば出会ったばかりの時、こいつネヴが運転を申し出るのを断ってたなあ)


 イデは「あれは冗談や軽口ではなく、真剣なお願いだったのだ」と頭ではなく心で理解した。

 「そんだけとばしてりゃそりゃあそうだろう」というスピードでネヴはイデが教えた場所に近づいていく。

 ミラー越しにネヴが後ろを覗いた。


「来ましたよ!」

 

 来た。何が? 指し示すものはひとつだ。

 絶望的な運転の荒さと奇跡的なドライビングテクに呆然としていたのもつかの間、水をぶっかけられたように冷静さが戻ってくる。

 首を回して後ろを見やる。

 異常にぎらついた黄金のまなこと目線がぶつかり合う。

 イデが狼をみたように、狼もイデだけを真っ直ぐに見ていた。

 青みがかった獣毛をなびかせて、どこからともなく巨狼が現れていた。

 さながら全くの無から突然まろびでたように。

 爛々と輝く瞳は、怨念に満ち満ちた人魂のように燃え盛り、今にもはちきれそうだった。


「――ルーカス!」


 大きな耳は車内の呟きを拾ったのか、狼が興奮したように吠えた。

 今までで最も狂暴な姿だった。だというのに、イデは哀しみを覚えた。


(ひどい毛並だ。ぼさぼさで固まったみたいになってる。初めて見た時より明らかに量が少ない。おまけに骨が浮いてやがる。まるで病気の野良犬じゃねえか)


 弱っているのが一目瞭然だった。

 強くなっているのはイデに向ける感情の波だけだ。

 命を燃やして想いの炎を育てるさまが、哀しかった。


「アルフ!」


 ネヴが呼びかける。

 アルフは仕事中でも余裕を忘れない。そして完全に気を抜くわけもない。

 ネヴにわざわざ声を掛けられずとも、アルフは狼が現れた時点でドア近くのハンドルを回して窓を開け放つ。

 完全に開き切ると、アルフは窓ぶちに片腕を乗せ、上半身を窓から出して獣に向き合う。

 時と場所が違えばドライブを楽しんでいる色男な彼の手には、ずっと準備されていたハンドガンがあった。


「そんな小さいので何する気なんだよ!」

「まあまあ」


 息荒く追いついてきた獣の爪に、ネヴが大きくハンドルを回す。

 車がまた名状しがたい音をあげ、間一髪で爪を避ける。

 すぐ横に振り降ろされた爪は、ネヴの操る黒い小型車と変わらぬ巨大さだ。

 そのような巨躯の前にハンドガンは豆鉄砲だとしか思えない。


「何。この銃が必要なのは、最初の一発だけですから」

「効くのかよ!」

「はい。しかし獣にはあてません」


 言いながらネヴはミラーを調整する。

 そこにはイデ――あるいはイデを危険に晒した車――を狙う狼の姿が映っている。


「実をいうとお嬢様も獣憑きビーストライダーでね」


 荒れ狂う狼を前に微動だにしないまま、アルフが話し始める。

 凪いだ湖面のように静かな表情は、彼の心の表れだ。

 両手でハンドガンを構え、ピンと伸ばしていたひとさし指をトリガーにかける。

 銃口を標的に向ける体勢だ。


「要点だけいえば《特別な眼》を持つようになったのさ。あるきっかけから、お嬢は現世ならざる世界を見る目を得た。

 医者は松果体という脳の部位に異常があるとかなんとかいってたけど、まあそれはいい」

「アルフ、左の壁です。あの珈琲のしみみたいなところ、そこから十センチくらい右、そう、それくらい」


 困惑するイデに説明をするアルフだが、ネヴはそれを無視した。

 見えているかのようにアルフに撃つべき場所を伝える。

 ミラーだけではこの状況を見通すことは難しいはずだ。しかし指示は淀みない。

 彼女にはイデには理解できない確信があった。


「肉体と精神の境目、目に映らない感情や概念、はたまた精神の構造、また或る時は物事を成立させる点と線――そんなものをのぞき見ることができてしまう魔眼。いわばお嬢には、頭の中に第三の目があるんだ」

「今です!」


 ネヴの合図とともにトリガーがひかれた。

 間髪いれない発砲は、指示を与えたネヴへのぜんぷくの信頼の証拠である。


「だからこの子は目的を十分に果たせる。標的に当てるほどの腕はなくたってね」


 銃弾が壁にあたる。

 それ自体はなんてことはない一撃だったはずだ。

 だが、揺れる車内、暴れる巨狼、ハンドガン――これだけ不穏な条件でありながら、アルフはネヴの望んだ場所に寸分たがわず銃弾を撃ち込んだ。

 そう理解できたのは、結果がまたたくまにわかったからだ。


 一発の銃弾が壁に衝撃を与えた。

 するとその一点から見る間見る間に亀裂が広がっていく。

 数秒と立たず亀裂は壁全体に及び――さながらダムの決壊の如く、崩壊した。

 バラバラになった瓦礫が無数の特大ハンマーとして狼に降り注ぐ。

 巨狼がキャインと鳴いて、瓦礫にうずまっていく。

 土煙が舞うなか、ネヴは車を停止させた。


「イデさん、ジェンガってやったことあります? ノードとリンクでもいいんですが」


 唖然とするイデを置いて、ネヴが降りた。助手席に置いていた刀を手に取り、すらりと抜き取る。


「ものを壊すのに、ちからは絶対じゃない。

 何事もいくつもの要素という点があって、経験や思考といった糸で繋げ、ひとつの頑丈な存在をつくっているんです。その繋がりを保つ点に的確に影響を与えられれば、こうして何気なく崩壊させることもできる」


 瓦礫は狼から精彩な動きを奪う。

 いくつもの瓦礫が狼を押さえつけ、身動きをとらせないでいた。

 それでも狼の膂力は大したものだ。乱雑に暴れれば、少しずつ瓦礫が狼の上から弾き飛ばされていく。

 いずれは全ての瓦礫がなくなり、再び自由になるだろう。

 それでもネヴは落ち着き払っていた。


「貴方ほど理性を失った存在は初めてで、今までは貴方の構成物をどう見ればいいのかわからなかった。見えていても、意味がわからなければおいそれといじれません。でも、イデさんの話をきいてわかってきたんです。これは愛憎の暴走なのだと」


 ネヴは鞘を助手席に投げ捨てる。

 黒い瞳に曇りなく。今や熱に狂う巨狼の底の底まで見透かす。

 刃を携えた少女は、哀れな獣を前に慈悲深く微笑んだ。


「さあ。分解しましょう」

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