第9話 忘れられたタランテラ

 足が妙に重たい。海の近くにたどり着いた時にはまだアドレナリンが働いていて、疲れがわからなかった。

 互いの口をよく滑らせてから、時間が経つほど怠さが増していく。


「そろそろ帰りましょうか」

「ああ」

「歩けます?」

「アンタが寝落ちしなきゃな。まぶたが半分閉じてるぞ」

「じゃあ歩きながら寝ないよう、しっかり見ててくださいね。任せましたから」

「調子乗るな。つねるぞ」


 手をのばすとさっとネヴは自分の頬を包み込む。

 たわいない会話は、少しだけ重さをどこかへ連れ去ってくれる。

 どちらから言い出すでもなく、人目を避けるように道の端に寄った。無言で進む。

 帰りの道中、周りの目が痛かったのだ。

 視線で気が付いたが、自分たちの姿を見てみれば二人して酷い恰好をしていた。

 イデの服はほこりまみれだし、ネヴは一層ひどい。

 いつもきっちり着込んだ服は乱れてしまっている。冬だというのに汗をかき、首元を緩め、細い首を外気にさらしていた。

 襲われ、走り回ったのだ。無理もない。

 衣服を丁寧に直すのも面倒だった。


 星のない夜を二人並んで帰る。

 ガスライトの街中でセーフハウスにたどり着く。ファンシーな赤い屋根が黒ずんで、暗くも暖かい色に見えた。

 ネヴは帰宅の安堵にくにゃりと脱力して、こてこてと玄関を開いた。


「ただいまあ」

「お嬢! もう、帰りが遅いから心配しまし――」


 海から帰ったイデとネヴを、アルフは笑顔で迎え入れようとした。

 玄関近くで待っていたのかもしれない。すぐに現れた。

 幼子に「おかえり」をいう親のような柔和な表情で玄関の戸を開けたアルフは、ネヴを観た途端、相貌を曇らせる。


「ちょっと……待っててね……」

「アルフ?」


 口調も古びた蒸気機関エンジンのようにぎこちない。

 様子のおかしいアルフにネヴはおどおどしだす。

 イデも最初は首を傾げた。そしてネヴを見てハッとする。

 汗ばんだ肌。乱れた服。疲れ切った全身。

 アルフは二人に背を向けて、フラフラとキッチンへ向かう。まいったとばかりの呟きが耳に届く。


「包丁どこにしまったかな」

「アルフ!?」


** *


 ことの経緯を聴き終わったアルフは、一転して笑っていた。


「なぁんだ。話しちゃったんですか? 困った子だなあ」

「だ、だって……すみません」

「うん。でも話しちゃったものは仕方がないですね。どうなろうがどうにかする方法はいくらでもあるから大丈夫」


 言い訳しようとしてもすぐ謝る。

 アルフはそんなところがカワイイと言わんばかりに頭をなでる。イデとしてはぞっとしない。

 『どうにかする方法』とは?


「イデくんもそう悪い子じゃあなさそうだしね。事情もわかって、色々話がしやすくなったと思えば結果オーライだ。オレ達の仕事の話は聞いたんだよな?」

「あー……表向きには扱えないオカルト事件を扱う組織だっけ」

「うん。なかでもオレ達は特定の人間を相手にすることが多くてね。今回もおおむねそんなところさ」

「特定の人間?」


 イデは巨狼と黄金人形を思い浮かべ、目を丸めた。

 ああいった存在を相手取るものだと考えていた。

 あれはどう見ても人間ではない。

 少年の頃に恐れた小説のようであるが、吸血鬼とかデュラハンとか――教会の祓魔師エクソシストのような仕事を想像していた。

 アルフも心なしか気恥ずかしそうに苦笑する。


「確かに超常現象や怪異も扱っているんだけどね。彼らは人が意識する領域の更に向こうからやってくる」

「向こう側……」

「稀に人間のなかにも無意識の海の底――オレ達はシンプルに『向こう側』と呼んでる――と繋がってしまう人間がいるんだ。

 大抵、原因は強烈な『想い』でね。便宜的に《獣憑きビーストライダー》と呼んでいる。見た目は人だが、獣の心を秘める者というわけさ。まあ、俗にいう悪魔憑きとそう変わらん」

「それで、獣憑きとやらが今回とどんな関係が?」

「当然その話になるよなあ。ぶっちゃけ、オレ達はあの巨狼も元は人間だと思ってる」


 アルフの話にイデはじんわりと嫌な予感に目を伏せた。

 今までに出た名の中で、唯一行方のわからない男の名をあげる。


「まさか、ルーカス?」


 彼らの仕事は完全ではないが理解した。

 そしてアルフは《獣憑き》は「人間」であると強調した。狼に執拗に狙われているイデがネヴに聴かれたことといえば、ルーカスのことだ。

 以上を鑑みれば、アルフとネヴがルーカスが獣憑き=巨狼だと推測していると思うのは、おかしなことだろうか。

 アルフは神妙な面持ちで首肯する。


「だがどうしてアイツが? あの狼が現れたのは、ルーカスがいなくなったすぐ後だった。一体何があったっていうんだ」


 思わず身を乗り出すイデに、アルフは胸を片手で柔く押し返す。

 夜にも関わらず、湯気のたった珈琲を飲んで『説明会』を傍観しているネヴを茶化した。

 

「ほら、芋づる式に話すことになっちゃう。沈黙は金ですよ、お嬢」

「んんっぐぅ……」


 あくまで、まだアルフにとってイデは「ちょっと面倒を見たくなる巻き込まれた一般人」でしかない。半分真摯で、半分ゆるい。


「君のカマかけは当たってる。巨狼がルーカスだとして、あれだけ執着しているんだ。君とルーカスには間違いなく関係がある」

「知らねえよ」

「そういわず。これでも君の記憶力はなかなかのもんだと思ってるんだぜ。奨学生を目指していた頃は、暗記するような問題は常にトップクラスだったらしいじゃないか」

「…………」


 イデは渋面をつくる。

 自分のことを調べられた、というのもあまりいい気分ではないが。

 イデにとって暗記問題ができることは、自慢になることではなかった。

 バラール国は蒸気文明によって支えられている国だ。国を栄えさせるための才能はあさるように求められる。

 奨学生という制度もそのひとつだ。才能さえあるならば、上層区の貴族だろうが下層区の貧乏人だろうが問われない。

 だが奨学生を目指す人間には、俗にいっても天才といえる人間が珍しくなかった。

 そのなかに食い込むためには、暗記しかなかったというだけなのだ。

 イデは天才ではなかった。


「期待されるようなもんじゃない」

「わからんさ。思い出そうとしていないだけで、案外覚えているかもしれない。人の記憶なんて簡単にはきえないものだ」

「そうですよ。結構細かいことに気づいたりしますし。記憶を研ぎ澄ませば!」

「そーれ! イデくんのいいとこみってみったい!」

「そーれ!」

「アンタら脊髄で喋ってんのか?」

「いや今のは流石に冗談だけど。ごめんね。でも気持ちをほぐすのは重要だよ。焦りは禁物、気にし過ぎちゃあ逆効果だ」


 アルフは孫に語りかける祖父のように微笑む。

 そうすると目じりに小さな皺が寄った。いつもは青年に見える彼が、間近で見ると中年男性に見えなくもないと気が付く。

 どうにも子ども扱いされている気がした。実のところ、アルフは意外とイデよりずっと年上なのかもしれない。

 正直、彼の物腰柔らかな語り口調に安らぎを覚えてしまうのが腹立たしい。


「気にするなと言われてもな」


 大人に見守られた子どもらしく安息を得ても、状況が悪いことにはかわりなかった。

 ルーカスは一方的に絡んでくるだけの男だったが、同じ下層民というむじなだ。

 椅子に腰をかけたままポケットに両手を突っ込み、貧乏ゆすりしたくなるのを堪える。


「何も今この瞬間に思い出せっていうんじゃあないんだ。早くて損はないというだけでね。よし、ひとまず腹ごしらえでもしようか。疲れていたらできることもできないだろう」

「アルフ、今日の御飯は?」

「オムレツとレンズ豆のスープ。家じゅうを掃除した雑巾みたいにクタクタなお二人さんを、オレの故郷の味でおなかいっぱいにしたげようねえ」


 アルフが席をたった途端、間髪入れずにネヴが問う。ルーカスの時はほとんど口を挟まなかったというのに。

 イデに至っては、悩ましい問題が増えてすっかり食欲が失せてしまった。

 どこにでもいるただの人間が怪物になる――頭が痛くなる。


「俺はいらない。腹減ってねえから」

「ダメ。俺の目が届くうちは若者には一日三食、必ず食べさせるからな!」

「鬱陶しい」

「だまらっしゃい。別にいいさ、見たら嫌でも食べたくなる出来にしてくれるよ」


 腕まくりをしてキッチンに去るアルフを、ネヴだけが限界まで頬を緩ませて見送った。


** *


 イデの脳天に電撃が走ったのは、食事を初めて三十分後のことだった。


 詳しくは説明されなかったものの、アルフの作ったレンズ豆のスープとジャガイモのオムレツは労働階級でよく食された食事だという。

 見目はいろどりに欠け、よくいえば素朴、悪くいえば貧乏くさい。

 して味は、はっきりいって感嘆の息を漏らすような劇的な味でもなかった。

 しかし、たっぷりの野菜を食べやすい大きさに切って煮込まれたスープは、呑み飽きることのないシンプルで旨味のしみ出した味わいだ。

 スープいっぱいのレンズ豆は、ほくほくとして腹にたまる。

 野菜で舌が疲れればスープを飲む。野菜と一緒にいれらたソーセージは皮がぷりっとして、たまらないジューシーさに噛む歯が止まらない。

 オムレツはジャガイモや玉ねぎを刻んで焼いてあり、そのままでも自然な甘さと噛みごたえは何枚でも食べられそうだ。

 添えられたトマトソースをかけてみても、優しい味に刺激が加わって美味だった。


 仕事で疲れた労働者たちを癒してきた、おなかを和やかに満たす家庭料理に、もくもくとフォークが進んでしまう。

 無表情を装っていても食器は正直だった。

 ネヴは隠すこともなくほくほく顔で三枚目のオムレツに手を出している。ボリュームのある食事をゆっくりと、しかしペースを落とさず胃袋におさめていくさまに内心呆れる。


 若者二人のためにつくられた料理で満たされ、しばらくぼうっとする。

イデだが、消化が始まる頃に脳味噌が動き出す。


 何故ルーカスはイデに執着しているのか。

 そも、狼として下層民を襲い、イデを巻き込んで傷つけようとした鎧人形にたてついたという行動に気を取られていたが、元々やたら絡んでくる奴だったのだ。

 勝手に家に入ってきたり。変に親しげに話しかけてきたり。

 いつからそうだったか?

 先程までなかったひっかかりがある。

 ふとアルフが淹れてきたココアのマグカップを口許に運び。


「……あっ」


 思い出した。


「うん? どうかしたか?」

「私の珈琲と取り違えてましたか?」

「いや、ルーカスともこんなふうにメシ食った気がして。あとアンタは夜に珈琲のむな」


 本当になんでもないことだから、すっかり忘れていた。

 生徒を殴ってドロップアウトしてすぐのことである。

 イデは父親とろくに会話をせずに荷物をまとめ、あてもなく下層区の街を歩き回っていた。

 何もしたいことがない。できることはあるが、するための気力が完全に萎えていた。

 全身が泥のゴーレムになってしまったようで、ただ歩くことしかできなかったのを覚えている。

 どうしようがどこかでつまらない小石に躓いて、爪先から全身がぼろぼろ崩れていく錯覚が全てをおおいつくしていた。

 いたずらに時間を浪費する。それだけの無為極まりないひとときだ。

そんな時に、たまさか道端で多勢に無勢の喧嘩を見つけた。すぐにいわゆるリンチとわかった。

 複数人で小さな塊を絶え間なく蹴っている。遠目に中心を見てみれば、手に財布を握りしめ、胎児そっくりに体を丸める少年が目に映ったのだ。


 今ならば弱肉強食だとか自業自得だとか、適当な理由をつけて横目に通り過ぎるだろう光景を前に、イデはどうしてか、無性に腹が立った。

 イデの人生はせき止められた川の如く行先を失っていた。

 いい年恰好をした男達がよってたかって、まだ『犯行』に不慣れだろう一人の少年を追いつめていく現れた光景は、遠目にヒソヒソと誹謗中傷をまき散らす卑怯者の学生たちを思い出させたのだ。


 無意識に、横を通り過ぎるように集団に近づき、一際激しく少年を蹴っていた男の横っ面に一撃を見舞っていた。

 つまりにつまっていた感情が、たまたまきっかけを得て暴発したに過ぎない。

 しかし結果的に少年――ルーカスを助けたのだった。


「その後はなしを聞いてみたら、腹が減って財布すったっていうから適当になんか食わした気がする。下層区にいれば喧嘩なんていつものことだから、忘れてた」

「綺麗さっぱり? 三年も前とはいえ?」

「あんときはルーカスも顔ぱんぱんに腫らしてひでえ顔してたんだよ。成長期なのか体つきもよくなってたし。いちいち人の顔見て何があったかなんて思いだしなんかしねえよ」

「可哀想に、ルーカスくん」


 どうしてかアルフはルーカスを憐れむ。その割に感心なさそうに新しいココアをいれる。


「そんなオオゴトでもあるまいし。忘れて当然だっての」


 そんなことをしていたら、イデはいちいちあの学生を思い出して、今が比でないぐらい喧嘩に明け暮れることになる。

 それは最初の一年でじゅうぶん学習したのだ。

 そのなかでルーカスとの出会いは、無数に浮かぶシャボン玉のひとつと同じぐらいなんでもない出来事だった。


「ふぅん」


 イデがとめても構わず珈琲を飲んでいたネヴが、溜め息に似た相槌をうつ。

 そしてひとり得心いったように一人ごちた。


「なるほどね。これならちょっとイケそうだぞ」

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