第8話 廃海の子どもたち

 イデとネヴは、下層区の細い道を駆け抜けた。

 家と黄金の鎧、白銀の狼からひたすらに逃げる。

 できる限り遠く、心臓が保つ限りに足を動かした。

 空は相も変らぬ曇天だが、布越しでもわかる気温の変化と暗さを増していく家々の壁が時の経過を教えてくれる。

 夜のとばりがおりかけていた。


「ふう……随分走りましたね。もういいかな」

「海の方まできちまったな」


 二人が立ち止まったのは、さざなみがハーモニーを奏でる海の傍だった。

 海と街の間には、申し訳程度の柵が設けられている。

 下層区に近いうえ、潮風にあたる柵は朽ち果てる寸前の見た目だ。

 廃液で汚れた海は夜の闇をみ、どす黒い。


「あの二体は追ってこないようですね。波の音が澄んで聴こえる。あの巨体が迫れば無音というのは無理がありますから……何かの特殊能力でもない限りは」


 ネヴはそろそろと息を吐く。

 黒い髪を重そうにかきあげ、木の葉が落ちるようによろよろと柵に背を預けた。


「大丈夫か?」

「すみません、急に気が抜けちゃって」


 また眉を下げて自嘲の笑みを浮かべる。

 長い距離を走って息があがっていた。頬は桃の蕾色に紅潮していた。その色が似合う程度には穏やかだ。

 先程の凶相は見間違いだったのだろうか。

 気まずい沈黙が流れる。


「ちょっと待ってろ」


 疲れているのだと誤魔化して、いつまでも黙り込むつもりはない。

 ネヴに一言伝え、イデは少しの間その場を離れた。

 数分もしないうちコーヒーとココアをもって帰ってくる。


「私がコーヒー好きなの、覚えてくださったんですね」

「今朝飲んでたから買ってきただけだ。あんたの好きなもんなんか知らねえよ」

「あっ、そりゃそうだ。まだ会って間もないのでした。もう一週間ぐらい付き合っている気がしてきてましたよ」


 両手を差しだし、ネヴは大切そうにコーヒーを受け取った。

 目を細め、とても嬉しそうにする。なんだか気恥ずかしくなって、イデは目を逸らしてしまう。

ネヴィー・ゾルズィという少女の本当の顔がわからない。


(なんも浮かばねえ。なんでもいいから話さねえと)


 イデを取り巻く状態は異常だ。

 誰にも見つからず街の貧民を殺してまわる狼に、黄金の鎧人形。

 言い逃れしようのない、ありえない現実を突き付けられた。いい加減わかる。


 イデが格好つけて自分の頭で考えようとしても、わからない事実があるのだ。

 あれらは意識の視覚、脳の裏側から這い出てきた深淵の怪物だ。

 狭く荒み、うわべだけを煌びやかに照らす科学とは異なる世界の住人なのだ。


(ありえない。しかしそう思わざるを得ない。それにこたえられるのは、こいつだけだ)


 イデという男は、見目こそ悪人じみている。

 眉間の皺は消えないし、目を合わせただけで警戒される。

 しかし、一度は学び舎を目指した身である。勤勉だ。変なところで真面目でもあった。

 度重たびかさなる怪奇は、彼が新しい現実を認めるには十分だ。それぐらいには脳の皺は柔らかい。


「なあ。ホントになんも話す気がないのか。ここまで巻き込んでおいてよ」

「…………」

「流石にここまで俺を置いてけぼりにして、自分たちが理不尽だって思わないのか」

「それは思いますが」

「なら、あんたが何をしようとしていて、これがどういうことで、ついでに俺はどうしたらいいのかってことぐらい教えてくれてもいいんじゃねえの」


 イデの要求にネヴは口ごもる。

 何故か今までのような明確な拒否を示さない。


(あと少しだ)


 今は周りに敵などいないというのに、目の前に答えがあるという期待がイデを焦らせた。

 固まったネヴの手首を掴む。

 その手首の細さにぎょっとする。あの鎧人形をはねのけたとはとても思えない。片手で簡単に包み込んでしまえる。

 掴んだ力をそれとなく弱め、なるべくゆっくりと急かす。


「ほら、話せよ」

「…………」

「わかった、ならこうしようぜ。俺は今からアンタの独り言を聴く」

「独り言?」

「ああ。色んなことがあっただろ。だからアンタは、それを口に出してまとめるんだ。

 知っていることや考えたことをそのまま話せばいい。専門用語なり、アンタのいう秘密なりもそのまんま。

 たまに口を挟むかもしれねえが、なんだ、自問自答の問の方が俺の口を借りてんだと思え」

「もしかすると貴方にとってよくない話かもしれませんよ?」

「なんだ、そんなこと気にしてたのか? もう十分すぎるくらい悪いものに襲われてる。今更だってこともわかんねのか。案外馬鹿だな、アンタ。都合が悪いんだったらわからなきゃいいだろうがよ」

「…………」


 何度目かの黙考の末、ネヴは動き出した。

 困り顔で首を傾げて、イデを見上げる。


「では、私もひとつ、独り言をお聞きしてよろしいですか? それでお話するか決めますから」

「あ?」


 イデからネヴに聴きたいことがあっても、逆はあったか。

 思い当らず眉をひそめた。ネヴは構わず質問を放った。

 

「なんであの時、私を庇おうとしたんです?」

「あの時ィ?」

「私が鎧人形を斬ろうとしたときですよ。正直、危なかったです。うっかり貴方を斬ってしまっていたかも。それに私を庇う必要なんて、貴方にはこれっぽっちもなかった」

「うっ」


 イデはうめく。正直、あまり聞かれたくないことだった。

 ネヴを助けようとしてしまった理由は、冷静になって考えてみれば恥ずかしい。

 ここ数年、不良として生活してきたイデの不良なりのプライドを損なうものだったのだ。

 これも答えを得る為と、渋々前置きした。


「あー……笑うんじゃねえぞ」

「はい、笑いません」

「絶対だぞ。あの時な……あー……あのまま突っ込ませたら、壊れちまうんじゃねえかって思ったんだよ」


 己に敵意を向ける鎧人形を前にして、笑ったネヴ。

 イデには、それがどうしてか自分と重なったのだ。

 大学を卒業して人並みに豊かで安全で、誰にも後ろ指を指されない人生を送りたかった。だがそれをつまらぬ激情で失った。以来、いつ擦り切れてもいいように不良ぶって生きている自分と。


――諦めた夢にいつまでも背中を焦がされて、熱から逃れたくても忘れられなくて。ならばいっそ炎に飛び込んでしまえ!


 下層民の幾人かが抱える憤懣を彼女にみてしまった。

 その瞬間、反射的に体が動いていたのである。

 案の定、ネヴもきょとんとあどけない間抜け面をさらす。


「壊れる……私が? それを気にしたんですか?」

「別に。目の前で机からカップが落ちそうになってたら、考えるより早くキャッチするだろ。それと一緒だ。邪魔して悪かったな」


 イデの顔から火が出そうだった。 

 舌打ちをするイデと反対に、ネヴはほうほうとしきりに頷く。

 口許がかすかに弧を描いていた。腹いせも兼ねて手首を掴んでいた手を離す。同じ手で隙だらけの頬をひっぱった。それでも面白そうに笑う。

 ちなみに頬は柔らかかった。よくのびた。


「……そうですね。ええ」


 ついにネヴはそういった。

 ぱっと頬も解放する。

 自由になった口から、情報が流れ出す。


「先程現れた鎧人形は、駆動装甲ニスデール・ドライブという特殊な蒸気機関です」

「下層民には手に入れられない、っていってたな。高級品なのか」

「値段もありますが、駆動装甲のエネルギーには蒸気以外のエネルギーが使われています。先程、貴方がおっしゃった《オカルト》に属するもの――といえるでしょう」

「あの機械が……オカルトで動く?」


 そういわれても実感がわかない。

 生まれた時から蒸気機関で文化がまわっているバラール国で生まれ育ったイデにとっては、機械とは蒸気、すなわち科学で動くものだ。

 オカルトの存在を確信することと、その正体を理解することは、また違う。


「幻肢痛って知ってます?」

幻肢痛ファントムペイン? 確か、失われた四肢があるように感じる症状だったか」

「大まかにそういった理解で構いません。明確なメカニズムは未だ不明ですが。

 駆動装甲は、主に貴族層を中心に使われている義肢などに使用されている技術です。

 《かつて存在していた部位の妄想》でかたどられた非現実の肉体と、駆動機関という現実の新しい身体を妄想の神経を繋ぐ。使用者は、さながら本物の身体のように駆動機関を扱うことができるそうです」

「マジでいってんのか?」


 ネヴの話していることそのものが妄想じみていた。

 だが彼女の顔は至って大真面目だ。それが彼女にとっては当たり前の現実なのだ。

 

「中流階級以下には、一切普及していない技術です。特に、あの黄金の鎧人形はかなり年季を経ていました。巨大で――つまり使用者に負荷がかかりやすい――、クラシックなデザイン。《恐怖機関》という古い術式を内臓したアンティークだと思います」


 機関。煙をふきあげて動作を行う機械。

 それ自体には親しみがあるものの、彼女が語る機械は成り立ちも目的も、科学と道理のそれからかけ離れている。

 うさんくさい話だ。だが彼女は半ば退屈そうな面持ちで予想をのべていた。

 事実としては知っているけれど、専門外だし興味がないといいたげな様子は、かえって生々しい。


「半ば科学、半ば怪奇として存在する駆動装甲ニスデール・ドライブに寄せられるおそれの感情を、奇っ怪なるものとして成立するうえでのエネルギーとしてくみあげて使用する――常にエネルギーを補給できる道具として開発されたらしいですけれど。使い手にもかき、自我をもつ個体も現れたため、危険視されて廃棄になりました。

 もしも隠れて所有していたのなら、持ち主は相当な財力なり権力なりを有しているか……あるいは隠蔽に長けた魔術を扱える可能性があります」


 イデは顔の前で両手を合わせて考えてしまう。

 わからないところがあれば口を挟むとはいった。しかし、まずどう口を挟めばいいかすらわからなかった。

 ネヴも、イデとネヴの間にある現実の乖離は承知していた。


「きっとイデさんにはよくわからない話でしょうね。この国はそういう風に動いていますから。

 怪奇は迷信であり、科学こそが未来を照らす灯台として、神秘を隠匿している。妖しき古の奇跡を、ただびとから奪っている。イデさん、我々バラール国の国民の生き方というのは、蒸気機関そのものなのです」


 ネヴが語るのは、イデたち下層民に秘されてきたバラール国の裏の姿だった。

 それはイデもよく知る蒸気機関に例えられると、彼女は言う。


「昔、父がいっていました。蒸気文明とは楽観の上に成り立つのだと。

 海を穢し、空に永遠の曇天をもたらす。生活は楽になりました。

 蒸気文明の発展にもたらされるものは、絢爛なりし炎と煙の偉業で照らし出されています。ですが、その影には必ず自然の穢れがつきまとう。

 確かにある緩やかな滅びに、『どうにかなるだろう』という楽観があるから、今ある幸せを満足に享受できる。明日の希望を得られるのです」

「……怪奇と魔術が存在しないといって、上流階級で独り占めしているのは、民を楽観によって支えるため?」

「勘がよろしいですね。そうです。

 文明は人類を栄光へ導けど、時に自然の脅威に追いつけない。その時に民の心を守るのは《楽観》でした。


 明日には今よりよくなっているはず、苦しくてもすぐにどうにかなってしまうわけじゃない。

 今日より一ミリ二ミリ変わった先があるだけ。どん詰まりの真っ暗闇とは夢にも思わない、そういう幸福……


 おかしいとは思いませんか? 誰もが蒸気の脅威を知っているのに、太陽のもとで草木が根を張るようにとどこおりなく文明が発達することを。


 上流階級は下層区に秩序と制御を与えるために、神秘は存在しないと偽り、科学だけが実在すると流布しました。

 様々な魔術的作用によって、この国は暗示で団結し、絶妙なバランスで今日を生き続けています。

 バラール国の混乱期、率先して活躍した人々に連なるのが貴族ということになっていますけれど、本当は、貴族とは暗示をかけて国に貢献している魔術師のことなんですよ。


 一方で、『現実に怪奇は起こりえない』と報じている以上、表向きには怪奇事件を取り扱うことはできません。公的機関に代わり、表側では扱えない事件を担当しているのが《私達》です」


 この世ならざる世界、この国を成り立たせるための嘘は、イデの世界を根底から揺るがした。

 心構えができていたおかげで、眩暈こそ起さない。

 想像以上に大きな話に頭がぼうっとした。

 整理には時間がかかる。

 額に手をあてて天を仰ぐと、手が冷たくて気持ちがよかった。


「まあ、ぶっちゃけウソかマコトかどうでもいいんじゃないですかね。信じようが信じまいがやってくる未来が変わるわけでもなし、貴方が信じたい方を信じれば楽だと思いますけれど」


 そういって、ふと急にネヴは遠い目をした。

 細められた瞳に影が落ちる。黒曜石より澄んで、ブラックオニキスより艶やかな瞳の色が深くなる。


「だってほら、どうせあっちは理不尽なんだから」

「……そりゃオカルトなんてあったら道理が通らないこと極まりねえだろうが。そんな笑っていうことかよ、こんなふざけた馬鹿騒ぎに付合うのが仕事なんだろ? 嫌になんねえのか」

「なるときもありますよ。でも割と楽しいからなー」

「マジで?」


 腕を組んでにへらと笑う。

 イデは無意識に耳を傾ける。

 岩の先につどった雨水が湖面に滴るかのように、ぽつぽつ、心の奥底に落ちていくかのような言葉だった。

 それはきっと、ネヴという少女を形成する核のようなもの。

 イデにとっての三年前、学び舎での雪のような思い出だ。


「ええ。人は幸せを得ることで明日の希望を繋ぐんです。私だってこの世界で生きるには、生の喜びが不可欠。私が一番幸せになるのは、人間スキだなあ、助けてあげたいなあって思うとき。何の引け目も感じなくていいし、実に気持ちよくてシンプルじゃないですか」

「はあ」

「だからこの仕事はぴったり。襲い来る苦痛から必死に生き延びようとする人間ほど愛おしいものはないですもの」


 イデは改めて確信する。

 イデとネヴは似ている。

 ネヴのそれは、愛情が憎しみを上回ったうえで歪んだような形であるが。

 育ちのよさと慈悲深さ、刹那的な情熱を併せ持った結果。

 粗悪な生まれに反して、知ることと高い場所を見ずにいられなかったイデのように。


 ネヴとイデは、この炎と煙、くすんだ歯車でできた世界に産み落とされた、できそこないの子どもだ。

 生まれらしくできず、健やかに育つこともできず。成長して大人になって、強靭な精神をもつこともできない。

 遥か彼方の空を見上げる子どものままの、まわりとかみ合わない不出来な歯車――


「無為に暴れ狂う獣との喧嘩なら、誰も怒らないし、思いっきりやりたい放題やれて、楽しいもんですよ」


 無意識か、こらえきれない空虚なえみをもらすネヴに、イデは何故じぶんが三年前に人を殴ったのか知った。


 母の悪口を言った彼を殴りたかったのではない。

 攻撃したかったのは《世界》だ。

 母が悪しざまに言われ、己が苦しむ《世界》だ。

 母を罵った彼が正義面で楽々と呼吸できる《世界》だ。

 何よりも、どうしようもない自分と《世界》を壊してしまいたかったのだ。

 イデとネヴは、よく似ていた。

 だから放っておけないのだ。

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