第6話 崖の先へは穏やかに

 イデは突然、糸がぷつりと切れるように目が覚めた。

 まず薄く目を開いて、またたきを繰り返す。

 花緑青エメラルドグリーンの瞳が電気が消された薄暗闇を見渡す。

 カーテンは開けっ放しだった。朝日は射し込んでいない。今日も灰煙で覆われた、永遠の曇天だ。

 だが起きた部屋は昨日と違う。

 隙間風は吹かない。壁は分厚い。外は風に吹かれる雪の音さえ届く静寂が辺りに行き届いている。

 カーテンは黄色の花柄で、破れひとつなく年季を経ていた。


「どこだココ……」


 たっぷり三分ほど寝ぼけ眼で布団にくるまっていた。

 この布団からして、イデの家にあるものとまるで違う。

 冬に適した厚みがあって、もこもことしていた。ほつれひとつない。完全な状態だ。

 今までになく体が軽い。


(そうだ、あいつらのセーフハウスに泊まったんだ)


 ようやく血が巡り始める。

 妙に早く目が覚めたのも、慣れない場所で寝たせいだろう。そのくせ目覚めがいい。イデとは生活の質が違う。


「二度寝もだりぃ……」


 睡魔がほとんどない。

 やむをえず布団から起き上がった。白いタンクトップの上に上着を羽織る。

 これといってやらねばならぬこともない。

 暇を持て余す。

 ただ、イデは毎朝ココアを一杯は飲むのが日課だ。他人の家でも気になってくる。

 だから勝手にキッチンに入った。

 特に探索する必要もなく、昨日、事件の写真を見せられ、その後にポトフを食べたリビングからすぐだった。

 棚にしまわれた食器を適当に取り出す。それぞれ違う色のマグカップ、三つ。

 少しあされば粉末のココアも出てきた。


「下層民を見張るでもなく招き入れたんだ、これぐらいは覚悟の上だろ」


 ケトルやかんに水を入れて、火にかける。

 今はどこでも蒸気機関エンジンで、火に困らない。困らないが、所属する地区・階層で使える機関エンジンの性能差はあった。

 下層区のエンジンは大きな鳥の羽ばたきよりうるさい。セーフハウスのコンロは、スイッチを捻って「カチッ」と鳴らすだけでよかった。

 そのうちコトコト動いて沸騰するだろう。

 彼女が来たのは、ケトルが白い煙をふいて踊り、湯をマグカップに注いだ直後だった。


「イデさんのココアくーださい」

「ダメ」


 足音もなく背後から忍び寄ったネヴは、横から黄色のマグカップをかすめとっていく。

 できたばかりのココアから白い湯気がたつ。


 丸い壁掛け時計は朝の六時を指していた。

 ネヴは黒い手袋をして、既に白い制服らしきものをきっちり着込んでいる。

 イデが持っている袋が粉末ココアだとみると、冷蔵庫から黒い豆の入った袋をもってきてコーヒーミルを回しだす。


「私のコーヒーとココアを合わせてカフェモカになりませんかねえ」


 てっきり飲まないのかと思いきや、彼女は粉を挽いてフィルターを用意し、コーヒーを淹れるという一連の動作を果たした後で、きっちりココアのマグカップにも口をつけた。

 言った割に混ぜはしない。

 一口くちをつけるなり、ネヴは悲鳴めいて唸る。

 

「うわ、イデさんココアいれるのうまいですね。私の豆からひいたコーヒーにも負けず劣らずとは。悔しい、これは悔しい……」

「人の話聞けよ。そんなところで悔しがられてもよぉ。第一、元はおんなじだろ」


 外交ができない状態にあるバラール国では、当然ながら輸入ができない。

 すると使用できる食材が相当に限られてしまう。コーヒー豆にココアだって、両方バラール国では育たない。

 舌の肥えた国民の多い元観光国で食糧事情を支えているのは人工的に作られたとある茸だ。

 いっしょくたに万能茸フリシビル・フンギと呼ばれている。


 開発者は、とある秘密サークルだという。

 母国の味を懐かしむ移民たちを中心に構成された「食の変態達」と呼ばれる獄少人数のサークルだとか。ほぼ都市伝説である。

 先に見つかったマイコプロテインをヒントに開発されたとか、なんとか。


 開発経緯と加工法はごく一部で極秘に扱われているため、イデもどうやって多種多様な食物を模倣できるのかわからない。

 しかし万能茸の栽培法自体は広く開かれている。認可と定期的な視察を受けながら、各地の農家が生産に励んでいる。

 初期は暗惨あんさんたるものだったというが、おかげで、時が孫世代のイデに至る頃にはそれなりに味覚が満たされた。


 だから豆の形になっていても、粉末にされていても、元は茸だ。

 見た目も生活に根付いたイメージだから再現されているだけで、実用的な意味はない。


「そりゃあそうなんですが。気分というのは大事でしょう。どんなものでも人によってやっぱり違う気がします、美味しいです」


 褒められ慣れていないので、つい顔をそらす。

 半ば癖で否定するような言葉が出たが、ネヴは淡々としていた。淡々と褒めた。

 柄にもなく頬が熱い。


(褒められるのとか苦手なんだよ……)


「ところで今日は朝食を食べたらすぐ、イデさんのおうちに向かうわけですが。大丈夫ですか?」

「大丈夫って?」

「何か問題はないかということです。一緒に行くのは確実ですが、一応確認ぐらいはしておきたいですし」


 鼻で笑う。

 今更何を、と。問題なら山積みだ。人にも獣にも追われている。おまけに正体はわからない。

 イデが問題だらけなのは誰が見たってわかる。


「問題があるのかどうなのか。そいつは俺よりもアンタ達の方が問題だと思うんだが、どうなんだ」

「私とアルフですか? イデさんを傷つけるつもりはないですよ。むしろお守りするつもりです。そのための同行です、調査・兼・警護です」


 イデが聞きたいのはそういうことではなかった。

 考えてみれば、イデはずっと前から気になっていた。


「アンタこそ怖くねえのかってきいてんだよ」

「何がです? イデさんのお顔? 確かに街中で知らずに鉢合わせたら全速力で逃げたくなる阿鼻めいた目つきですが……」

「誰の目つきがインフェルノだ。狼のことだよ」

「はい?」

「俺に関わる奴を食い殺してるんだろ。俺ァどっちにしろクソ狼を避けられないのはわかってる。でもアンタは違うだろ。またあんなのと戦うかもしれないんだぜ、怖くねえのか」


 狼が何かわからない。それを撤退まで追い込んだネヴが普通の人間だとは思わない。

 軍なり警察なり、それこそ都市伝説に語られるような組織に属する人間か。


 イデが確信を持って知っているのは、彼女は朝のキッチンでのんびりコーヒーを淹れながら普通の会話ができる、やや小柄な少女だということだ。

 混乱している時は自分のことで精いっぱいだったが、大男のイデだって恐ろしかったのだ。

 武器を持って相対することを前提に語る彼女だって、内心、恐怖でいっぱいなのではないか。


(別に俺がマトモな人間だからこいつを心配してるわけじゃない)


 昨晩といい、一方的に心配され、気遣われるのは収まりが悪いのだ。

 我ながら三年以上していなかった気遣いをするとむず痒かった。


 ふざけていたネヴも、イデが真剣にきいて譲る気がないのだと諦めたらしい。

 急に歯切れが悪くなる。


「いえ……実を言うと、別にそこまで……だから大丈夫です」

「ホントか? 俺はまだ腕が痛む。アンタはたまたま無傷だが、次もそうとは限らない」

「ご心配なく。貴方は守ります」

「……俺なんか守られるだけの価値なんかない。下層民だからな」

「そうですか。私には関係ありません」


 ネヴは瞳を伏せない。どこまでも真っ直ぐ見てくる。

――疑問を向けるのは許さない。自分を知ろうとするなんて、はなはだしい。

 そう言われているようだ。


「別にお悩みにならずとも、私、動くのは好きですから。なかなかスリルがあって楽しいんですよ、コレが」


 強がりなのかイデには判断がつかない。

 ネヴは異様に落ち着いている。こんなコトを何度も経験してきたという口ぶりだ。

 イデの方が動揺してしまう。図々しさを演じてきた口調が崩れる。


「こういうの、初めてじゃないのか? アンタら、なんなんだよ」

「それは秘密です」


 ココアを飲みほして、コーヒーにミルクを注ぐ。

 のんびりとしたネヴの動きは、イデとの間にある絶対的な壁を示す。

 生まれだとか階層だとか、そういったもの関係なしに一定ライン以上は絶対に踏み込ませないという意思表示だ。

 マイルドな色合いになったコーヒーを飲むネヴをかために、イデはココアで自分の口を塞いだ。


** *


「野趣があって、これはこれでよろしいですね。嫌いじゃあないです、こういうの」


 イデの家に入ったネヴの第一声は、こんな感じだった。

 嫌味はない。純粋に「これはこれで」なのだろう。

 最も豊かな階層に対するコンプレックスが強い人間なら、馬鹿にした冗談だと怒ったかもしれない。


「いるのが俺とでよかったな、アンタ」

「ええ。そう思います。ペットは飼い主に似るというけれど、家もそうですね。狭いようで懐が深い。隙間風が少しこたえるけれど、それは風通しをよくできるということだし。殺風景なのは、そう、野趣ワイルドですよ。よろしいです」

「……マジでそれは嫌味か? 本気か?」

「嘘偽りない本音ですよ。まあ、多少はサーヴィスも加味されているかもしれませんが。さて、アルフは別の方向を色々調べてくれるそうです。私達も早く終わらせてしまいましょうか」


 片手に持ってきた大きなトランクを床に置く。

 腕まくりをせんばかりに(実際はモーションだけだった)気合いをいれる。

 たっぷり三時間。結論からいえば、何も見つからなかった。

 ネヴはイデがとめても、ろくにない家具を何度もひっくり返してまで調べたが、特に芳しい成果は得られなかったようだった。

 眉は八の字、口は三角。露骨に悲しい顔をする。


「どうする、昼だぞ。まだまだ今日は時間があるだろう。まだやるか?」

「いえ……ここまでやってこれだけないなら、ないんじゃないかなあ、って……」

「ここよりも屋敷の方を調べた方がいいんじゃねえの。狼がしっかり出たんだからさ」

「うーん。あっちはあっちで、トイレで注射器一本しか……」


 あっ。彼女が自分の口を掌で覆う。

 気持ちが疲れて沈み、口が滑ったのだろうか。

 イデの知るべきでない情報の一つだ。うかつだった。

 あえて気づかないふりをして、頭にとめる。


(トイレ、注射器。下層民スラムのたまり場だったから、ヤクを使っている奴もいたかもしれねえ。でも気になるな)


 狼に襲われる直前、見知らぬ男に渡されたトランクを覗いた後、トイレに向かったものがいる。

 死体の発見されていない『やせぎす』。ルーカス・グルレ。

 気になったというだけだ。点は点のまま。繋がらない。

 いつごろからだったかはよく覚えていないものの、ルーカスは何度も勝手にイデの部屋に入ってはブラブラと過ごしていた。

死んでいるかもしれない、大変な状況なのかもしれない、と思えば、少しは気になる。少しは。


(ただでさえ苦しみの多い下層民。悪いことは少ない方がいい。誰だってそうだ)


 時たま、たとえそれがみすぼらしい野良犬の傷の舐めあいであっても願ってしまう。

 複雑な想いに囚われる。

 遠くを見てぼうっとしているイデの隣で、ネヴは背伸びする。気を取り直す。


「注射器といっても、麻薬の後始末を忘れたとか、理由は沢山浮かぶので全然証拠としては不十分ですけどねー。第一、何と何が繋がるのかわかんないし」


 イデが思ったのと同じことを言って、カラカラ笑う。

 うまく誤魔化せたぞ、というように胸を張っている。


(ちゃんちゃらおかしい)


 変なところでわかりやすすぎる小さな少女が、滑稽を通り過ぎて哀れに思えてくる。


「えーと、えっと。あっそうだ」


 ネヴはイデの想定以上に、とことん不器用だった。

 話を変えようとする。わかりやすすぎた。


「死んでしまった方々。どうして盗んだんでしょうねえ。ロクなお金にもならないでしょうに」

「貧乏で悪かったな」

「そういうつもりは」

「なんの得もしてないのと変わりなくても、得られるのなら欲しくなる。そういうこともあるんだよ。どんなにバカで無駄なことでもな」

「ふうん」


 生返事でイデの顔色をうかがう。

 彼女は話しながら、机の周りを手持無沙汰にもったり置いたりした。勝手に使われたのだろう、使った覚えもないのに放置されたコップのフチが欠けている。


「私にもちょっぴりわかります。いや、ぶっちゃけお金の苦労はしたことないですけれど。要は誘惑とか~……飢えの話?」

「へえ」

「ええ」


 ストンと落ちるものがあった。

 きっと、イデの機嫌を取るために試みた会話に過ぎない。

 失敗を誤魔化すためのコミュニケーションだ。

 しかし、ネヴの意見は的を射ていた。


――飢え。

――やってはいけないのに、やってしまいたくなる衝動。


 イデにいわせれば、夢も希望もない人間の自棄やけだ。イデ自身も含め、多くの下層民の若者が抱える感情だ。

 イデとは対極である少女が、それを当てて見せたことに、少し目を開く。


「やってはいけないってわかっているのに、やってみたらどんな心地になるんだろう――とか。ドキドキしてしまいます。だからやっていい時があると、つい」

「あんたでもそう思うようなこととかあるんだな」

「そりゃあ……ええ、まあ。朝にも貴方に聞かれましたけれど。だからこの仕事が嫌でもないというか? 詳しく言えないので、アレですけど」


 膝を折って床を見回していたネヴが、突然顔をあげる。

 擬音をつけるなら、「がばっ」という勢いだ。


「あの、今しゃべってて思ったんですがー」

「あ?」

「もしかして盗みが目的じゃあなかったんではないでしょうか?」

「……死んだ下層民? 盗み以外の目的で、俺の家に来たって?」

「そう! 察しがよろしい。だって、下層民で、労働貴族でもない、一匹狼の家にはいりこんだところでたかが知れてますもんね。さっき私と貴方が言った通りに!」


 パン! ガテンがいったとばかりに手を叩く。

 黒い瞳が星を砕いて散らしたかの如くきらめいた。閃きを得た無邪気な子供の目だ。


「随分いってくれるじゃねえかよ」

「まあまあ。つまりはですよ? 下層民の若者たちは、何らかの理由があってココに来たとのでは? 拘留中だったのだから、貴方を探しに来たのとはまた違う理由だと思います」

「お、おう」

「例えば、誰かにいってはいけないと止められて好奇心が、とか。誰か行くようそそのかされたとか。イデさんも何か思いつきません? 私よりお詳しいでしょう?」

「あー、度胸試しとか?」

「ありそうですね!」


 勢いに呑まれ、普通に答えてしまう。

 ネヴの思いつきは見た目にたがわぬ飛躍したものだ。だが、金銭の為にイデの家に入ったというよりは現実的な気がした。

 実際、面白そうなものにはすぐに飛びつく。刺激はそれほど魅力的だ。

 すると、新しい疑問が生まれる。


「なら、誰が? 何の目的で?」

「―――――」


 イデの問いに対し、ネヴは口を開いたまま瞳を右往左往させた。


(わかりやすい)


 心当たりがあるのだ。

 試しに押してみる。口を割らせるには、良心を揺さぶるのがいい。

 思いつくなかで一番嫌な予想を、いかにも不安げにぶつけてみた。


「あのな。なんでもかんでも隠し事ばっかじゃわかんねえぞ。もしも、アンタの言う通り、誰かが意図的に俺の家に人を忍び込ませていたとしてだ。最悪――いいか最悪だぞ――ソイツが、あの狼が俺の家に忍び込んだ奴を狙うと知っていたのなら。

 ソイツこそ俺を狙っていて、今ここにいることも危ないのかも」


 ネヴがどんどん気まずそうに顔を曇らせていく。

 今にも白状しそうで、なかなかしない。

 だが、噂をすればなんとやら。

 

 次の瞬間、爆発したかのような音が辺りに響いた。

 家具がなぎ倒されるほどの強風があがり、埃が咥内に這入り込む。

 落ちてくる加工された木と煉瓦の破片を見て理解する。「屋根が壊れた・・・・・・」。壊されていた。

 理不尽はドミノ倒しのように、連続して、なだれ込むようにやってくる。

 イデの家は襲撃された。

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