第4話 三人分喋る二人
「では、貴方の経験を確認させて頂きます。
つまり、ことの粗筋は以下である。
知らない男にトランクを渡され、返す為に屋敷へ呼び出された。その折、スラムの知り合いであるルーカス・グルレが同行を申し出た。その屋敷にて、ルーカス・グルレがお手洗いに向かったのち、巨大生物に襲われた。
よろしいですか?」
「ああ」
資料から目を離さないまま、ネヴは簡単な質問を繰り返す。
警官と違って、脅す、見下す、なだめるといった心理戦も仕掛けてこない。
拍子抜けだった。
「ふむ。特におかしな点はありませんね」
「サツは信じちゃくれねえがな」
「でしょうね。でも、私たち、ともに獣を見た仲ではありませんか。本当に信じていますよ。それはさておき、もう二、三ほど質問があります」
ネヴはイデにファイルの中身を見せないよう立てたまま、一枚の
写真に写っていたのは、男の写真だった。
鮮やかな色彩にイデは目を見張る。
最近ようやく普及し始めた――そしてスラムではまだ珍しい――カラー写真だ。
瞳で見たものをありのまま写し取ったような一枚は、『
「こいつは……」
「貴方にトランクを渡したのは、こちらの男性で間違いありませんか?」
イデは頷く。
実際に会った時と違い、白衣をまとい、紳士らしく整った髭をもっていたが、よくよくみれば同じ顔だ。
「間違いありませんね? では二つ目の質問です。獣が出現したのは、ルーカス・グルレが手洗いに向かった後ですか?」
「そうだ」
「そして獣の出現時、彼の姿はなかったと。確かでしょうか」
「間違いないぜ、これでも物覚えは悪かない方でよ。ところで、なんでそんなことを気にするんだ? ただのイチ下層民だぜ」
「死体が発見されておりませんので」
イデの方からも質問を投げたが、こちらは短く切り返されてしまう。
ことを理解する手掛かりにはならない。
答えてはいる。しかし結局ルーカスについてどこまで知っているかは少しも漏らしていない。
発見されていないだけでは、ただ屋敷に死体がなかっただけで、別の場所で生きているのか、はたまた逃げ延びたものの死んでしまったのかも不明瞭だ。
どちらにせよ、ネヴからは隠し事の気配がした。
ついでに、ルーカスがあの場で死んでいなかったことに驚く。
(あいつ、妙にしぶとい奴だったからな)
出会った時からそうだった。
あの
今回も容疑者になったのはイデだけで、ルーカスは生きて、まんまとうまく逃げおおせているのかもしれない。
舌打ちをする。怒ってはいない。「人を裏切っておいて、あいつ」と憎々しく思っただけだ。
(それにしても参ったな。このチビスケ、何を知りたいんだ?)
知ったからどうなるというわけでもない。
だが、わけがわからないまま自分の状態が揺れ動くというのは、気分のいいものではない。
ネヴの正体もわからない。どういう状況かもわからない。
全くの宙ぶらりん。足場のないところを歩かされているようで、闇雲に掴めるものを探すのも仕方がない。
椅子に背中を預け、ふんぞり返るような体勢で、思考材料のない空っぽな頭を持て余す。
そう時間が経たないうちに、ネヴがトントンとファイルを机で叩いて、紙の位置を揃えた。
「お陰様で大変助かりました。ありがとうございます」
「もう終わりか? この程度でいいのかよ」
「ええ。だって全員亡くなられていたら、こんな些細な話さえ確認できませんでしたもの。貴方が生き残ってくれたことに、心より感謝します」
音もなく椅子をひいて立ち上がったネヴは、そういって唇の両端をほんのりつりあげた。
大きな瞳は細められ、イデに向けられた光彩の黒さが一層深まる。
「そうかい。生きててありがとう、だなんて言われるのは初めてだよ」
フンと鼻を鳴らせば、何がおかしいのか、ネヴは口に手を当ててクスクスと笑った。
「そう? とても当たり前のことのように思いますけれど。ああでも、イデさん。貴方とはまた後程お話させて頂きます」
「そんときには今度こそ死んじまってるかもしれねえぜ」
「死刑のご心配ですか? ご安心ください。警察の方には貴方を釈放するよう手配しますから」
「……あんたら、何もんなんだ? どうみたってサツじゃねえだろ」
ろくな証拠もない、適当な審判がくだされようとしていたとはいえ、一つの事件、一人の人生を左右する出来事だ。
それを指先一つを振る気軽さで言ってのける立場とは?
だが、ネヴはこれまた優しく笑う。
柳の葉と同じ、押せば形を変える柔軟な笑顔は、いかなる問いにもこたえない鉄の鎧だ。
「それも後程お答えします――多分ね。とにかく、ちょっとしたらお迎えにあがりますから。くれぐれも勝手におひとりで帰ろうとはしないように。よろしいですか、絶対ですよ?」
「いつ帰ろうが、俺の自由だ。あんたには関係ないだろ」
「いいから、迎えに行くまで、待っていてください」
思わず生意気な口を利かずにいられないのは、三年前からの悪癖だ。
警察の何人かはこれで幾度かイデを叱った。されどネヴは特に顔をしかめることもなく、「一人で帰るな、ここで待て」と言い聞かせる。
「なんだか言い忘れたこともある気がしますけど。まあいいや。次にお会いした時にでもお伝えしましょう」
「期待しないで待っとくぜ」
「つれないですね。存分に待ち、期待してくださいな」
警官が入ってくる。
彼女は警官とすれ違った後、一度だけ振り、イデに向かって手を振った。イデは振り返さず、その黒い瞳から目を逸らした。
***
三十分後、イデに釈放が言い渡された。
あまりにも早すぎる解放に、たっぷり数秒固まった。苛立った警官に急かされるまで、ぽかんとした顔を晒してしまったことは、しばらく忘れられそうにない。酷い屈辱だ。
イデの身長にはとても足りないブランケットを床に投げ捨てて、ないも同然な量の荷物をポケットにねじ込む。
出されても、署内では無遠慮な視線が刺さる。
ついさっき人を殴りつけた鈍器みたいに重苦しくて生温い視線が突き刺さる。
(ゴミがうろついてるって思ってんだろうな)
相手も迷惑、自分も不愉快。悪循環な場所に留まることはない。
イデは大股で署を出た。署の入口を抜ければ、湿り気を帯びた弱々しい夜風がイデの首筋を撫でた。
過ぎ去った風は、先程まとわりついた鬱陶しいものもぬぐいとっていく。
外だった。簡単な解放感がイデを慰める。
ほんの少し肩が軽くなった。軽く伸びをする。
辺りに何もないのが、実にすっきりしていた。
「あいつはまだ来てねえみてえだな」
警察の所有物と思わしき車がほとんどだ。
あの上等な白い服に釣りあうだけの高級車は一つもない。
「……待ってやる義理もねえや」
どうせたまたま出会っただけなのだ。
明らかに怪しいし、できれば近づかないのが吉だろう。
そう思って、イデは階段を降り、自宅へ向かって歩き出す。
(ああ、でもあいつ、また後で話すっていってたな。あの狼について聞いたってことは、あんなバケモンを探すつもりなんだろうか?)
実際、戦ってもいたわけで。
イデの肘を頭におけてしまうほどの身長差を思い出す。
胸がチクリと痛んだ気がした。
「ま、俺には関係ないことだけどよ」
どうせ二度と会わないのだから。
イデと関わりあいになるやつなんて、皆ろくでもないに決まっている。彼女のような人間がイデと話す方が運命の間違いというものなのだ。
どうしてか、これから歩く一人きりの夜の帰り道が、永遠に続くような心地になって。イデは丸い月の浮かぶ空を見上げて、舌打ちをした。
***
イデが追跡者に気が付いたのは、灯りも疎らな煉瓦道でのことだった。
一瞬。すぐに抑え込んだ様子だったが、足音が聞えた気がした。
「…………」
イデは手を両ポケットに突っこみ、若干猫背で歩く姿勢を変えぬまま、一番近い曲がり角に入り込む。
「!」
意識すれば、追跡者がイデの予想外の動きに驚くのがわかった。
イデの後を追って曲がり角に入ってきた追跡者は、そのまま、待ち受けていたイデの胸板に頭突きをする。
有無を言わせず、イデは追跡者の頭を抱え込む。
イデは大抵の人間に比べれば大柄だ。追跡者は、己の首に巻きついたイデの腕を何度もタップし、激しく抵抗したものの、あえなく沈黙する。
「あー、なんだ、コイツ、見覚えあるな」
倒れた追跡者の顔をみれば、おぼろげではあるが見覚えがあった。
服装はあちこちにほつれがあり、明らかに古着だとわかる。
年齢はかなり若い。顔つきにも幼さが残っていた。まだ稼ぎが少なく、中流階級や上流階級の古着ぐらいしか買えるもののない少年の下層民だ。
「なんで俺を
「おい、フィルが出てこないぞ!」
首を捻る間もなく、まだ声変わりも迎えていない少年の声が響く。
それが今しがたうまく気絶させられた少年の名前だと察すると同時に、イデの身体はばね仕掛けの如く走り出す。
後ろから大小様々の足音が、不揃いな合唱を奏でていた。
どうしてかわからないが、スラムの少年達がイデを追いかけているらしい。
「クソかよ!」
隠れて行動するあたり、イデのファンではなさそうだ。
そして獲物を前にした狩人というのは、小人であっても侮れない。
イデと少年達の体格差であれば、歩幅の違いですぐに楽観していたイデだが、これが存外難しい。
スラムの道が蜘蛛の巣の如くはりめぐされているのなら、スラムの住民は蜘蛛の子だ。
どこかの道に出る度に、そこにいた子どもが振り向いて、はっとした表情でイデを指さすのだ。
一人でなら確実にまける。だが複数人と一人でなら?
運が悪ければいずれ捕まる。たまさかであったのが子どもばかりで、大人もイデを狙っていたなら、不幸の確率は割合を増す。
はっはっ、と息が上がりだし、焦り始めたその時だ。
車の走る音がした。
音はだんだん近寄って、先日の巨狼を思わせる。
それでもかまわず走ろうとしたが、車がイデの前に滑り込む。
黒い小型の四輪蒸気自動車。丸いライトが可愛らしいデザインで、つまりは高級車だ。
イデの前で横に留まった車の後部座席のドアが開く。
しみ一つない白い手袋が見えた。
「お忙しいですか?」
「いいや、全然」
イデがそうすると予測していた様子で、ネヴはスムーズに奥へ移動する。
滑るようにして転がり込み、乱暴に座った途端、ドアは閉まって走り出す。
「ふう!存外すぐに再会できましたね!」
「ああ。迎えが早くて感激したよ」
「いやあ言い忘れたことを思い出したもので。急いでやってきました。貴方、元いたスラムではすっかり仲間殺しの殺人犯扱いのようですよ? 若い少年達は貴方を捕まえたらいいことがあるって思っているみたい」
「正義感じゃあねえだろうな」
「賞金首のつもり、ってことですか? 死んだ人達の仲間に渡せば、お礼が貰えるって?」
「さあな。あんたがそう思うならそうなんじゃねえか。サツにいたんだから、その間、何があっても知らねえよ」
ネヴが教えてくれた現状の原因に、隠さずため息をつく。
廃屋敷での待ち合わせ。イデ以外はルーカスの仲間。そしてイデ以外が死んだ。一番怪しいのはイデだろう。それが可能か不可能かはひとまず捨て置いて。
あの残虐極まる有様を見ても、まさかオカルトじみた存在がやったのだとは信じまい。
「貴方がいかに大きくて力持ちだとしてもアレは無理。だというのに、それができるかもと思われるあたり、イデさんって評価されてるんですねえ」
「変な事件が起きて、噂が変に広まったんだろ。スラムだからってそこまで馬鹿じゃねえよ。……おい、この道はそっちを行ってくれ。狭いがこの車ならなんとか通れるから。早くここから離れられる」
車が大きな道を行こうとしたのに気付いて、運転手に口出しをした。
ここに住んでいる人間でなければ、選ぼうとは思えないゴミだらけの道をさす。
この小さい車ならギリギリ通れる。イデの家からは離れるが、蜘蛛の巣からもいち早く抜け出せる道だ。
赤い髪をした運転手は、特に何も言わずその通りにする。
代わりに口を開いたのはネヴだ。
「あら素敵。道に詳しいのですね、生まれた街に詳しいのはよいことです」
「ここではそうしなくちゃロクに歩けねえってだけだ」
「私からすればよいことですよ。実際、私、ちょっとうろつくだけですぐに迷子になっちゃって。いつか道を案内してしていただきたいです」
「誰がするか」
「そうですか? 残念。でも私、貴方には遠くないうちにそうしてもらえる仲になる気がします」
(どっから出るんだ、その根拠)
もう何も言うまいと唇を結ぶものの、今度は運転手の赤毛が話しかけてきた。
とても美しい発音の男の声だった。
「どうも、大きなお兄ちゃん。オレはアルフ、ネヴお嬢様のお目付け役。頭は大丈夫かい、殴ったのオレなんだけど」
あいつか。
イデがなすすべなく警察に投げ込まれた原因ともいえる男だと思い当たり、無意識に拳を握った。
呼びかけ方がフレンドリ―なのが実に気に障る。
「無視? そうするのもわかるよ、オレだってそうするかも。しないかも。まあ、なんにせよ、今夜はオレ達と一緒に過ごしてもらうぜ。またあいつらみたいなのに来られて眠れぬ夜を過ごすのも嫌だろう」
「弁明一つさせず殴ってきた野郎が、随分親切だな? どういう気の変わりようだ」
「気は変わってないよ。変わったのは事情さ。あの時はまさか君とこうして話すことになるとは思っていなかったからね。この場でこれきり、もう会うまいと思ってた。なら、さっさと終わらせて、いち早く事件からサヨナラした方が互いのためだよ」
「事情が変わった?」
「そう。あの事件の目撃者は君だけ、関係者も君だけ。他にも色々ね」
「色々ってなんだよ。わかんねえな」
「そりゃそうさ。君は警察にいたんだ、その間何があろうとわからない。自分で言っただろ。まあ、それについちゃ、オレ達のセーフハウスについてから話そう。警察じゃ話せなかったことがあるのさ。運転中じゃ気が散るし」
「アルフ。よければ私が運転を代わりますが」
「お嬢はダメ」
「けちー」
イデの隣でネヴが頬を膨らませる。
ぺらぺら舌のまわる二人組に挟まれて、イデは言葉を紡ぐのも億劫だ。自分の分まで喋られている気がする。
疲労困憊なイデに、アルフが構う気配はない。
「ところでお腹すいてない? 夜ご飯にポトフとハンバーグステーキつくってあるんだけど、お兄ちゃんポトフ食べる?」
「食わねえよ」
「じゃあハンバーグステーキは食べるってことね。おっけー。腹ごしらえはちゃんとしなきゃ」
イデはそれを聞いて察した。
ああ、そうか。
俺はこいつらに絶対振り回されるんだな。
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