第3話 切り取られて雲の国

 突如現れた不可思議な女に、獣は大きな瞳をしばたかせた。

 獣の瞳は巨体ゆえの大きさだ。血肉を得た興奮に濡れた眼球は愛らしさとは程遠い。

 身体と目が大きければ、当然顔も人の顔を飴玉がわりになめられるほど大きい。そのため変化も読み取りやすかった。


(しかしこいつ、初めてイキモノらしい顔をしやがった。それも、化け物風情のくせしてまるで人間みたいなしぐさをしやがる)


 獣は、下層民の矮小な小競り合いを嘲笑うかの如く現れた。

 先ほど自然の猛威を思わせる、ひたすら暴力的な悪意の化身だった。

 なすすべもなく人間を屠るはずだった獣を動物の領域に押し戻した不可思議な女は、イデを庇って前に立つ。


「怪我人を逃がす、のは難しそうですね……」


 女は横顔だけを覗かせ、イデをいちべつする。

 ひとりごとは嘆息混じりだった。

 女はどう高く見積もっても、一六〇センチに届いているか怪しい。一方のイデは二メートル近い。

 イデはその黒い瞳と体格を認識して、はっと思い出す。


「あんた、この間の自転車泥棒!?」

「ぴっ!? 何故それを!?」

 

 ぎょっとして奇声をあげた女だが、すぐに顔を引き締める。

 獣が刀で受け止められていた爪を引いたのだ。

 鈍重な爪と軽薄な刃がこすれあい、甲高い音色が響く。武器同士が交わされたにも関わらず、ぴんと張りつめて、怖いほど澄んだ音だった。


 獣が爪を振り上げた。

 その象の牙に似た爪で、女の柔らかい肉を切り裂くためにかざされたのだろう凶器は、またしても届かない。

 今度はまともに受け止めず、刃を斜めに傾けて流す。

 大の男をたやすく分断する爪が、風を受けた羽毛のように扱われる。

 イデは自分の命を奪いかけたものが華奢な少女にいなされる光景に動揺した。

 しかし、イデ以上に取り乱した様子なのは、獣本体だった。

 先ほどまで蹂躙に耽り、不動を貫いていた獣が、爪を納め、四足で後退する。

 あとざする獣とどこまでも反対に、女は動いた。


「ならば、よろしい。私はこうする」


 剣を正面に構え、高く持ち上げる。

 何をするのか――次を考える一呼吸の間もおかず、突進した。

 獣もすぐに爪をかざすが、一歩遅れる。後退しただけ、女と獣には時間の差があった。

 急いで打ち下ろされた爪に、一気に下方へ落とされた刀身が寄り添う。

 その一刀に乱れはない。

 一人の女の形をした断頭台の如く、冷たく、苛烈な一閃。

 獣が鼓膜をつんざくような吼え声をあげた。傷んだ屋敷がびりびりと震える。

 生き残った大の男は、大衆好みの空想物語じみた攻防をただ鑑賞していた。


(小さいからだに鉄の芯が入っているみたいだ)


 イデの驚愕は、それだけにとどまらなかった。

 木々をたわます嵐もかくやという勢いで絶叫した獣は、たまらずもう一歩後退する。

 右の前足の指が一本、断面も綺麗に切り飛ばされていた。

 女は獣が後退するたび、二度、三度と飛び込む。

 女には、耳を塞ぎたくなる騒がしさが目に入っていなかったに違いない。

 めちゃくちゃに動き回る獣の体躯を苦も無く避ける。

 腰を落として、右に袈裟切り。左に袈裟切り。

 獣に鮮紅の亀裂が走る。なかからぷるんとぬめった血肉が見えた。

 生臭い異臭にむせ返りそうになる。


「もう一撃」


 女の呟きがやけにはっきりと聞こえた。

 獣の耳がぴんと立つ。

 ひとりと一匹はしばらくにらみ合うと、獣は一際大きな遠吠えをあげた。そのまま尾っぽをくるりと回し、裏口の方へかけていく。

 獣が走るたび屋敷の屋根から、パラパラかけらが落ちる。

 振動がだんだん弱まっていく。


「……ふー……」


振動が完全に収まった。獣が去ったのだ。女は深く息を吸う。

実に美味そうに空気を吸うものだから、イデも安堵の深呼吸をしかけて、今度こそむせた。


「あら、大丈夫ですか? って、うわあ。この間の大きな人じゃあないですか! 道理で自転車泥棒を知っているはずだあ」


 刀を納めた女が、とたとたと駆け寄ってくる。

 座り込んだイデに合わせて膝を折り、顔を覗き込む。

 眉の形は漢数字の八の形。これが先ほどまで獣と殺しあっていた女なのだ。


「逃げられないなら、あちらに逃げてもらうしかないと思って。間に合いましたか、大丈夫ですか? 死んでません?」

「死んでたら返事できねえだろ」

「あ、よかった、生きていらした! これで死んでいたら本当、夢見が悪いですから……ああよかった……」


 頭の悪い質問に生理的につっこむと、少女は花がほころぶような笑顔を浮かべた。


(なんだコイツ。俺は一体どうすればいい)


 下層スラムにこんなやつはいない。学校にもいなかった。

 くるくる表情を変え、空気を換える。

 愚かなようでいて、イデがかなわなかった獣と相対する何かを持っている。下手に扱えない。


(こういう時はあれだ。東洋のことわざでいう、『沈黙は金』)

「混乱なさっている様子ですね。無理もありません。しばし我慢してくださいね」


 女はイデの腕を勝手にとり、傷を確認する。

 意外と無遠慮な手つきで服をめくり、時に指をすべり込ませてあちこちの具合を確認された。

 彼女は手袋をはめていたが、血に染まった布の感触に鳥肌がたつ。


「ま。もしや、ひどいお怪我は腕だけ? 本当に頑張りましたね」


 あれこれ語りかけられるが、弱っているふりをしてだんまりを決め込む。妙に気恥ずかしく、むずむずするときもあった。しかし堪える。

 そうしているうちに、玄関が開く。

 思わず体がかたくなった。

 これだけ騒げば誰かが来るのが当然だ。それが自分を狙う誰かだったら?

それが複数人の男だったら、さらにぞっとしない。ここには若い女もいるのだ。

 いくら強い女であっても関係ない。

 誰かが後ろにたったのを感じ、イデは痛む拳に力を入れようとする。

 後ろに立った誰か――イデではない男が呼びかけた。


「お嬢」

「ああ、アルフ! 見張りはいいのですか」


 親しげな女の返答に、杞憂だったと知る。

 アルフと呼ばれた男の発音は女であれば誰しもうっとりするほど美しい。

 女の仲間らしかった。


「いいんですよ。派手に逃げていったのはわかりましたしね。それよりもこちらです、どうして早く呼ばないんですか?」

「すみません……」

「いいですけど。どうします、獣、追いかけますか?」

「いえ。怪我人がいます。この騒ぎではあまり時間もありません、救出を優先しましょう」

「りょーかい。面倒なことにならないうちに運びましょ。目が覚めてこの惨状で、噂まかれたりしたらねえ」

「あー……それは……」


 アルフは、黙り込んでされるがままになっていたイデを、意識がないものだと思っていた。

 言いよどむ女に、アルフは勘違いに気づく。


「おっとお嬢。こいつ意識がありますよ」

「ええそうなんです。これだけ出血して顔色ひとつ変わりません。丈夫ですねえ」

「いやもともと色白なんでは? とりま、起きててもいいこたねえや。ちょいとこの坊、寝かしつけますね」

「え、ちょっと、待っ」


 女の静止を子守唄に、イデは後頭部を重たいもので殴られた。


「……クソかよ……」


 意識を失う寸前、恨み言を絞りだす。殴られて自覚した。既に疲労困憊だ。イデにはそれぐらいの余力しか残されていなかった。

 狂った廃屋敷の片隅で、イデの意識は暗転した。


* * *


 目が覚めた時。

 イデは猟奇殺人事件の重要参考人になっていた。

 冷たい留置所にゲージのイヌネコのように放り込まれ、もう何日経っただろう。


「クソかよ」


 申し訳程度に貸し与えられたブランケットは、イデの体を覆うのにちっとも足りやしない。

 ほとんど硬い床の上にじかに寝泊まりする日々だ。

 しかも、警察はろくに調べもせず、下層民であるイデを犯人として刑を下す気満々らしい。


「いくらでもいる下層民スラムの事件に入れるちからがあれば、他のことするわな」


 下層民の事件の解決だなんて、不安がる中流階級と上流階級に平穏を与えるためでしかない。

 事件が落ち着きさえすれば、犯人が誰だろうと構わないのだ。


「はっ。それでも死ぬよりゃ天国にいるようなもんだろうがよ」


 下手なジョークを言えば、気分もまぎれた。

 このままいけば刑務所か、死刑台。それでも獣に食い殺されるよりは幾分かマシか。

 生きたいと望むのにも気力がいる。その気力も尽きかけている。

 どうしてか、傷の方はきっちりと手当が施されて、膿む気配もない。しかし、環境と未来がそれでは、養える気力も養えなかった。

 緩やかに死を受け入れよう。

 イデは何をするでもなく、腕を組んで枕にして寝転ぶ。

 正直、心残りはないでもなかったのだが。しかし、偶然が二度も三度も起きるはずがない。

 だが運命は、あくまでイデを叱咤する。


「おい、スラムのガキ」

「んだよ」


 檻越しに呼び掛けられ、イデは目をつむったまま答える。

 警官がふてぶてしい態度にいらついているのがわかった。


「全く。一体どんな悪さをすれば、あんな子がお前に会いにくるんだ」

「会いにくる?」

「そうだ。来い、面会だぜ。綺麗な白い服着たオンナノコだよ」


* * *


 面会だといわれて通された先は、しかし取り調べ室だった。

 道順も覚えて、すっかり飽きるほど連れてこられたから、間違いない。

 明かりと机、椅子だけの殺風景な空間で、白い服の女は座って待っていた。


「またお会いしましたね。大きな人」


 にっこりほほ笑む。

 何故かイデは、その笑顔に、こんな場所より日の当たる青い海の方が似合いそうだな、と思う。

 よほどの一等地でなければ、海は産業廃棄物を垂れ流されて濁りきり、触れることもためらわれる有様だというのに。

 黒い瞳の女は白い手袋をはめた手でファイルを開く。

 徹底して肌を隠す服装が「下民に見せるものはない」といっているようで、虫が好かない。


「立っていないで、どうぞ。楽になさって。貴方に意地悪をするつもりはないんですよ」

「ああそうかい」


 どかりと椅子に座りこむ。

 控えていた刑事が手錠でイデと椅子をつなぎ、そそくさと退出していく。

 完全に二人きりになった空間は、気温が二度くらい下がった気がする。


「本当なんですよ? 一応傷の手当だけはさせていただいたんですけれど。ちょっとこちらも色々用事がありまして、その間、貴方のことはどうしても安全な別所でかくまっていただきたくてですね」

「ああ。快適だったよ」

「お、怒ってますよね? こちらの勝手な都合でふりまわしたわけですから、当然です……すみません」


 女は頭を下げてくる。黒髪がさらりと垂れた。

 イデには何のジェスチャーなのか戸惑う。


(ああ、そういや、昔読んだ東洋の小説にそんな動作がでてきたっけな)


 ある極東の国では、謝罪や挨拶、誠意のあかしとして示される動作なのだという。

 上等な衣服で身を包んでいるものの、顔だちを合わせて、イデはこの女は混血なのだと確信した。


(同じ混血なのに、この差かよ)


 思い切り机を蹴り飛ばしたい衝動にかられた。

 そんなことをすれば部屋から出て行かされるのは必至だ。

 イデには、死なずにこの女に再会できたなら、しなければならないことがあったのだ。

 三度目はないと思っていた偶然が、あちらからやってきたのだ。


「いいや。あんたには命を助けられたわけだからな。そいつは事実だ。だからそこだけは、ちゃんと礼をいっとく。ありがとよ」


 礼を言う。

 助けられたことは事実なのだから、筋は通さねばならない。

 女の真似をして頭を下げると、女が息をのむのが聞こえた。


「いえ、別に。そんな……仕事の一貫ですし……」


 もごもごと女は口ごもる。

 イデも大げさに感謝の意を押し付けるつもりはない。

 これですべきことは終わったと、ズボンに両手をつっこみ、口を閉じる。


「ええっと。じゃあ、改めて」


 沈黙にいたたまれなくなったらしい。

 女は咳払いをすると、ファイルをしっかりと手に持った。


「貴方のお名前は、イーデン・カリストラフさん。よろしいですね?」


 本名で呼ばれるのは久しぶりだった。

 しばらく聞かずに済んだ名を聴き、イデの眉間のしわが深くなる。

 それは、バラールという国を襲った二度の震災ゆえの名前だ。

 すなわち、イデがこんな人生を送るはめになった原因を示すものでもある。


 二度目の地震は多くの家屋が倒壊し、人民が死亡した。だが、一度目の震災がもたらしたものは国のあり方すら変えた。

 

 バラール国はもともとはただの島国であったという。美しい景観と恵まれた気候により観光地として栄えていたバラール国は、一度目の震災によって一変した。

 いかような変動があればそうなるのか。

 海では、一定のラインを超えると磁場が狂い、羅針盤も機械の類も使えない状態になってしまった。

 海は境目のない迷宮と化し、バラール国は孤立した状態にある。


 そんな地震が起こった時に、たまたま旅行でバラール国にいたのが、イデの祖父である。

 イデの祖父は北の異国の出身であったが、故郷に連絡を送ることもできず、バラール国に取り残された。

 未曾有の事態に襲われたバラール国が混乱の極みに陥ったことは、言うまでもない。


 人口は一気に増加した。いつ母国に戻れるかもわからない。

 食料を奪い合い、人と人の境目もなくつぶしあう。

 生き延びるために人々が必死になればなるほど、国は混乱の極みになったと伝えぎいている。

 バラール国の有力者たちが、秩序を芽吹かせ、平和を取り戻そうと声をあげるのに時間はかからなかった。

 しかし、人民を守ろうにも物資には限りがある。優先順位をつけるのは、当然の選択だった。

 そのなかでまず優先すべしとされたのは、元々バラール国で生まれ育った国民であり。取り残された旅行者は否応なしに『移民』として、常に『先住民』の後に手を延ばされるものとなった。


 やがて、優先順位は生まれ持っての差に変わる。

 移民たちはあるものは先住民たちに雇われ、生きる場所を確保しようとし。またあるものは力づくで奪って築き上げようとして。あるいは異国にあって自衛のために手を組んで組織となった。

 それでも一度、「使う側」と「使われる側」に定まった関係は、簡単に変わらなくなる。

 関係性は変わることなく、なお強固に変化した。


 先んじて立ち上がった『先住民』の有力者は《貴族》に。

 『先住民』の国民は《富裕層》や《中流階級》に。

 『移民』たちは《下層民スラム》に。


「あら。イーデンの綴りが楽園Edenだなんて、素敵……だと思いますけれど。お嫌でした?」


 楽園。心折れるまでは誇らしいと思っていた名前だ。今は完備な響きがひたすら莫迦らしい。

 それは、まだ自分たちも暖かく厚い福祉の手のひらで包まれる日が来ると信じていた名残だ。

 イデは、本名で呼ばれてわずかに眉根を寄せただけ。ほとんど無意識の、ほんのわずかな動作だったというのに、女はファイルの中身をめくっていた指をとめた。

 

「嫌だったのならごめんなさい。私もあまり自分の名前が好きではありません。イデさんとお呼びしますね、お仲間さんにはそう呼ばせていたのでしょう?」

「勝手にしろ」

「ありがとうございます。私の名前はネヴィー。言いにくいかもしれないけれど、ネヴと呼んで下されば嬉しいです」

「ほお。そりゃなんで?」

「個人的な趣味嗜好によるものです。他にも理由が聞きたいなら、貴方の理由も聞かせて貰わねば不公平かと」


 腰が低いかと思いきや。初めて見せてきた強気な一面に、イデの口もとが緩む。あまり気弱なのは相手にするのが気まずい。

 正直、獣と相対した時の激しさも印象に残っていた。

 油断させられすぎて、困っていたところだった。


「それで、イヴちゃん。俺になんの用だよ」

「ネヴです。もちろん、今回の事件に関してお伺いしたいのですよ」

「そいつはいい。俺はなんでも知ってるからな」

「ええ、この警察署の方からもそのあたりは伺っております。ことの詳細にあたっては、何もご存じないようで」


 資料に目を落としたまま、首を左右に振る。


「ですがいいのです。私達が知りたいのは、事態の原因ではありません。イデさん、貴方はただ、あの廃屋敷で何があったのか。出来事だけをありのまま話してくださればよいのです」


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