8th try:Black Mist


『迷いの森』。


 カビナ平原からほど近い場所にあるこの森は、もともと街の人たちが休日に山菜やキノコを採りに出かけるくらい、平和なところだったのだそうだ。


 だが――いま眼前に広がる光景に、そのころの気配は少しも見出せない。


 森の中へと続く道は絡み合う棘つきの蔦でふさがれ、うっそうと茂るその先は、まだ昼間だというのに薄暗い。木々の間を縫って届く、ギャアギャアというわめき声。みしみしとなにかが倒れる音。それら全体を、黒いガスがうっすらと覆っている。


「これが“瘴気”ってやつか?」


《そうだにゃ》


 頭の中でダイアログが答える。


《魔王の軍勢が身にまとう不浄の空気……。悪意を持つ生物を魔物に変異させ、女神の加護さえも弱めてしまう、最悪の環境兵器だにゃ。困ったもんだにゃあ》


「それ、俺が浴びても大丈夫なんだよな?」


 嫌だぞ、森に入った瞬間モンスターに変わるとか。


《心配いらないにゃ。変異が起きるには一か月くらい浴び続ける必要があるし、そもそも異世界人はこの瘴気に耐性があるみたいなんだにゃ。だからこそ勇者として適任ってわけなんだにゃあ》


「なるほどなあ……」


 しかし、この森の雰囲気は異様だった。いよいよ危険な場所に来たのだなという実感がわいてくる。いや、どうせ死んでも復活できるんだけど、気分的にね。


 しかし、こうしていつまでもグズグズしているわけにもいかない。


「よし、じゃあ行くか!」


《うむ! わたしはここでいったんお別れにゃ》


「へっ?」

 

 思わぬ肩透かしに、俺はつまづきそうになる。


《瘴気は女神の加護を弱めるって言ったにゃ? この森の中にわたしの声は届かないのにゃ》


 そういえばさっきから、コイツの言葉がちょっと聞こえづらかったような……。


《シュウちゃんの世界ふうに言うと、チュートリアルはここで終わり、これから本編開始ってところだにゃあ。ま、死んだらまた会えるけどにゃ》


「そうか……」


 俺はあいまいにつぶやく。

 こいつはずっと鬱陶しかった。

 女神っぽくないし。

 テキトーなことばっかり言うし。

 人が四苦八苦してるのをニヤニヤしながら見てくるし。


 だけど、それでも、いざいなくなるとなるとちょっとだけ寂しいような、そうでもないような……。


《さあ、ゆくのにゃ異世界の勇者よ! その身に宿す女神の力をもって魔王を倒し、この世界に平和をもたらすために! ばりぼり》


 ……こいつ、またせんべい食ってやがる。


 ※※※


 生い茂る草をかき分けながら、俺は森の中を進んでいた。


 ……というより、自分が足を踏み出すと、勝手に草が自分の左右に分かれていくのだった。その幅はちょうど“道”と同じくらい。


 これも女神も加護ってやつなのだろうか?どっちにしろ、自分の背丈ほどもある草を自力でかきわけなくて済むのはありがたかった。ナタとかナイフとか、調達のしようがなかったし。


 いまのところ、モンスターにも出くわしていない。

 入る前の恐ろしげな雰囲気とは裏腹に、冒険は順調すぎるほど順調だった。

 

 それはそれで、なんだか張り合いがないなあ……。


 そう思っていた矢先のことだった。




「誰か、助けてっ!!! 誰かぁ!」




 森の奥から、女性の甲高い悲鳴が聞こえてきたのは。

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