第4話 蝉は
次に目が覚めた時、隣には彼女がいた。
「おはよう」
波の音が近くから聞こえる。
「おはよう」
特に会話をするともなく川に向かって、顔を洗って、歯を磨く。下の方を見ると、波打ち際が、すぐそこまでやってきていた。目に見える速さで迫ってきている。
朝食はインスタントのカレーとご飯を食べた。米はたくさん余ってしまったので、校庭に撒いておくと、小鳥が寄ってきて最後の晩餐を楽しんでいた。陸がなくなってきたからなのか、異常な数の鳥がいた。空ではトンビも鳴いている。
彼女はぼーっと小鳥を眺めていたので、ブルーシートの上の荷物を一箇所にまとめて、意味があるかはわからないけど、軽トラの荷台に積んでおいた。
助手席の扉をあけて、アレを回収しておく。左のポッケに忍ばせた。
「何か、持っていきたいもの、ある?」
小さな彼女の背中に語りかけると、こちらに振り返って、「もうまとめてる」と笑った。運転席から大きなリックサックをから取り出して、華奢な体に背負う。
「キミは?」
「これを」
黒のカラースプレーを掲げる。
「へんなの」
最後に息を吸ってから、小さな声で言った。
「じゃ、いこっか」
「うん」彼女は頷く。
2人で並んで廃校をあとにして、一度だけ振り返った。
波の音が近くから聞こえる。枝がぱきぱきと折れる音も混ざっている。川のせせらぎはもう聞こえない。
カラスやスズメが屋根にずらーっと並んでいて、蝉の鳴き声が耳をつんざくほど響いていた。初めて見た時はあれほど荘厳に見えた廃校舎も、今ではずいぶん情けない小屋に見える。
2人が歩き出したのと同時に、校庭は海に沈んだ。
しばらく尾根を歩いていると、周りの木よりも頭4つほど高い電波塔に行き当たった。今日も暑い。
「これ?」
「うん」
周りには立ち入り禁止看板とフェンスがあったけど、カラースプレーで間違えて塗りつぶしてしまったので、なんと書いてあったか読めなくなった。
「なんて書いてあったっけ?」
「忘れた」
「なら仕方ないね」
スプレーをその場において、フェンスを2人でよじ登った。電波塔には頼りない梯子がある。重たい荷物をもっている彼女が先に登って、それからあとに続いた。カン、カン、と、甲高くて暖かい音がこだましていたけど、周りの木よりも高いところに登ると、音は響かなくなった。足首がすっと軽くなる。
てっぺんの平らなところまで来ると、2人で腰を下ろしてふぅと息をついた。波の音が聞こえる。下を見ると、カラースプレーが海に流されていた。
「わあ、すごい」
彼女は手すりから身を乗り出して、遠くを眺めている。風がふいて、長い髪が揺れた。
辺りを見渡すと、一面、海が広がっていた。山にいたはずなのに、そこは一面海だった。鳥や虫が無数に飛びさまよっている。ところどころに、海には似合わないモノがたくさん浮いていた。少し遠くに、昨日使ったシャンプーのボトルが見える。
「はー、日本沈没かぁ」
日本にいるのに、どこを見渡しても水平線。島は見えない。
「夢の中にいるみたい」
手のひらの痛みはリアルだった。
「すごいね」
彼女は笑って、それから寝転んだ。横に並んで寝転がる。雲ひとつない晴天で、汗が止まらなかった。
「最後に何か言い残すことは?」
「いっぱいあるし、聞きたい」彼女は笑った。
「お先にどうぞ」
少しうーんと唸ってから、それから息を吸う。しばらく間をおいてから、彼女は言った。
「私を助けてくれた人が、あなたみたいな女の子でよかった」
私は笑った。
「なにそれ」
「だって、安心するし、楽しいし」
そうはっきりと言われると、ちょっと照れる。私はへんな笑い方をした。
「私もキミを見つけた時は、女の子でよかったと思ったよ」
「お互いね」
2人きりの世界で、くすくすと笑う。波の音だけが聞こえた。
「じゃあさ、これ」
私は起き上がって、左のポッケに手を突っ込んだ。
たばこを取り出す。
「3本食べたら、死ぬらしい」
彼女は黙って息をのむ。
「15分くらいで、死ねる」
波の音が響く。お互いの目を見る。私は逸らさなかった。
「じゃあさ、賭けをしよう」
彼女は私の目を見て言った。
「ここが沈みそうなら、とめない。私もそれを食べる」
「うん」
私は頷く。
「沈まなかったら、まだ諦めないで」
さっきまで登っていた梯子も、すでに波に飲まれてきている。
「私は1回死んで、生き返った」
彼女は続ける。
「頭から水をかけられて、生き返った」
私は少し笑った。
「次もあるかも」
リックを降ろして、大量の缶詰や水を見せてくる。荷台に積んできた量からすれば心もとないけど、今はそれが、彼女が持った必死の命綱に見えた。
「わかった」私は頷く。
蝉が1匹、手すりにとまった。大声で泣き始める。いつもの無表情な鳴き声ではなくて、聞いていると涙が出そうなほどかなしいなき声だった。
波はじわじわと登ってきていて、潮の香りが濃く届く。足首に、ぬるい水しぶきが飛んでくる。
真夏の国道2号線が、遠く懐かしく思えた。もう人が歩くことはないだろう。
「そういえば、知ってる?」
彼女は寝転んだままこちらを向いた。
「なにを?」
私も彼女の方を見る。少し瞳が潤んで見えたのは、たぶん気のせいではないはずだ。
「飛んでいる蝉は鳴かない」
蝉の声が大きくなった。なき止む様子はない。
「前に誰かから聞いたんだ」
彼女は笑っている。彼女から別の人の話を聞くのは、これが初めてだった。
「そうなんだ」
彼女の知り合い。普段の彼女を知っていた人。どんな人なのか、会ってみたい気もする。波の音が、だんだんと大きくなる。
「ねえ」
彼女が話しかけてくる。
「明日があれば、なにする?」
私は空を見る。
「えっとね」
私は返事をした。聞き終えると、彼女は笑った。
高い空をみながら、2人は笑っていた。
蝉は、まだ鳴いている。
飛んでいる蝉は鳴かない バナナ芭蕉 @bananatamago
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