第3話 地球最後の夏休み



 まぶたを貫通するような日差しと、騒がしい蝉の声が、次の朝の目覚ましとなった。

 目を開けると軽トラの荷台が見えて、状況を把握するのに時間がかかった。

 寝る場所がいつもと違うと、人はある程度動揺するものらしい。

 一度大きなあくびをしてから隣を見ると、荷台に彼女の姿は見えなかった。ブルーシートのあたりにも見当たらない。

「おはよう」

 声が聞こえたのは、校舎の向かって右側からだった。

 相変わらず水着姿のまま。

「まさか、河原で毛の手入れをする日が来るとは思わなかった」

 彼女は照れる様子もなく両手を振りながら歩いてきた。

「あなたもしてきたら?」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 朝一からこんなことをする日が来るとは、思っていなかった。非日常の中にいることを再認識する。

 校舎の裏にある川は軽トラ2台分の幅で、真ん中の方もそこまで深い様子はなかった。久しぶりに冷たい水を触る。

 川べりに座って顔を洗ったり、歯を磨いたりする。川の水が綺麗でよかった。

 戻ると、彼女が食パンに缶詰の中身を挟んで待っていた。

「みてみて! サンドイッチ!」

 地上最後のサンドイッチは、シーチキンの挟まったサンドイッチとなったようだ。

「おいしいの? それ」

「焼けば、たぶん……」

 そういうと彼女はガスコンロに網をのせて、そのままサンドイッチをごとんとのせた。

 2人分あるのが可愛らしかった。

 荷台から飲み物を持ってくると、すでに日が当たってぬるくなっていた。

 これ、川にさらしておけば冷たくなるかもしれない。スイカの要領で。あとでもっていこう。

 出来上がったサンドイッチは若干いびつに焦げてたけど、正直この状況だと温かいものを口にできるだけでもありがたかった。

「いただきまーす!」

 普通に美味しかった。焼き鳥と食パンなんだから美味しくないはずがないけども。これまで冷たい缶詰しか食べていなかったので、温かいシーチキンは一周回って新鮮だった。柔らかい香りが口いっぱいに広がる。朝から贅沢をしてしまった。

「で、今日はなにする?」

 彼女はぬるい炭酸ジュースを飲み干しながら、休日の予定を尋ねるように聞いた。

 ぬるいお茶で口の中をゆすぎながら、廃校舎を指差した。

「探検してみる?」

「いいね」

「夜じゃないといいんだ?」

「まあ、暗くないし」

 たしかに、ところどころ窓の割れた校舎は、電気が通っていないとしても中は明るそうだった。

「じゃあ、いってみようか」

 昨日のうちに干しておいた服は乾いていたので、少しはたいてから着る。久しぶりに服を着た気がした。

 背の低い雑草は昨晩とは打って変わって、生ぬるい湿気を帯びている。

 蝉の鳴き声が、合唱祭の練習のように山にこだましていた。


 一階は人が入った形跡があって、普通に荒れていた。廊下の床はところどころ抜けてたし、教室の机もばらばらだった。

 図書室や化学室なんて面白そうな教室はなかったけど、ただ廃れた学校の中にいる、というだけで、言い知れない満足感があった。

 二階の一番奥の部屋は、職員室だった。とは言っても、机や椅子は触れると壊れてしまいそうで、ボロボロに砕けたファイルや落ち葉のようなプリントが散乱していた。

「ここが一番モノあるねー」

 床が抜けそうで怖かったけど、彼女はそういう心配はしないらしい。

 サンダルでぺたぺたとプリントを踏んで歩く。

「地下室のカギとかないかなー」

 彼女はあちこちの机を見て回っていたけど、たいして面白そうなものは見つからなかったらしい。

「やっぱ廃校になるだけあるね」

 肩をすぼめて、帰ろう、とジェスチャーされた。

「そうだね」

 想像よりもボロついた校舎だったので、何かに使えることはなさそうだった。

 あとは、蝉の声が少し遠くから聞こえるくらいだった。



「魚、食べたい」

 昼ごはんを食べた後、荷物の整理をしていると、彼女は思い立ったように呟いた。

 この2日くらいでわかったことがある。この人は思ったことをすぐ口にする。普段だったらめんどくさい性格かもしれないけど、もう2度と普段は戻ってこない予定なので、むしろわかりやすくて助かった。

「魚釣りできるの?」

「釣り糸、買ってきた」

 彼女はペットボトルを投げ出すと、ブルーシートをかきわけて釣り糸をとりだした。

「ほら!」

「それ、海釣り用じゃない?」

「針が付いてれば釣れるでしょ」

「そうかな」

 木の枝探してくる! と駆け出した彼女を止める気はなくて、餌になりそうな缶詰を探した。たしか貝の缶詰は魚もよく食べると聞いた覚えがある。川魚もあさり食べるのかな。

 というか、ミミズやよくわからない虫を食べた魚を食べたくない。

 彼女が長い木の棒を2本持って戻ってくると、魚が釣れそうな場所を探して川沿いを歩く。少し進むと、石でできた古い橋を見つけた。小さな渓谷になっていて、高さもあるので、無理なく釣れそうだった。魚もたくさんいる。

 あさりのむき身をちぎって釣り糸を垂らすと、ほんの数秒で釣竿を引く感覚があった。

「いいな!」

 そう言って跳ねた彼女の釣竿も、ほとんど間をおかずに下に引かれてる。

「重たい!」

 魚がかかるのを待つよりも、針から魚を外す方が時間がかかった。

 こんなにすぐ釣れるものとは思っていなかった。魚ってこんなにかかるものだっけ。

「あー、山奥だから、人に慣れてないのかな?」

「人に?」

「なんか、魚って慣れると針避けたりするらしいよ」

「へぇ、知らなかった」

 こんな状況でまたひとつ知識を増やしてしまった。

 真下を流れる清流に石橋から脚を垂らして、山の匂いを味わいながら針を垂らす。隣に座る彼女は、鼻歌を歌い出しそうなほど上機嫌に釣竿を揺らしていた。

 蝉の声が橋の両側から響いてきて、心臓に響いてくる大太鼓を思い出した。もう聞くことはないんだろうなぁ。

 2、3匹釣ってしまうと飽きてしまって、あとは彼女が飽きるのをひたすら待った。一旦川に降りて手を洗って、それから石橋で横になって、魚を眺めたり、彼女を眺めたり、蝉の鳴き声を聞き分けたりする。

 ひぐらしが鳴き始める頃には、二刀流とはしゃいでいた彼女も飽きてしまったようで、帰ろう、と覗き込んできた。

 ペットボトルやビニール袋に魚を入れて歩くと、想像以上に魚が重たいことを知った。

「腐ってないかな」

「まあ、焼けば食べれるよ」

 それもそうだ。どのみち、明日が最後の1日だ。お腹壊そうがなんでもいい。

 心臓が嫌に跳ねた。


 蝉が鳴いている。



 魚の口から割り箸を刺したのは、これが初めてだった。左の掌に伝わってくる、箸が貫通する感触がリアルで気持ち悪かったけど、隣の彼女を見るとスイスイと作業を進めていて戦慄した。

「もしかしてこういうの得意?」

「うん、というか魚釣りそこそこ好き」

「へえ、意外」

 じっとしてるのは苦手そうなのに。でも、思い返すとあの長い時間釣りに没頭していたあたり、趣味なのは頷けた。

 人には向き不向きがあるとわかったところで、魚の処理は任せて、ガスコンロに火をつけた。

 箸が刺さった魚から軽く水でゆすいで、塩をたっぷりかける。どうせ使うこともないので使いたい放題だった。

 ヒレのあたりが焦げてくると、魚と塩の香ばしい香りが漂ってきた。

 釣った魚に箸を刺し終えると、彼女はまだ、まだ、と、仕切りに魚をひっくり返して慌ただしかった。やっぱり待つのは苦手らしい。

「ところで、これ食べられる魚なの?」

「さぁ」

「さぁって」

「ヤマメとかじゃないかな」

 ずいぶんと投げやりだった。まあ、塩がかかっててまずいわけがない。

 箸でつついてみて、皮がパリッとしてきたあたりで、2人で同時に背中からかぶりついた。

「いただきまーす!」

 パリッと砕ける背ビレの塩加減が濃すぎて、口の端までジーンとなるのを感じながら、ほろりとおちる身の厚さに驚く。熱すぎる身で火傷しないように、はふはふと息をしながら、時間がないわけでもないのに急いで食べた。

 頭はさすがに食べられなかったけど、塩っ辛い尾ビレや、苦い内臓まで、ほとんど食べてしまった。食べたことのなかった内蔵も、食べてみると案外美味しかった。食わず嫌いは良くない。

 釣りに行く前に川に晒しておいたお茶は、そこそこ冷えていて、乾いた喉をなめらかに潤していった。

「あ、缶詰って、温めたらおいしくなるかな?」

「いいね」

 彼女の思いつきで、網の端っこでつぶ貝の缶詰の蓋を開けて、ことんと置いた。温まるのを待って、汁が沸騰した頃につついてみる。

「うまーい!」

 彼女は頬を押さえて喜んだ。

 ただでさえ味の濃いおつまみを温めなおすと、塩で味が濃くなってしまった口にも素晴らしく馴染んだ。

 食べ終わる頃には、ヒグラシは鳴き終わっていた。打って変わって、鈴虫が森を支配する。

「身体、洗いたい」

 彼女がポツリとそう呟いたので、コクリと頷いて、シャンプーとタオルを持って川へ向かった。

 膝あたりまで疲れる浅瀬の岸にタオルを置いて、2人とも服を脱ぎ捨てた。下着も。

 この時にはもう裸を見られる恥ずかしさなんて、どこかへ忘れてきてしまっていた。

 いくら夏とはいえ、夜の川は涼しい。身震いするほど冷たい水に身体を浸して、それから頭もつける。

 しばらく浸かっていると、むしろ水から出た方が寒くなってきて、肩までつかったままシャンプーを使う。満タンに入っているので好きなだけ使えた。

 隣の彼女は、立ったままマンガのアフロのように泡を膨らませている。

 下流に誰かいる心配もしなくていいので、泡はそのまま川に使って流した。環境なんか気にしても、どうせこの川はすぐ海に辿りつく。

 ついでに石鹸で身体も洗う。身体をしっかりと洗うのは久しぶりだったので、肌を撫でる手のひらがやけに懐かしく感じた。

 足の裏を触ると、前より固くなったように思える。爪も伸びてきていた。

 2人とも身体を洗い終えても、しばらく川からは出なかった。真っ裸ですいすいと暗い中を泳ぐ。

 冷たくて綺麗な水だったので、少し飲んだりもした。

 しばらく泳いでると、2人とも疲れてしまって、水の中で仰向けになった。鈴虫の鳴き声だけが残る。

「……かえろっか」

 2人とも妙に大人しくなって、川べりで並んで頭を拭いた。

「そういえばさ」

 彼女が少し湿った髪を揺らして、こちらを見上げてきた。

「なにか、趣味とかないの? というか最後にしたいことというか……ほら、私は釣りができたし」

趣味。

「……星を見ることくらい?」

「どれくらい好きなの?」

 少し考えてから答える。

「まあ、そこそこ」

 彼女はちょっと笑って、じゃあ今から上見るの禁止ね、と言って、立ち上がった。

 じゃり、と、石を踏む音がする。

「今日は晴れてたから、寝転がって、思いっきり星みよう」

 そういった彼女がどんな顔をしていたのかは、暗くてよくわからなかった。



「じゃあいくよ、せーの!」

 彼女の声かけで目を開けると、軽トラの荷台からは、宇宙がそのままみえた。

 邪魔なものなんてどこにもなくて、視界は一面星だけが埋め尽くしていた。天の河がはっきりと光っていて、夏の大三角形は太陽のように明るかった。もしかすると今はこの世界にあるすべての星が見えてるんじゃないか、という気にすらなれた。

 息を忘れていたことに気づいたのは、隣で彼女が息をしていないことに気づいてからだった。

「生きてる?」

「あ、うん」

 いつもこうなる。本当に綺麗なものをみると、息をのむ、というより、息をするのを忘れてしまう。

「綺麗だね」

「うん」

 不思議なもので、黙ってみていた星と、隣の彼女の吐息を聞きながらみる星とでは、少し違ってみえる。

 星を見る条件は、天気や明るさだけではない。

「明日さ」

「うん」

 彼女がいつもと同じ調子で話しかけてくる。

「ここも、沈んじゃうんだよね」

「うん」

 お互い、震えてはいなかった。廃校の校庭で静かに息をする。

「どうする?」

「さっき気づいたけど、この上の方に、電波塔がある」

「じゃ、明日はハイキングだね」

 彼女にとって、ここは最終地点とはならない予定らしい。

 助手席の扉のポケットに忍ばせた、アレを思い出す。

 ふと、こうなった原因に思いを馳せた。

「ホールって」

 彼女の目線がこちらに向くのを感じる。

「ホールって、どこから来たんだろう」

 海水をひたすら出し続ける穴。今もきっと、太平洋のどこかで水を出し続けているのだろう。

「私はね、ホールって昔もやってきてるんじゃないかなって思う」

「昔も?」

 別に答えを求めた疑問じゃなかったけど、彼女は思っていたことを吐き出すように続けた。

「ほら、ムー大陸って知らない?」

「あの、太平洋の真ん中にあったかもしれない大陸?」

「そう。私たちが生まれるずうっと前に、沈んじゃったって。でも、そんな簡単に陸ってなくなるのかなぁ」

「さあ」

 鈴虫が泣き止んでいる。

 ふと、気のせいかもしれないけど、多分気のせいだけど、潮の香りがした。

「ムー大陸が沈んだのも、もしかしたら、ホールがやってきたからじゃないかな」

「じゃあ、ホールは二回目なの?」

「うん。そして次は、水を吸収するホールがやってくるの」

「あー、今度は、陸ができるんだ?」

「そう。ホールはきっと、自然に起こることなんだよ」

 言い切ったと言わんばかりに両手を上に伸ばす彼女の声音には、わからないことを話しているような様子はなかった。

 そう信じて疑っていない。

 彼女の中では、それが正解なのだ。

「そうだったら、気は楽なのにね」

 返事は返ってこなかった。

 横を向くことはなかったけど、多分、息をひきとるように眠ってしまったんだと思う。

 規則正しい寝息が聞こえてくる。

 次に夜がやってくるまでには、ここも沈んでしまう。

 さっきから息を潜めてしまった鈴虫が不気味で、昼間はあんなにうるさかった蝉が恋しくなった。

 次に目を開けると、何が見えるんだろう。

 そう考え終わる前には、穏やかな寝息を立て始めていた。

 日本水没まで、あと、1日。

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