第2話 廃校まで



 次に目を開けると、日が昇っていた。まばたきした一瞬だった。

「寝た記憶ない」

「疲れすぎた日って、そうなるよね、寝たっていうか、行き倒れたっていうか」

 先に起きていたのであろう彼女は、眠たそうな声でもごもごと答えた。

 起きた瞬間に隣に人がいるのは、いつぶりだろう。よく考えると、物心つく頃には1人で寝ていた気がする。

 両腕を伸ばしてみると、筋肉痛はずきずきと痛んだけど、たしかにしっかり寝ていたようで、ずいぶんと軽く感じる。

「寝癖、やばい」

 そういう彼女の頭上は、たしかにこれまでに見たことがないほど悲惨な髪型になっていた。90年代の漫画でもこうはならない。

 2人で必死で手ぐしで髪を整えようとしたけど、5分もしないうちに限界はきた。

「これ以上はむりだね」

「私もそう思う」

 2人ともひどい髪型をしていて、お互い顔を見合わせて、くすくすと笑いがこぼれた。

 昨日よりは日差しも強くなくて、ところどころ雲のある、ちょうどいい天気だった。

 でも蝉は鳴いている。


 今、何時くらいだろう。そう呟こうとして、すぐにやめた。もう時間を知っても意味はない。

 まだ小鳥があちこちで鳴いていて、太陽がそこまで高くないところを見ると、昨日の疲れの割にはそこまで長い間眠っていないことに気がついた。

 ……というよりは、こんな寝床とも呼べない寝床では、寝たとは言い切れない。ほとんど気絶と変わらない。布団と呼べるもので、深く眠りにつきたい。

 すぐそばに止まっていた軽トラのタイヤに、雑草が絡み付いていた。いつから使われてないんだろう。そこまで古くも見えなかった。

「ねえ、お腹空かない?」

 そう言われると、たしかにお腹が減っている。無理もない、昨日はあれだけ運動したにもかかわらず、缶詰1つしか食べていない。

「とりあえず昨日の場所まで戻って、缶詰と乾パンでも食べよう」

 彼女も頷いて、2人で重たい腰を上げると、大きな異変に気がついた。固まっていると、彼女も思い出したようで、青い顔をしていた。

「……波の音が聞こえる」

 昨晩はここまではっきりと聞こえてはいなかった。

 慌てて道路に駆け出して坂道の下を見ると、昨日歩いてきた坂道は、今や海底となっていた。波打ち際がすぐそこまで押し寄せてきている。

「……こんなに早いの?」

 忘れていた。地上は減ってきているのだった。

 昨日座っていたアスファルトも、苦労して運んだ缶詰も、乾パンやペットボトルが入った袋も、すべて海の底に沈んでいる。

 唯一、黄色いゴムボートだけは、はるか遠くに、なんの悩みもなさそうにぷかぷかと浮かんでいる。

「ああ」

 膝から崩れ落ちそうになった。空腹と一緒に、激しい喉の渇きにも気づく。目の前を揺れる海水を見て、心が折れそうになった。

「昨日の缶詰、どこからとってきてたの?」

「とってきたんじゃない、向こうにあるスーパーから買ってきた」

「レジに人が残ってるの?」

「お金だけ置いてきた」

 その場に座り込んで、海を眺めた。喉が渇いてなにもする気が起きない。意識も朦朧とする。このまま海に飲まれてしまおうか。

 たぶん、この数週間で海は数え切れないほど人を食べてると思う。

 彼女はいつのまにか姿を消していた。

 置いて行かれたのかな。少し薄情にも思えたけど、この状況で、人の心配をするほどの余裕は残されていなかった。

 ふと思いついて、手のひらで海水をすくって飲んでみた。生ぬるい塩水は信じられないほどまずくて、すぐに吐き出した。

 喉にわずかに残った塩が気持ち悪くて、唾と一緒に吐き出そうとしたけど、そもそも唾が出てこない。

 仰向けに転がる。

 太陽は雲に隠れてて、少し薄暗かった。蝉がしゃわしゃわと鳴いていて、今年も夏が来てるんだな、と思った。今年の夏は最後の夏だ。

 地球最後の夏。

 もう冬はこない。春も秋もこない。この夏をもって地球から季節という概念が消えるのかと思うと、この蝉の声はとてつもなく価値のあるものに思えた。

 静かに息をしながら、蝉の声を味わっていると、遠くから少し違う唸り声が聞こえてきた。

 唸り声。違う。

「……エンジンの音だ」

 起き上がって後ろを振り返ると、彼女がハンドルを握る軽トラが、坂道をゆっくりと進んでいた。

「鍵かかってた」

「……免許持ってるの?」

「18だから、マニュアルは一応ね。免許証は家に置いてきたけど」

 こんな状況になって、生まれて初めて同年代の運転している車をみた。

 もうそんな歳なのか。急に自分が大人に思えてくる。

「乗って、スーパーまでの道筋おしえてよ」

 運転席から手を伸ばして助手席の扉を開ける彼女は、運転席には不釣り合いに小さく見えた。

 雲が晴れて、空が急に明るくなる。


 蝉がどこかで鳴いていた。



 車だと、昨日歩いた距離はあっという間だった。

 窓を開ければ風が入ってきて、勝手に景色が流れてくれて、エアコンが壊れていたことなんて些細な問題でしかなかった。

「ここ、曲がってまっすぐ」

 ひとまず道案内した昨日のスーパーは、缶詰やカップラーメン含めて、食べられるものはほぼ残ってなかった。水も、せいぜい醤油くらいしか飲めそうなものは残っていなかった。

 それもそうだ。残りわずかな最後の食料は、昨日すべて買い占めてしまった。そして今は海の底だ。

 それがわかったときはほとんど2人とも瀕死のような顔をしていたけど、彼女のちょっとした運転のミスから、店の入り口にあった自動販売機に軽トラごとつっこんでしまい、偶然にも壊れた自動販売機から大量の飲料水が転がり落ちてきた。

 決してわざとではない。

 そのおかげでしこたま水やお茶を飲めた2人は、上機嫌で最寄りのコンビニへ向かっていた。

 まさか自分の体の中に、ペットボトル3本分のジュースを飲み込むほどの空洞があるとは思っていなかった。

「そこには食べ物ありそうなの?」

「うん、道が水没しちゃってるから、かなり遠回りになったけど」

 近い道を通れば1時間足らずでたどり着けるけど、それには海中を運転する技術が必要となる。

 結局、コンビニへたどりつけるのは日が真上を通り過ぎてからとなった。

「田舎のコンビニだし、火事場泥棒もいないようなとこ」

「火事場泥棒だって」

「耳が痛い」

 耳が痛いほど蝉が鳴いている。

 さっきから山の方へ向かってるから、近づくにつれて蝉の声が大きくなってくる。

「ところでさ」

 小さな手でハンドルを握る彼女が、正面を向いたまま話しかけてきた。

 最初は運転に手間取っていた仕草はあったけど、もう慣れてしまったようで、自転車のように乗りこなしている。

「あと、何日だっけ」

 少し緊張した声音だった。

「3日」

 しばらく、車内は蝉の声だけが響いた。

 近くで鳴いている蝉が静かになると、今度は遠くの蝉の声が聞こえる。

 窓の外に目線を向けると、同じような山がどこまでも続いていた。

「3日かぁ。それまで、なにする?」

 彼女はハンドルを握ると少し強めにアクセルを踏んだ。

「とりあえず、廃校に向かおう」

 たまにタイヤが砂利道の小さな凹みにはまって、体が上下するのがおもしろい。

 荷台のペットボトルが慌ただしく踊っている。

「廃校って昨日も言ってたね、どこにあるの?」

「この辺の山の一番高いところ。かなり前からあるところだから壊れてるかもだけど」

「廃墟なの?」

「高くて広い場所なだけ、マシでしょ?」

「うん」

 実際に行ったことはない。そういう場所があると聞いていたので、水没が始まったらそこへ向かおう、と決めていた。

「じゃあ、そこで秘密基地作りだね」

 小柄な彼女は、軽トラを運転しながら楽しそうに髪を揺らした。寝癖が酷かった。

 窓の外を見ると、電柱も数を減らしてきて、人が住んでいた場所から遠ざかってきていることを理解する。

 田舎の町がもうすぐ水に浸かるところを想像すると、ふと、ダム工事で沈んだ町があるという話を思い出す。

 フロントライトにヒビの入った軽トラは、足場の悪い砂利道をスキップしながら、2人が地上で最後に寄ることになるコンビニへ向かった。



 コンビニと、それからホームセンターに寄った後、荷台は荷物で膨れ上がっていた。

「そっち引っ張っててね」

「うん」

 ホームセンターで購入した2人分の布団を下敷きにして、缶詰、米やインスタント食品日用品、カラースプレーなんかを積んだ荷台をブルーシートで無理やり覆って、2人がかりでロープで固定する。

 きちんとした方法なんて知らないので、1人が荷台の下に潜り込んで、軽トラの胴体にロープをぐるぐると何周も巻いた。

「これ、落ちないよね?」

「たぶん。落ちても拾えばいいし」

 パンが潰れそうな程度にはがっちり固定したトラックを見ると、滝のような汗と達成感で、まるで文化祭の準備をしているような胸の高鳴りを感じた。蝉の鳴き声がBGM代わりだ。

「シャワー浴びたいね」

「だね」


 この汗で車内に戻るのは気が引けたので、割れたガラスの散乱する自動ドアをくぐって、店内の水道を探した。

「スタッフルームとか」

 昼間なのに薄暗いホームセンターは、昔、深夜にみかけたゾンビ映画の避難シーンを彷彿とさせた。

 普段は入らなかった大きな鉄の両開き扉を、2人で押して開ける。

 不気味なほど音のしない店内に、ぎぎぎ、という軋む音がこだまする。スタッフルームは言いようのない冷たさが漂っていた。

 部屋の後から、はしごをがたがたと動かす音が聞こえた。

「ねえ、これ使えないかな!」

 駆け寄ってきた彼女が抱えていたのは、ぐるぐると何重にも巻かれたホースだった。

 少し考えてから、2人でにやぁっと顔を見合わせる。

 それからは駆け足行動。

 ホースをちょうどいい長さにハサミで切って、切った端を少し広げてペットボトルの口につける。

 それを持った彼女が軽トラの上からペットボトルを逆さまにひっくり返す。

「流れてきた!」

 思わず歓声を上げてしまった。

 ホームセンターの中にあったのでまだ冷たいペットボトルの水が、ホースから頭にめがけてじゃばじゃばと流れてくる。

 長時間太陽の下で作業をしてべたついた身体に、冷たい真水が染み渡っていく。全身で水を飲んでいるような感覚。

「ペットボトルから直接浴びるのと全然違う!」

「2本で交代ね!」

「わかった!」

 きゃっきゃと年頃らしく騒ぎながら、ホースからの冷水を服の上から浴びた。

 替えの服はないけど、乾かしている間くらい、下着や水着でもいいかなという気はする。

 2回づつ交代で浴びて、シャンプーで髪を洗って、水を8本消費したところで、やっと身体の熱は冷めた。

 服を脱いで水着だけになって、2人で駐車場のアスファルトの上に転がる。

 今買ったばかりのタオルで髪の毛を拭いて、丸一日ぶりに頭がさっぱりした。

 ホームセンターで購入したパラソルを立てているので、日陰になっていて涼しい。

「水、つかっちゃったねー」

「いいよ、ジュースあるし」

「廃校の近くって、川ある?」

「あったはず、山の上の方だから綺麗そう」

 歩きの移動でないなら、水の心配はそこまでなかった。まだ壊した、いや、故障した自動販売機から頂戴したジュースもたくさん余ってる。

「ここから廃校まで、いけるかな」

「だいぶ離れたけど、日没までには、たぶん」

 日は傾き始めていた。

 早めに行動しないと、そこまで標高の高くないここにも、海の魔の手が忍び寄ってくるかもしれない。

「よし、いこうか」

「服は?」

「今買った水着に着替えよう」

 服はあとで洗って干せばいい。

「水着で軽トラ運転。なんかえろい」

「思春期だ」

 パラソルを閉じてから、大きく伸びをして、青空の下で水着に着替える。

 蝉の鳴き声に少し責められてる気がしないでもないけど、そこは目を伏せてもらった。

 新品のビーチサンダルで熱いアスファルトを蹴って、助手席に乗り込んだ。

「いこうか」

 2人を乗せた軽トラは、廃校へ向かう山道へ消えていった。



 蝉に変わって鈴虫が鳴きだした頃、ライトが点滅する軽トラは、月明かりの差し込む広場に上がり込んだ。

 開けた校庭は、まばらに背の高い草が生えていて、ちょっとした草むらとなっていた。

「着いた……」

 暗い中目を凝らして山道を運転し続けた彼女は、力つきるようにシートに体重を預けた。

「お疲れ様」

 ちなみに6回木にぶつかった。左側のカーブミラーはどこかに落としてしまったようだ。

「免許とって1年も経ってないのにここまで来れたのすごいよね?」

「うん」

 シートベルトを外して軽トラを降りると、長時間揺られた両脚は、サンダル越しの地面の感触を心臓に伝えた。足元がひんやりと湿っている。

 思いっきり息を吸い込むと、夜の草と土の匂いが肺いっぱいに広がって、自分まで山の一部になったような錯覚を覚えた。鈴虫の鳴き声が耳に優しい。

 校舎の方を振り返ると、雲の隙間から月明かりが差し込む木造2階建ては、たしかに状況がそろえば幽霊なんていくらでも出てきそうな、退廃的な雰囲気を醸し出していた。

 けど、今の状況では、人類最後の城の天守閣と言っても過言ではない。月のライトと鈴虫の合唱が、さらにその威厳を加速させていた。

「ボロボロだね」

 軽トラから降りてきた彼女は、隣に立ってさらりとそう言った。

「家賃いくらだと思う?」

 そういうと彼女は少し考えた後、いいところだね、と頷いた。

「はいってみよっか」

 助手席から懐中電灯を取り出して、2人とも水着姿のまま、廃校の校舎の入り口に向かった。

 雑草がすねを撫でてくすぐったい。

「とびら、開くの?」

 彼女が後ろをとてとてと着いてきながら、少し不安そうに尋ねてきた。

「まあ、廃校になって随分経ってるし……」

「こ、壊すんだね……」

 扉を強く開けようとしたら偶然壊してしまう予定だ。

「校舎……で、寝るの?」

 さっきからやけに彼女が引き気味だ。

 振り返ると、また一回り小さい彼女がいた。

「暗いところ、きらいなの?」

「だって……」

 少し意外だった。

 これまで快活な部分しか見てこなかったので、心臓に毛が生えてるタイプの人間だと思っていた。

 人は第一印象だけではわからない。

「じゃあ、今日は校舎はおいといて、荷台で寝る?」

「うんうん、そうしよ」

 そういうや否や、彼女はウサギのように荷台に戻って、ロープを解き始めた。

 荷台に寝るにしろ、あの大量の荷物を降ろさなければならない。

 完全に日が沈んだ山の中で、女の子が水着姿で作業をしている様は、不思議と異様にマッチしていて頷けた。

 廃校の纏っている雰囲気のせいかもしれない。

「ちょっと肌寒いね」

 ロープを解くと、まずは大きめのタオルを二枚取り出して、体に羽織った。

 服を着たいところだけど、残念ながら荷台の端に丸めて置いてあるせいで乾いていなかった。

 そういえば、コンビニで1つだけ買ってしまったアレは彼女には見つかっていないだろうか。

 見つかってないといいけど。

「とりあえずブルーシート広げて、荷物おこっか」

 カバー代わりにしていたブルーシートを今度は草むらに敷いて、積んでいた荷物をばらっと並べる。

 食べ物に歯ブラシにシャンプーに、ちょっとしたお泊まり会のようだった。実際、ちょっとどころのお泊まり会ではないけども。

 軽トラの上から大きな懐中電灯をぶらさげて、簡易のライトをつくる。意外に明るい。

 ちょっとわくわくする。

 耳元で蚊の飛ぶ音がしつこかったので、贅沢に3つも蚊取り線香に火をつけた。特徴的な香りが鼻を襲う。

「カレー食べたい!」

 彼女は散らばった食料品の中からインスタントカレーを取り出して、上に掲げて見せた。甘口。

「じゃ、お米炊こっか」

「炊飯器持ってきたの?」

「こんなこともあろうかと、ちょっと前にネットで調べた」

 荷台からコンビニで買った米を取り出して、ビニール袋に米を入れる。もちろん生米。

「え、炊けるの、それで」

「初めてやるからわかんないかも」

 米が浸るくらいに水を注いで、その間にガスコンロに火をつけてもらう。

 深めのフライパンに水を入れて、ぶくぶくと沸騰するまで待つ。

「これで炊けたらすごいよ、ノーベル賞ものだよ」

「誰がくれるの?」

「私」

 人口が2人になってしまうと、ノーベル賞の価値もおままごと程度になってしまう。ふとそう考えると、鈴虫の鳴き声がふいに大きく聞こえた。

 沸騰したくらいで、口を固く縛ったビニール袋を熱湯に浸して、すぐに彼女に言った。

「15分数えて!」

「え、え、何秒?」

「えっと……900秒」

 15分って割と短い。

 3日という数字も、秒になおしてしまうと短く感じるのかもしれない。嫌な汗をかく。

 指折り数えているのを尻目に、散らばった荷物から紙皿を取り出して、ブルーシートに広げておく。

 手持ち無沙汰になってしまったので、荷台に放置されてる布団を一旦降ろして、軽く叩いてから軽トラの頭にかけて干しておいた。

 下敷きになっていたから、こうしておかないときっと固い寝床になってしまう。

「900!」

 ビニール袋を取り出してみると、さっきまでかちかちだった生米が、ふっくらと白いごはんになっていた。

「すごーい!」

「本当に炊けた」

 こういうときスマホがあれば写真を撮っていただろうな、と思った。スマホは1人でいたときに電池が切れて、捨ててしまった。今は海の底だろう。

 まだぶくぶくと沸騰しているお湯で、2人分のカレーを温めた。甘口と辛口。

 プラスチックのスプーンと紙皿、ちょっとところどころ固い米にインスタントカレー、まるでキャンプだった。

 こんな状況でもカレーって食べられるんだ、と、感動したわけでもないけど、涙が滲んだ。暗かったので彼女には見えてないはずだ。

「いっただっきまーす!」

 さっきも缶詰は食べたけど、まともな食事は2日ぶりだ。

 スプーンを持つ手が震えて仕方なかった。

 湯気の立つカレーと炊きたてのごはんを口に運ぶと、想像以上に熱くて「あちっ」と声がでた。彼女がもぐもぐしながら「んふふ」笑う。

 少し熱すぎるカレーは、夜の冷えた空気によく合って、体の芯まで染みるような味がした。スパイスの香りが口の中に残って、これだけでもごはんがすすむ気がする。

 人は食べ物の味を香りで感じる、という噂は、嘘ではなかったようだ。

 用意するのには900秒もかかったのに、2人とも食べ終わるのは100秒もかからなかった。

 ご馳走様はまだ言えなくて、そのあと2人で缶詰を6つも食べた。箸よりスプーンの方が食べやすいことに気づく。

「ごちそーさまー……」

 ふぅ、と一息ついたのは、3つ目の缶詰を綺麗に食べ終わったときだった。息をした記憶がない。夢中でかきこんでいた。

「どうする? 近くに川あるっぽいけど、そこで歯磨きする?」

「うーん、怪我したら危ないし、今日はペットボトルの水で済ませよう」

「それもそーだね」

 手際よくゴミ袋に紙皿や缶詰を詰めると、ブルーシートの上から歯磨き粉と歯ブラシを取り出した。やわらかめとかため。彼女はかためだった。

 水をかけた歯ブラシに歯磨き粉をつけて口の中に入れると、もう随分と久しぶりに歯磨き粉の味が口の中に広がった。安心する。

「超落ち着く」

「えぇ」

 彼女は怪訝な顔をした。歯磨き粉は苦手なタイプだったようだ。

 念入りに歯を磨いてから、交代でうがいをした。軽トラから少し離れた草むらにそのままぺっと吐き出す。

 誰も見てないし、誰も見ることがないので、その辺りは自由だった。ルール違反ではない。

「お風呂入りたい」

「贅沢言わないの」

 少し離れたところから見ると、広い校庭にぽつんとたたずむ軽トラとその周囲は、やけに不釣り合いに見えて、誰かに怒られそうな気がした。もう怒ってくれる人はいないけども。

「今日は寝よっか」

「うん」

 歯ブラシを容器に仕舞って運転席と助手席に置いて、荷台に布団を並べると、少し狭いけど、2人用のベッドが出来上がった。

 天井はないけど、壁が少しあるので、昨日の劣悪な寝床に比べると、雲と泥のような差があった。

「おやすみー……」

 横になると間も開けず、彼女は気を失うように眠りについた。小さな寝息に合わせて、規則正しく背中が揺れる。無理もない。あれだけ長い時間運転したのだ。

 上を見上げると、まばらに雲があって、あまり星は見えなかった。

 背中を向けて、目を閉じる。一度閉じてしまうと、この瞼は2度と持ち上げられないというほど重たくなって、深い眠りに転がり落ちていくのを感じた。


 こうして眠るのも、あと、2回。

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