飛んでいる蝉は鳴かない

バナナ芭蕉

第1話 蝉が鳴いている

 蝉が鳴いている。

 遮るものがない国道の真ん中車線は、まっすぐに日差しが差し込んできていて、足元からは、ぶつかるような熱気が襲いかかってきていた。道路の端には、コンクリートの隙間から雑草の芽が生えている。

 湧き水のようにあふれてくる汗を少し拭って、缶詰を大量に詰め込んだナップザックを担ぎ直す。水の入ったキャリーバッグを握り直して、道路を転がす。

 わずかなそよ風が、今はなきエアコンの冷風のように気持ちよかった。

 少し歩いて、長い坂道を下れば、大きないちょうが並ぶ公園に着く。木陰があるはずだ。

 そこまで歩こう、と、慣れない1人言を呟いて、誰もいない町を歩いた。


 蝉はまだ鳴いている。



 木陰にはたどり着けなかった。


 ナップザックを下り坂におろして、その隣に座り込む。

 塩の香りが漂ってきた。足元のコンクリートは、波打ち際になっている。

 木陰の公園は、もう沈んでしまっていた。


 靴と靴下を脱いで、暑さで痛む足を目の前の水につける。期待に反して、生ぬるい海水が両足を包んだ。

 この日差しにコンクリートだと、ただでさえ冷たくはない波打際は、まるで湯水のように温まってしまっていた。

 それでも、優しく足を撫でていく波は、長時間歩いた疲れを癒すには十分だった。

 遠くの方には、流されてしまった大きなゴミが点々と浮いている。

 一瞬ためらったあと、ズボンをその場に脱ぎ捨てて、じゃぶじゃぶとコンクリートの砂浜を海に向かって歩いていった。

 水たまりを裸足で歩いているような足の裏の感覚に、砂利の少し混じった海水。

 結局、下着が浸かる一寸手前まで進んでみたけど、足元が冷たくなることはなかった。どこも均一にビニールプールのような温かさ。


 荷物の隣まで戻って、濡れてしまった下半身をコンクリート投げ出して、自然に乾くのを待つことにした。

 坂道に転がると、雲ひとつない青空が露骨に広がっていた。

 目を閉じて、熱い空気を大きく吸い込む。


 ……太平洋の真ん中に、延々と海水を吐き出し続けるホールが現れたのが去年の春。

 当時は世界中が注目して、小型のブラックホールだとか、UFOだとか、異次元の海中に空いたワープホールだとか、いろいろな説が日夜テレビで流れていたけど、結局答えは分からずじまいだった。

 世間が危機を感じ出したのは、ツバルという島国が水没してからだった。

 ツバルは前から海面上昇なんかによって水没が危惧されていて、対策をしていたようだけど、そうではない国は額に汗を浮かべ始めた。

 客船や大きな貨物船がたくさん出航した。けど、そんな船はいつか大地に戻ってこないとそのうち力尽きてしまう。

 ハワイからほとんどの人がいなくなった頃、世界中の大きな国が、ハコブネに乗って避難を始めた。

 人や猫や犬や豚、牛、いろんな動物を乗せられて、農地や森もあって、そして燃料は海水から作ることができる、あと200年は大地に戻らなくても平気な、大きな大きな鉄の浮島、それがハコブネだった。

 新聞やニュースで嫌というほどみたけど、全体がカメラに収まった写真や映像は見たことがない。それくらいハコブネは大きかった。

 アメリカやロシアやイギリスや、もちろん日本も、こぞってハコブネを造った。

 ひとつやふたつではなくて、どこからそんな材料が出てきたのか知らないけど、『ヤマト』や『ノア』や『ウツロブネ』なんて名前が募集で決まってしまうほど、たくさんのハコブネが造られた。

 きっと今の地球を上から見ると、真っ青な海の中で、ポツリポツリと無数のハコブネが漂っているのだと思う。

 全部合わせると、人類の4割を生存させることが可能らしい。


 ざあっ。


 ひときわ大きな波の音で気がつく。

 眠ってしまうところだった。少し大きく息を吸い込んで、脳に酸素を回すと、脚はもう乾ききっていることに気がついた。少し塩が残っている。

 立ち上がってズボンを履こうとすると、海から覗くいちょうの頭のあたりに、何かがひっかかっていることに気づいた。

 黄色くて丸っこい。ゴムのような。さっきまではなかった。

 目をこらす。日差しが海で反射して、スポットライトのように眩しい。

 風に揺れる旗のようなもの。字が書いてある。

 目は悪い方ではないけど、それを読み取るのには少し時間がかかった。


『まだ生きています』


 ゴムボートだ。

 手に持ったズボンをその場において、薄いシャツもその場に脱ぎ捨てる。

 少し身体の筋を伸ばして、それからばしゃばしゃと水没した坂道を下った。



 泳ぐのは得意な方だった。

 けど、波があるところがこんなにも泳ぎにくいとは思わなかった。

 進んでも進んでも戻される。一歩進んで二歩下がる。文字通りそんな気分だった。

 ゴムボートにたどり着く頃には、もう帰りの距離を泳げる自信は露ほどもなかった。

 あっぷあっぷといくらか塩水を飲み込みながら、ゴムボートに手をかける。波が顔にぶつかる。

 ゴムボートの中で荷物と人が傾いたのがわかった。

 息を整えてから、自分の上半身をぐいっとゴムボートにもちあげる。中から熱水のような水が溢れてきた。

 それと同時に、小柄な女の子の身体がこちらに転がってきた。海水なのか汗なのかわからないけど、髪の毛がべったりと額やこめかみに張り付いている。

 もし汗なのだとしたら大変だ。

「生きてる?」

 死んでるような女の子の頬をたたく。返事はない。

 胸に耳を当ててみる。伝わってきた振動が自分の鼓動なのか、それとも相手の鼓動なのかを理解するのには、少し時間がかかった。

「……生きてる」

 心もとないけど、心臓は動いてるようだった。

 でも、たぶん、このままじゃまずい。

 ビート板の要領で、ボートを木陰になっている場所まで移動させる。

 女の子が落ちないように、慎重にボートの上に転がり込むと、荷物の中にペットボトルの水とふやけた乾パンがあることに気がついた。

 熱中症で倒れてるのは間違いないだろうけど、残念ながらこういう場合の応急処置の知識なんて学校で習った程度も持ち合わせていない。

 少し考えてから、女の子の頭を膝に乗せて、頭から水をかけた。ぬるま湯だった。

 ボートの端にぐちゃぐちゃに丸められた衣服が転がっている。女の子は水着姿だった。暑くて脱いでしまったんだろう。日焼けが酷い。

 ペットボトルの水がなくなるころ、女の子が咳をしながら目を覚ました。

「生き返った」

 女の子はしばらくぼーっと咳をして、それから辺りを見渡したあと、半分くらいしか開いてない目でこちらを見た。

「……だれ?」

 こんなに頑張ったんだから、お礼の言葉くらいあってもいいと思う。

「未来から来たキミだよ」


 この状況における渾身の冗談だった。女の子は力なく鼻で笑った。



 ナップザックがあるところたどり着く頃には、完全に日は沈んでいた。

 アスファルトにあがると、身体がいつもの100倍重たく感じて、その場に倒れこんだ。

「……立てる?」

 倒れたまま尋ねると、女の子は思ったよりもすんなりと立ち上がった。

 熱中症というか、ただ寝てただけというか、大事に至っていたわけではないようで安心した。

「うん、あなたは?」

「今日はもう、無理かな」

 うつ伏せになったまま瞼を閉じていると、頭から水をかけられた。

 少し温かい真水がべたつく肌を撫でるように滑っていく。

「海水おとさないと、気持ち悪いよね?」

「……そのままお願い」

 しばらく身体を流してもらったあと、女の子も自分で体を洗っていた。思ったよりも背は低い。

 キャリーバッグから取り出すのは面倒だったので、ひとまずは女の子の持っていた水を使うことにした。

 口から息を吸い込むと、少し体力が戻ってきて、ひどくお腹が空いていることに気がついた。

「缶詰、食べよう」

「缶詰?」

「ナップザックの、中、みて」

 身体を起こして、全身で気だるさを感じる。明日は筋肉痛だ。

「サバの味噌煮だ」

 女の子は嬉しそうに濡れた長い髪を揺らした。

「それ、1つづつ、食べよう」

 わかったと言うや否や、女の子は缶詰の蓋を手間取りながら開けて一口手で掴んで食べて、それから同じものを寄越してくれた。

 蓋を開けるのに戸惑っていると、女の子が気がついて、さっきよりはスムーズに開けてくれた。

 箸なんてものはないので、左手でサバをひっつかんで、そのまま口に運んだ。

 疲れた身体に、味噌の濃い味が染み渡る。固くも柔らかくもないサバの身が、力の入らない顎でもほろりとくずれて、簡単に飲み込めてしまう。こんなに美味しいと感じたサバの味噌煮は初めてだった。

「ごちそうさまでした」

 人生で一番サバに感謝した夕食を終えて、女の子と交代で手を洗ってから、2人で向き合った。

「えっと、とりあえず、なにしてたの?」

「家出」なんでもない風に答える。

「家出でゴムボートで船出したんだ?」

「うん、家の周りが水没してきてて、でも1日目の夜に、寝てる間にオールをなくしちゃって」

「それから何日漂ってたの?」

「覚えてない、けど、2回は夕日を眺めた気がする」

「ひええ」

 その割には声色ははきはきとしていた。

「体力はある方なんだ」

 彼女はさっきまでの死にそうな表情とは裏腹の、元気のいい声でそう付け加えた。

「じゃあ、ここから廃校まで運んでもらえるかな」

「どこにあるの?」

「車で1時間半」

「それはちょっと」

 さすがにわかっている。それに荷物もかなりある。病み上がりの女の子1人で運べる量ではない。

 ふと時間が気になったけど、時計なんてものは周りにないし、仮にあっても気にする必要は皆無なことに気がついた。それに、きっとほとんどの時計はもう動かない。

「とりあえず、どこか平らなところ探して、寝ようか」

「このあたりで?」

「うん、近くに転がり込める民家なんてなけど、傾いてる場所だと寝にくい」

「そっか」

 濡れた髪の毛を拭きたかったけど、タオルなんて持っていなかったし、唯一乾いている服は、着ることを考えるとそんな贅沢は言ってられなかった。

「髪の毛べたつくね」

「だね」

 2人で重たい身体を引きずりながら、とりあえず荷物はその場に放置して、1キロほど歩いた場所にある駐車場だった広場に倒れこんだ。

 そのあと会話をした記憶はない。

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