重ね
碧 合歓
重ね
文月も中旬、縁側から望む田を照らす日差しはまだまだ序の口とばかりに照っている。
それはきっと夏の暑さのせいだけではない。今、私の膝を枕にしている嫁のせいだ。
目線を下げて可愛らしい寝息を立てている嫁を睨む、だが、すぐに口元が緩んでしまう。
暑くてもこの寝顔を眺められるのなら良いか。
団扇と涼しさは見合ってないが、この時間は暑さに見合ったモノを得ることができている。
彼女の絹の様になめらかな髪を撫でる。
彼女の普通の人よりも高い体温を感じる。
彼女には、人には言えない秘密があった。どう見ても人にしか見えない彼女は私と同じ人ではない。
人ではないのなら何なのか。
―妖怪だ。
それもただの妖怪ではない、その拳は岩を砕き、強靭な牙は骨ごと肉を噛み千切り、その額からは力を示す角が伸びる。
お
しかし、今の彼女はどう見ても人であり、かつ別嬪だ。そんな凶悪な姿は予想もできなかった。
彼女いわく、鬼とはいつもお伽話の様に強靭な四肢をもち牙と角を持っているわけではないらしい。
陰の気が満ちる時、つまりは満月の日にのみ鬼はその本性を表す。
彼女もそうであった、満月の日に彼女の額からは小ぶりな二本の角が伸び、口には牙が覗き、いつもは井戸の水桶で一苦労していた彼女は米俵を軽々と持ち上げた。そして、極めつけは夜伽が凄まじかった。爛々と怪しく光る双眸に荒い吐息……。
その時を思い出し赤面する。
さらに熱を帯びた顔を団扇で扇ぎ冷ます。効果は期待していないが気を紛らわせることはできそうだ。
そして、気を紛らわせるついでに物思いに耽る。
思い出すのは、彼女と初めて会ったあの日のこと。
梅雨明けの日差しが暑いある日のことだった。私はいつもの様に散歩に出かけていたのだ。
近所の雑木林へと足を踏み入れて伸び始めた雑草をかき分けながら獣道を進む。四方八方から響く蝉の合唱に、汗は際限なく肌を伝う。そのうち乾物にでもなってしまいそうだ。
歩き続ける事三十分、雑木林を抜けると目の前には湖が広がっていた。
いつも以上の暑さにどうかしていたのか、私は着物の帯を緩め乱雑に脱ぎ去ると褌一丁で湖に飛び込んだ。
火照り汗の滲んだ肌を、山からの湧水が溜まった湖の涼水が包む。
「かぁ~、気持ちがええなぁ!」
顔だけ水面に出して漂うと雑木林から蝉の合唱が清涼感を持って響く。
体が適度に冷えてきたので湖から上がる。
着物と一緒に持ってきた手ぬぐいを拾い上げると茂みから物音が聞こえた、反射的に茂みを見ると。
雑木林から出てきた半裸の別嬪さんと目が合った。
女性は硬直して呆けていた。きっと私も同じような状態だっただろう。
先に正気を取り戻したのは私だった。
悲しい男の性か、口が開く前に自身の目は彼女の全身を一撫でしていた。
場違いな程に涼しさを感じさせる雪の様に純白の髪。小さなうりざね顔は程よく小麦色に焼けている。脱ぎかけの着物から覗く無防備な乳房。緩んだ帯から覗く大腿に差し掛かろうかという時に口が動き出した。
「えーと、えらい別嬪さんやなぁ……」
その一言が彼女の意識を再起動させたのか、小麦色の肌が林檎並みに赤く染まった瞬間、彼女が突然、私の方へと駆けだした。
私は再び思考停止した。
現状を理解できないままに呆けていると、彼女が振り上げていた右腕を私めがけて振り下ろしてきた。
骨と骨がぶつかる音が顔の左側で響く。退いた左足が空を踏み私は湖へと音を立てて沈み気を失った。
ビクリと身を震わして目を覚ますと、ぼやけた視界のなかに赤焼けに染まる彼女の顔が映る。
どうやら物思いに耽っていた間に居眠りをしたらしい。あくびを噛みしめながら体を伸ばそうと身をよじろうとすると、彼女の枕になっていた大腿が悲鳴を上げた。
悲鳴になりそこねた吐息を漏らし伸びを諦めた。
彼女は私の悲鳴など知ったことではないと気持ちよさそうに寝息を立てている。それがまたいじらしい。
カラスが鳴き合いながら森へと帰って行くのを眺めながら彼女の頭を撫でる。
「ほら、起きや。夕飯の準備せな」
肩を揺さぶると彼女は一つ身じろぎをして身を起こした。寝起きの彼女は未だ焦点の定まらない瞳のまま私を見つめる。
寝ていたせいか彼女の着物はけている。初めて彼女を見た時のように。
「また開けてるで」
胸元に視線を固定していると、彼女は視線をたどり自身の胸元を見やると。これまた出会った時のように顔を染めると、右拳が私の左頬へと飛んできた。
偶然は重なるもの。今日の日付は奇しくも彼女と出会った日と同じだった。
その事実に、彼女も私も気がついてはいなかった。
重ね 碧 合歓 @yukarimidori
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