死を招く絵画

鬼虫兵庫

死を招く絵画

 ホープダイヤモンド。

 それは人に不幸をもたらすと伝えられた呪われた宝石。

 バズビーズチェア。

 それは座った人間に死をもたらすと恐れられた椅子。

 呪われた……不幸をもたらす……死を招く……。

 この手の話は、枚挙にいとまが無い。

 死を招く宝石、死を招く椅子、死を招く絵画……。

 改めて考えてみると、その手の話に登場する品の多くは、それ自体の出来がいいという点が共通しているようにも思える。人を惹きつける魅力が、より不気味さや危うさを増幅させ、それらの逸話の説得力を増す効果をもたらしているのかもしれない。

 …………。

 思い返してみれば、確かにあの絵も素晴らしい絵だった。

 そう、この事件に登場するのは一枚の絵画だ。

 それはある男から『死を招く絵画』と呼ばれていた絵だ。

 ここではその逸話の真偽を語ることはしない。

 だが、その絵は『死を招く絵画』の異名の通り、確かに、一人の大富豪に死をもたらしたのだ。



 死を招く絵画


 1,

 白熱球の弱々しい明かりが灯る中、大理石張りの廊下にコツコツと二人の足音が響く。

 俺の先を行く大富豪エイブラハム・ホーカー氏は老年だが闊達な人物だ。白髪、黒のタキシード。小柄ながらも日に焼けた肌は、数々の世界を渡り歩くその彼の行動力を示しているかのようだった。

「今から見せる絵は、なかなかに曰く付きの絵でね。私のコレクションの中でも門外不出の物なのだ。私の子供達以外であの絵を見るのは、君が初めてになるだろう」

「ほう……そんな絵を見せてもらえるとは光栄ですね」

 そこまで絵画に詳しいわけではない俺は、若干の気まずさを感じながら答える。

 恩があるとはいえ、何故、ホーカー氏はそれ程の物を俺に見せる気になったのだろう?

 何か心境の変化でもあったのだろうか?

 そんなことを考える中、やがて俺達は大きな木製扉を抜け、左右に扉が向かい合う短い廊下へとたどり着く。

 左の扉を開けると、そこは数々の名画が並ぶ展示室だった。

 俺はその数々の名画の中でも、左の壁に掛かった絵がひときわ存在感を放っていることに気づく。

 その絵には見覚えが……いや、それに類するものは確かに見たことがあった。

「これは……モネですか?」

 俺の言葉にホーカー氏は満足げな表情を浮かべた後、コツコツとその絵へと歩み寄る。

 そして額に手を置き、大きな痰を取るような咳を一吐きしてみせた。

 その行動に俺は思わず肝を冷やす。

 俺なら決してモネの絵の前で咳払いなどしない。唾でも飛んだら一大事だからだ。

「その通り。これはモネの絵画の中でもかなりの傑作に分類されるものだ。実はこの絵はかれこれ数十年の昔、私自身が見つけだした一品でね」

 ホーカー氏の話を聞いた俺はその絵へとジッと視線を向ける。

 画面を占める睡蓮の美しい緑、そして池に反射する空の深い青。原色で描かれた一筆一筆は一見すると荒々しくさえ見えるが、距離を置くとそれらの原色が一体となって調和し、現実の風景以上の色彩となり浮かび上がる。

 クロード・モネの『睡蓮』……晩年、モネは目が悪くなった関係もあり、かなり大きい、物によっては横幅が十メートル以上のキャンパスに絵を描いたと聞いたことがある。この絵も壁一面とまではいかないが、横1・5メートル、縦1メートル。大の男がギリギリ抱えられる程の大きさだ。真作だとすると、数百万ドルはくだるまい。

 だが、しばらくその絵を眺めながら会話を交わしている中、不意にホーカー氏の口から、

「素晴らしい……確かに素晴らしい……。だが、この絵は『死を招く絵画』でもある……」

 寂しげな独り言が漏れ出した。

 俺はその言葉の意味が気になったものの、結局その言葉の真意は聞けぬまま、展示室を後にすることになった。



「ほいふぃーふぇふほー」

 先ほどの出来事を思い起こしていた俺は、不意に聞こえたその素っ頓狂な声に驚き、無言のまま視線を向けた。

 視線の先、口に目一杯料理を詰め込んだこいが立っていた。

 普段のシャツとネクタイ姿とは違い、今の鯉は肩が露出した黒のドレスに身を包んでいる。

 多少かわいげにも見えるが、出発前に治させたはずの頭の寝癖が復活してしまっているのが見苦しい。相変わらずの寝惚け眼の為、その喜怒哀楽はいまいちわからないが、恐らく興奮しているのだろう。鯉は料理を乗せた皿を片手にして、その旨さを全身で示そうとしているようだった。

 俺はその奇態を冷めた目で見つめた後、チラリと辺りに視線を移す。

 ホーカー邸で執り行われているこのパーティ会場では、四十名程度の男女がカクテルグラス片手に談笑を繰り広げていた。恐らく彼らはこのニューヨークでも指折りの富豪、或いは著名人達だろう。皆、生まれながらの貴族といった態で社交慣れしている姿を見ると、俺達の存在は余程に場違いなもののように思われた。

「おい、鯉。このパーティは紳士淑女が集まる優雅な会なんだ。時間制限食べ放題バイキングや大食い選手権じゃないんだぞ。いくら料理を食べようとも誰かに勝てるわけでもないし、なんのポイントにもならない。辺りを見てみろ。どれだけ浮いてると思っている」

 俺の苦言に鯉はハッとその動きを止め、直後、喉に食べ物を詰まらせたのか、顔を青ざめさせ胸をドンドンと叩き始める。

「おい、大丈夫か?とりあえず窒息死するなら外でやってくれ」

 そんな嫌味を吐き出したものの、鯉が本気で嘔吐き始めたので、俺は仕方なくそれを廊下へと連れ出す。

 廊下に出た頃、やっと鯉は食べ物を飲み込み終わり、俺に潤んだ視線を向けた。

「喉に詰まりました……」

「眼がついてればわかる……お前が欲張りすぎるからだ」

 俺の言葉に鯉はムスッとした表情を浮かべる。

「……そういえば、先生。さっきホーカーさんの秘蔵の絵を見せてもらったそうですね。なんで私は見せてもらえなかったんです?あの捜査には私も協力したはずなんですけど?」

「……なんでかだと?」

 俺は先ほど見た睡蓮の絵とパーティー会場での鯉の姿とを交互に思い浮かべる。

「お前だと絵の前でくしゃみでもしそうだからだろ。実際しそうだ」

「失礼な。そんなことしませんよぅ」

 再び鯉が顔を歪めて答えたその直後、廊下に得体の知れない音が響いた。

 遠い為か音自体は大きくないが、かなりの重量物が落下したような鋭い音だ。

「……なんだ今の音?」

 音は大理石張りの廊下に不気味に木霊する。

「廊下の奥からですね」

「この奥というと例の展示室があるはずだが……」

 となるとそれは少々きな臭い。

 俺達はその音に誘われるようにしてコの字型の屋敷の奥にある展示室へと歩を向ける。

 展示室に繋がる廊下前にたどり着くと、あの大きな木製扉が半開きになっているのが見えた。

 扉の隙間から見える短い廊下には明かりもついておらず、真っ暗だ。

「ホーカーさん!何かありましたか?」

 俺は扉に半身を入れ声を上げるが、反応が返ってくる様子はない。

 なんとか手探りで明かりのスイッチを見つけ出すが、何故かそれを動かしても無反応だ。

「妙だな……」

 俺はポケットの中からフラッシュライトを取りだし、廊下を照らす。

 左右に並ぶ扉。右の二つの扉は応接室へと繋がる扉、それと向かい合う左の扉はあの展示室へと繋がる扉だ。その左の扉が大きく開け放たれている。

「…………」

 俺は音を立てず身体を展示室の中へと滑らし、ライトを向ける。

 中に人影はない。

 展示室の中は壁に数々の絵画が並んでいる他は二三の簡素な椅子があるだけで、身を隠せる場所もないのだ。

 無論、扉の影にも人の姿はなく。カーテンがかかった二つの窓も開いている様子はない。

「……?」

 だがその直後、俺は展示室の左の壁際に、ある異常を捕らえた。

 あのモネの絵が床の上に裏返しに落ちていることに気づいたのだ。

 先ほどの大きな音はこれが落ちた時のものだったのかもしれない。

 だが、何故この絵が落ちている?

 なにか嫌な予感がする……。

 ここで何かの異変が起きたことは間違いない。これは何かの重大な予兆なのだ。

 俺は即座に展示室を出て、向かいの応接室の扉へと身を寄せる。

「……?」

 だが、その扉を押し開けようとした俺はノブを握るその手に妙な抵抗を感じた。

 押し戸の先にある何かが扉を塞いでいるのだ。

 俺は無理矢理扉を押し出し、僅かに出来た隙間から明かりを向ける。

 その明かりの先にあったもの。

 それは首にアザをつけ、既に絶命しているホーカー氏の死体だった。



 2,

 通報の後、屋敷へと現れたニューヨーク市警の一団は皆一様に色めき立っていた。

 全米でも有数の大富豪が殺されたのだ。明日の一面を飾るのはまず間違いない上、彼らは普段入れない大富豪の邸宅に入り、著名人達を横目に捜査を行えるのだ。これ程、話のネタになることはなく、彼らが高揚するのも無理はないように思われた。

「はい、みんなどいて。ニューヨーク市警よ」

 その中、その場に一人の女刑事が現れた。

 その女刑事は赤毛を後ろでまとめ上げ、白シャツに黒のネクタイ、茶のベスト。タイトスカートを穿いていた。見ようによっては大学生くらいに思える程に若い女だ。

 女は警察の規制線の中にいる俺に気づき、その口を開く。

「どうも、私の名前はチコ・フィオレンティーナ。あなたが第一発見者さん?」

 カラッと明るい口調と共に差し出された手を握り返しながら、俺は過去の記憶を思い起こす。

「チコ・フィオレンティーナか……その名前には聞き覚えがあるな……確か、若いがかなりのやり手だと聞いた記憶がある」

 俺の言葉にチコは顔を赤く染め、純朴そうな様子で照れ笑いを浮かべた。

「いや、照れるなぁ。それであなたの名前は?」

「ああ、俺の名は池田戦いけだせん。ブルックリンで探偵業を営んでいる」

 答えた瞬間、そのチコの笑顔が一瞬で消え、曇った。

「池田戦?あのオフィス『旅の道』の?あなたのところすごく評判悪いわよ。マフィアとかとも仲がよくて非合法なこともやってるとかなんとかかんとか。本当にライセンス持ってるの?」

 強く否定することも出来ないので、俺は無言のままライセンス証を提示する。

 チコは眉間に皺を寄せそれをジッと見つめた後、言葉を続ける。

「まあいいわ。なら死体発見時の状況を説明して」


 死体があった応接室で発見当時の様子を説明した後、俺達は展示室へと移り、辺りを確認した。

 今の展示室の中は明かりがついており、先ほどよりも詳しい状況を見て取ることが出来る。

 チコは裏返しに落ちている絵の前を前にして口を開く。

「それで午後八時頃。物音を聞いたあなたはここでこの絵が落ちていることを見つけたのね?」

「ああ、そうだ。物音を聞いてこの展示室へ入った時、この絵が裏返しに落ちていることに気づいた」

「まあ大方、犯人がこの絵を落としたんだろうけど……。犯人は見かけなかったの?」

「ああ、俺がここに来た時は既に犯人の姿はなかった」

「ふうん……まあ、このスペース近くには階段があるみたいだし、二階を経由して逃げたのかもね」

「しかしどうにも腑に落ちない。この絵が落ちていた理由、それが気になる」

 俺の言葉にチコはその目を細め、呆れたような表情を浮かべる。

「別におかしくないでしょう。これは普通の物取りよ。絵を盗み出そうとした時に手が滑って絵を落としちゃったのよ」

 俺を悪い評判と結びつけてしまった為か、どうもチコの言葉からは敵意のようなツンツンとした感情が透けて見える。きつい口調で言い返せば言い合いになると考えた俺は、挑発にならないように出来るだけ落ち着いた声の調子で応える。

「そうかね?この屋敷に招待されたゲストは皆、地位も名誉もある連中ばかりだ。そんな連中がわざわざこんなリスクの高い盗みを働くと思うか?露呈する危険や、容疑者として特定される危険が大き過ぎる。どうにもこの状況はすっきりとしないな……」

「外部犯の可能性もあるでしょ?例えばその窓から忍び込んでとか」

「ふむ……」

 俺はその窓にかかったカーテンを開ける。

 それは幅二メートル弱、下端の高さは約一・二メートル。上は二・五メートル程の普通の引き違い窓だ。窓から見える中庭には先ほど到着した警察車両が停められているのが見えた。

 ただ、その中庭には屋敷から漏れる光がほとんどなく、深い闇の中にある。その上、この展示室自体が中庭の端に当たるのと、目の前の車が半ば視界を遮っている為、ほとんど見通しが利かない。事件当時は今の状況と同じようにパーティ客の車が留まっていたはずだ。パーティの最中なら、この中庭に犯人がいたとしてもまったく人目に触れることはなかったことだろう。

 俺は考えを巡らせながら、その窓に手を伸ばす。

「なるほど、確かに窓に鍵はかかっていない。それにこの暗さと死角だ。人目にもつかない。普通の窓ならここから進入することは可能だろう。だが、どうやらそれは無理なようだな」

 チコはその顔を歪めつつ、窓の先にあるその鉄格子に触れた。

 窓の外側に十本程度縦に走る格子はさすがに刑務所のような無骨な物では無く、ブラウン色に塗装された細めの物だが、造りはかなり頑丈だ。各鉄格子の幅はおよそ十五センチ、上下の端だけに横向きの格子が走っているが、こじ開けられそうな感じではない。ここから進入するのは不可能だろう。

 チコはその格子を握り、二三回強く揺さぶってみる。

「壊れそうにもないし、こじ開けたような痕跡もなし……それにしてもなんでこんな格子があるの?ホーカーさんは相当な人間不信だったとか?」

「ああ……こいつは別の屋敷での話なんだが……以前、ホーカー氏の絵が盗み出されたことがあってね。それ以降、外部からの侵入に敏感になったという話を聞いたことがある。まあこの鉄格子は俺も予想外だったがな……。ちなみにその盗まれた絵を取り戻したのが俺ってわけだ。その縁で今回のパーティに招待されたのさ」

「ふうん……ともかく事件当時の状況は整理するとこんな状態だったわけね?これで問題ない?」

 チコは警官が持つには不釣り合いな、まるで日本の高校生が持つようなゴテゴテに装飾された手帳にサラサラと地図を描き、それを俺に見せる。

「ああ、問題ない。確かにこの状況だった。だが、絵が落ちていたのも妙だが、ホーカー氏が扉を塞ぐように死んでいたことや、廊下の電気がつかないことも妙だな。犯人が意図的にそうしたんだろうか?……ああそうだ、ホーカー氏の死亡推定時刻は?」

「午後八時頃。殺されてからそんなに時間が経ってないから検視官の話では誤差はせいぜい前後十分程度に収まるって話ね。死因は絞殺。何かロープのようなもので首を絞められたみたいだけど、まだその凶器は見つかってない」

「八時か……俺があの物音を聞いたのとほぼ同時刻だな。ホーカー氏を殺害したのと、絵を落としたのは同一人物だとみて間違いないようだな。だが、妙だ」

 俺の言葉にチコはキョトンとした表情を浮かべる。

「なにが?」

「普通、金目のものを取るにしてももっと都合のいいものがあるだろう?こんなでかい絵、丸めても結構な大きさになるぜ。始めからこの絵を目的にしていたとも考えられるが、それにしては絵を落としたりと、どうにも手際が悪い」

「うーん……まあ、確かにちょっとだけ妙かも……」

 しばらく頭を悩ませた後、

「ともかく、この窓からの進入が無理だとすると……他の出入口から侵入したか、或いはまだ犯人がこの屋敷の中にいるってことなのかしら?」

「まあその可能性は高いかもな」

 チコはジッと考えを巡らせた後、ハッと何かを思いつき、俺へと視線を向けた。

「そういえば、あなた言ったわよね?このパーティに招かれた客は皆、地位も名誉もある人間ばかりだって。でも、一人だけその中に例外がいると思わない?」

 そのチコの言葉に俺は眉を寄せる。

「いや全然……待て……何が言いたい?」

「高価な絵を見てしまった悪徳探偵はどうしてもその絵が欲しくなった。ホーカーさんを殺害し、絵を盗みだそうとしたが、誤って地面に落とし、大きな音を立ててしまった。騒ぎになると焦った探偵は適当な話をでっち上げる。扉の前でホーカーさんが死んだことや、廊下の電気がつかないことは捜査を攪乱するための偽装工作。こんなシナリオはどう?」

「はー、よくもまあ、妄想でそんな適当な話が作り出せるもんだな。もしかして脚本家志望かなにかか?」

 俺はあきれ顔を浮かべて軽口を叩いたものの、チコは真剣な表情で睨み付ける。

「これは冗談なんかじゃないのよ?池田戦。私はあなたを第一容疑者だと考えて捜査するわ。そして何か一つでも証拠が見つかればあなたを逮捕する。覚悟して」

「おい、何言ってんだ。俺が犯人?馬鹿も休み休み言え。俺が絵で殺人なんかするか、馬鹿!」

「はい、これでまた一つ私の心証が悪くなりました。馬鹿って言った奴が馬鹿なのよ」

 俺達の言い合いは次第に激しくなり、衆人の視線が集まり始める。

「いいだろう。後で吠え面かくなよ。俺は俺が犯人でないことに百ドル賭ける!」

「百ドルぽっち?余程に自信がないのね!私だったら千ドル賭けたっていいわ!」

「お前の経済状況思いやってその金額なんだよ。お前だと百ドルでも怪しそうだがな。俺の慈悲に感謝しろ!」

「この腐れ探偵……言わせておけば……」

 今にもチコが飛びかかろうとしたその時、警察に案内されその場に二人の男女が現れた。

 女性の方は背が低く、ストレートのブロンド髪。白のドレスに身を包んでいる。

「父が殺されたというのは本当ですか?私はジャネット・ホーカー。エイブラハム・ホーカーの娘です」

「僕は息子のジェイムズ・ホーカー……」

 男の方は背が高く、ブラウンの髪を横分けにした伊達男、紺のスーツを着ている。

 いずれも二人ともかなり若い印象だ。

 チコは慌てて怒気を抑え、二人に向き直り、

「この度はご愁傷様です。二三伺いたいことがあるのですが……」

 赤い顔のままそう答えた。



 3、

「先生ー、チコさんがやり手って情報、本当なんですか?なんか結構適当に捜査してますよね?」

 大きな木製扉の前、鯉が俺に小声で耳打ちする。

「どうやら情報が間違っていたようだな。恐らく何かと聞き間違えたんだろ。やり手じゃなく、やり投げとか……やり……やり……まあいい。ともかくこのままだと俺が犯人に仕立て上げられかねん。どうやら俺達が真犯人を見つけ出すしかないようだぞ。鯉、お前はこの屋敷の出入口の情報を集めろ。外から侵入が可能かどうか。そしてこの屋敷に出入りした人間とその時間を調べろ」

「了解ですぅ」

 鯉は面倒くさそうに答えて、小走りに駆けていく。

 直後、後ろの方でチコがジャネットとジェイムズの二人に対して質問を始めたので、俺はその三人の元へと身を寄せた。

「ジャネットさん。エイブラハム・ホーカーさんは誰かに恨まれていたようなことはありますか?犯人に心当たりは?」

「恨みですか……ええと……」

 ジャネットが口ごもる中、

「ジェネティックの前社長は父の敵対的買収工作によって首になったから恨んでいるだろうな。カリフォルニアのサン・メディカルは特許関係の訴訟で倒産に追い込んだ。他にも死ぬほど恨んでいる人物と言えば、ワシントンの……」

 ジェイムズは淡々と、まるで出席名簿でも読み上げるかのように、恨みを持った人物達の話を語り続ける。そのうちチコのメモが追いつかなくなったので、チコはそのメモを取るのを諦めた。

「それで……その中でこのパーティに招待された人はいますか?」

「まさか。そんな連中、呼ぶわけないでしょう。このパーティに呼ばれたのは父と関係が良好な人達だけですよ」

「まあ、そりゃそうですよね……一応の確認なんですが、ジャネットさんとジェイムズさんがこの屋敷に入った時刻と出た時刻を教えてください」

 ジャネットが先に口を開く。

「私がこの屋敷に来たのはパーティが始まる七時の少し前です。私は次の予定がありましたので、挨拶だけを交わして三十分程度で屋敷を後にしました」

 ジャネットの首元ではシルバーの首飾りが鋭い光を放っている。指には一般人ならば気後れするほどの大きなダイヤの指輪がはめられているのが見えた。ジャネットの身長は百五十センチ程度の小柄なので普通ならばその指輪は嫌味にも思えるところだが、それをまったく感じさせないのは着こなしの妙だろう。彼女はいかにも社交慣れしている人物のように思えた。

「まあ僕も同じくらいだな。この屋敷に来たのは六時頃だったが、帰ったのは姉さんと同じくらいの時刻だ。ドアマンか誰かに聞いてくれれば証言してくれるはずだ」

 ジェイムズはジャネットの言葉に続き、素っ気ない様子で答えた。

 ジェイムズは紺色の高級スーツに身を包み、胸元にはチェーン付きで王冠を模したダイヤのラベルピンを身につけている。細かな小物もかなりの高級品なのだろうが、それらにもやはり嫌味がない。

 どうやら彼ら二人は俺達とは違う、所謂生まれながらの貴族という人種らしい。

 まあ、実は俺もラベルピンは一つ持っているのだが、どうにも俺がつけると滑稽に思えたので、引き出しの奥の方にしまっている有様だ。ジェイムズの姿を見て、こういう風に着こなしてみたいものだと、なんとなく思った。

「なるほど。ありがとうございます。後で話を聞くこともあると思うので、もう少しこの屋敷の中にいてもらってもよろしいですか?」

「ああ、構わないよ」

 現場から二人が帰った後、チコは俺に向かって嫌味な笑みを向ける。

「あの二人の証言の裏が取れたら犯人からは除外されるわね。ホーカーさんが殺されたのが午後八時。その頃には二人とも屋敷の外にいるんだから殺しようがないわ。さあ大変、どんどんあなたの立場が悪くなっていくわよ」

「そりゃどうも」

 チコの嫌味を受け流し、俺は再び展示室の中へと戻る。

 やはり気にかかるのはあの絵だ。

 俺は未だに裏返しになっている絵に視線を向け、思考を巡らす。

 ホーカー氏のあの呟き『死を招く』という言葉が現実のものとなってしまったわけか……。

 だが、そもそもあの言葉には一体なんの意味があったのだろうか?

 まさか今のこの状況を予感していたとでもいうのだろうか?

 尚もホーカー氏の言葉が気にかかる俺は絵を見つめたまま口を開く。

「なあ、一度この絵を元の壁にかけ直してもらってもいいか?」

「あなた、妙にこの絵にこだわるのね?別に何もないと思うけど。まあいいわ。ちょうど指紋を調べるところだったし」

 その場に居た鑑識が二人がかりでその絵を元の場所へと戻し、犯人の指紋が残ってないかを調べ始める。

「丁寧に調べてね。もしかすると、背が高くて短髪のギザギザ頭で口髭を生やしてて、評判の悪い探偵の指紋が出てくるかもしれないから」

 チコの嫌味に眉を寄せつつも、俺は内心ドキリとした。

 この絵が裏返しに落ちていた時、俺は不意にこの絵に触れてしまったりしなかっただろうか?

 もしもこの絵から俺の指紋が出てくるようなことがあれば俺の心証は相当に悪くなるだろう。下手をするとこれが証拠だと言われかねない。

 だが、

「指紋はないですね。拭き取られたような痕跡もないです。恐らく犯人は手袋でもしていたんでしょう」

 チコはあからさまに舌打ちをした。

「それで、どう?探偵さん。何かこの絵に変わったようなところはない?」

「変わった点ね……」

 直後、俺の視線はある一点に釘付けとなった。

「なんてこった。こいつは酷い……」



 4,

 屋敷の出入口を調べていた私はその内の一つ、屋敷奥にある出入口を見つけだした。

 だが、そこは屋敷のスタッフでかなりごった返していた。パーティ当時は恐らくこれ以上の状況だっただろうから、どうもこの出入口から忍び込むことは無理なように思われた。

「やあ、かわいらしいお嬢さん。迷子かな?」

 ウェイターらしき男性が現れ、私に実に失礼な調子で声をかけた。

「失礼な。迷子じゃないですよ。私は捜査の協力をしているんです」

「おっとこれは失礼。捜査の協力?本当かい?それで何を聞きたいんだい?お嬢様」

 まだ真に受けてない様子だが、いちいち反応するのも面倒くさいので質問を始める。

「この屋敷の出入口は表玄関を除くとここだけですか?」

「ああ、そうだね」

「例えば、この出入口を使って誰にも見つからずに出入り出来ると思いますか?それとも実際に誰かを見かけとか?」

「そりゃ無理だね。この出入口は厨房に近いからね。今日は特にスタッフでごった返していたから、誰にも見つからずに出入りするのは不可能だよ。特に怪しい人も見かけてないなぁ。それにそもそもその扉は鍵がかかっているからね。旦那様が相当に出入りに厳しいから、チーフの許可がない限り鍵を開けちゃいけないんだ」

「なるほど……」

『裏口から出入りするのは無理』

 私は手帳に簡単なメモを記す。

「他に何か気になったこととかありませんか?例えば、ホーカーさんが誰かと会っていたのを見たとか、聞いたとか……」

「変わったことねぇ……ああ、そうだ。旦那様が客と会うからコーヒーを用意してくれっておっしゃったんで、カップとコーヒーポットを運んだよ。誰と会ってたかは見てないけどね。部屋の前に置いといてくれって言われたんだ」

「客?ちなみにそれは口髭生えてる探偵のことじゃないですよね?」

「その人はパーティが始まる前に会ってた人だろ?その人じゃなくて、パーティが始まってから少し経った後のことだよ。パーティやってる最中に会うくらいだから密会だったのかもなぁ……おっとこれは言い過ぎたな。今のは内緒だよ」

「なるほど……」

『ホーカー氏、パーティ開始から少しの後、誰かと密会?』

 私がメモを取る中、ウェイターが顔を寄せ、小声で耳打ちをする。

「ここだけの話だけど、僕はあの探偵が怪しいと思っているんだ。だって、正直言ってこのパーティに来た他のお客とはあまりにも毛色が違い過ぎるだろ?なんというか無骨というか、血の臭いを感じるというか、泥臭いというか……。たぶんあの人が犯人だよ。ああ、これもメモしておいて。後できっと役にたつはずだよ」

「…………」

『探偵が犯人。匂いが臭い』

 私は一応メモを取る。

「本人に伝えておきます」

 と、言おうかとも思ったが、色々と揉めそうなので結局私はその言葉を飲み込んでその場を後にすることにした。



 俺が指さしたその絵を見た皆は唖然とその言葉を失った。

「こ、これってもしかして傷?絵に傷がついてるの?」

 その静寂の中、チコがやっと口を開いた。

 俺はその絵に刻まれた傷をジッと睨み付ける。

 その傷は絵の中央辺りから右下に走るように伸びている。

 傷自体は薄いが、画面を大きく横切っている為にかなり目立つ。

「結構酷い傷みたいだけど……この絵ってどれくらいするの?というかこれって誰の絵?」

「クロード・モネの睡蓮。恐らく百万ドル以上の価値がある。なんでもホーカー氏の子息以外には見せたことのない秘蔵中の秘蔵らしい。ひょっとするとまだ世に知られてない一品なのかもしれん。百万ドルじゃきかないかもな」

「ひ、百万ドル以上?となると私の給料の……えーと……二三が六で……繰り上がって……とにかく凄い金額!そんな絵に傷だなんて!」

 自分の絵でもないのにチコが頭を抱える中、俺は以前に見たモネの絵を思い起こす。

「俺がホーカー氏と共にこの絵を見た時には確かにこんな傷はなかったはずだ」

「じゃあ、この傷は犯人がつけたのね……絵を落とした時についてしまったのかしら?」

「まあその可能性が高そうだが……」

 そう答えつつもどうも違和感がぬぐえない。

 俺は壁に掛けられた絵を抱える真似をしてみせる。

「犯人はこうやって絵を抱えて……そしてそれを手から落とした」

 だが、その絵を落とす動作をしてみても、どうにもその傷のラインと合わないのだ。

 手から滑り落ちたのなら、その傷は大抵縦方向に走るはずだ。

 だが、絵についている傷は横方向に近い。

 たまたま絵を縦にした時や、片側から落ちた際についたとも考えられるが、どうにもそれらの傷とも合わないように思える。

「妙だ……どうやってこの傷はついたんだろうか……ん?」

 俺は再びその絵にジッと視線を向ける。

「な、何?また傷とか?」

 おどおどとチコが聞く中、俺は絵の額を指さす。

「この額の傷、これもなかったように思う……」

「本当?」

 俺の真横に近づき、チコもその傷にジッと視線を向ける。

 金属の額の左下辺り、斜めに入ったその傷は一センチ程度の大きさで薄く、余程に注意深くみないとわからないものだ。

「ほんとにちょっとだけなんだけどこの傷……これは初めからあったんじゃないの?」

「確かにそう言われると自信がない……絵は見ていたが額を見ていたわけじゃないからな……」

「なによそれ……まあいいわ一応メモしてあげる」

「絵に二つの傷か……どうやってこの傷がついたのか……。しかも額の方は素材が金属だ。薄い傷とはいえ、かなり鋭い物でこすらないとこんな傷はつかないはずだ」

「何かの道具が触れたとか?」

「まあともかく、これがきっと大きなヒントになる気がする。今はすべての要素がバラバラになっているが、それが一つにまとまるようなそんな答えが……」

 そう俺が呟いた直後、不意に展示室の外から明かりが漏れた。

 つかなかったはずの廊下の光が灯ったのだ。


 5,

 私がたどり着いた正面玄関は人でごった返していた。

 警察が屋敷を出る客をいちいち全部チェックしているから渋滞を起こしてしまっているようだった。

 それでも別に客はそれを迷惑がる様子もなく。尚も互いに顔を見合わせ、きっとホーカー氏は誰々に殺されたのだといった話で盛り上がり、このハプニングを楽しんでいる様子だった。

 お金持ちの人達も結局似たようなスキャンダルが大好きなのだろう。いや、或いはこういう人達の方が余計にそういった話に興味があるのかもしれない。

 私は人混みをかき分け、なんとか入口付近にいるドアマンの元へとたどり着く。

「あのすいません。屋敷に出入りした人のことについて聞きたいんですが……」

 だがそう問いかけても、そのいかにも堅物そうなドアマンは表情を少しも変えず、

「申し訳ありませんが、他のお客様のことを話すことは禁じられていますので。警察の方以外にはお答え出来ません」

 私を冷たくあしらう。

 私は思わず眉を寄せる。

 このタイプの人は一番扱いづらい人だ。さっきのウェイターの人のようにこっちが聞かなくても勝手にしゃべり出す人が一番楽なのだけど。この人は賄賂とかそういうものにたなびく様子でもないし、どうしたものか……。

「実はチコ・フィオレンティーナという警官の人に頼まれたんですよ。ほら、赤毛を後ろでまとめている女刑事さん。皆手一杯だから、代わりに確認して欲しいって言われたんです。実は私、一応これでもこの事件に関わっている探偵の助手でして……。話して貰えませんか?」

 そう言ったのだが、私が若すぎる為に信用してないのか、

「申し訳ありません」

 ドアマンはただ無表情に繰り返すだけだ。

 このままでは埒が明かないと思った私は、仕方ないのでちょっとした一計を案じることにする。

「じゃあ、ちょっとあの警官さんに許可を貰ってきますから。見ててください」

 そう言って一度ドアマンの元から離れ、人の整理をしている警官の側に近づき小さく声をかける。

「すいません。トイレどこか知らないですか?今にもオシッコ漏れそうなんです……」

「トイレ?さあ、ここの屋敷のことはよくわからないな。あのドアマンに聞いたらどうだい?」

 警官はドアマンを指さし、答えた。

 私はそのままドアマンの元へと戻り、

「見てましたか?あの警官さんも言ってましたよ。『僕が許可する。今、手が空いてる人がいないから君があのドアマンに話を聞いてくれ』って。ねぇ話して貰えませんか?」

 一連の動作を見ていたドアマンはそれでやっと私のことを信用し、

「そういうことでしたら……」

 出入りした客のことを話し始めた。

 …………

 大半の客はパーティ開始前に屋敷に入った人間がほとんどで、後は数名が遅れて入場したとのことだった。逆に途中で屋敷を後にしたのは数人で、その内の二人がジャネットさんとジェイムズさんの二人だということだ。

「ジャネット様はパーティの開始少し前、ハイヤーでお越しになられました。早めにご到着されたジェイムズ様は、御自分で中庭に車をお停めになられたようです」

「他に何か気になった点とかありませんでしたか?例えば誰かが喧嘩しているのを見たとか?」

「特におかしなことはございませんでした」

「事件と関係なさそうな些細なことでもいいんですが……」

「そうですね……ジェイムズ様が帰り際、携帯に向かって酷く声を荒げているのを見かけましたが……内容まではわかりかねます」

「なるほど……」

 私は一応その証言をメモに書き留める。

 だが、これは証言としては大した内容ではない。

 うむー……これはちょっとまずいことになった。

 と、私は思った。

 あまりにも犯人を絞り込める要素が少ないのだ。

 言ってみればこのパーティに参加した全員が多少怪しく、全員が無関係のような酷くモヤッとした状況。たったこれだけの情報では犯人を絞り込みようがない。

 勿論、あの展示室の方で何か凄い発見でもあれば別だろうが、どうにもそれも望めない気がする。この状況だと、先生が犯人として逮捕されてもおかしくはないのかもしれない。

 ここからの逆転満塁ホームランは相当に難しいように思われた。

 私は玄関から展示室へと歩を進めながら、

 刑務所への差し入れってどうやるんだろ?まあでも、刑務所には知り合い多そうだし、寂しくないか……うん、きっと大丈夫。

 と、ポジティブに考えることにする。

 展示室の前の廊下にたどり着くと、未だに警察の人達が明かりのつかない照明に四苦八苦している様子だった。

 皆、配線がどうとか、漏電してるだの言って頭を悩ませている。

 その時、私はあることをひらめき、そのつかない照明に手を伸ばす。

 直後、その廊下の照明が灯った。



 ずっと消えていた廊下の明かりが灯ったことに驚き、俺達はその廊下へと飛び出す。

 廊下には照明に手を伸ばしていた鯉の姿があった。

「鯉、お前がこの明かりをつけたのか?」

「ああ、別に大したことじゃなかったんですが……どうもただ電球が緩めてあっただけみたいですよ?」

 鯉はそう言って、もう一つの電球を同じようにくるくると回すと、同じように明かりが灯る。

「なんだ、そんな単純なことか……」

 だが、そのあまりの単純さ故に皆は無駄に頭を悩ませ、解決から離れてしまっていたらしい。

 スイッチの近くで、漏電だのブレーカーが落ちてるだの、あれやこれやと頭を悩ませていた刑事や鑑識は、その恥ずかしさを紛らわすかのように蜘蛛の子を散らすように去って行った。

「えーと……じゃあつまり、この電球を緩めたのも犯人がやったってこと?ねえ、池田さん、なんでそんな意味不明なことしたの?」

 チコの嫌味を無視し、俺は思考を巡らす。

「犯人は何かを見せたくなかった?例えば殺害現場を見られない為に……いや、さすがに殺害前に一つずつ電球を緩めるようなマネは馬鹿馬鹿しすぎる。じゃあいつ電球を緩めた……殺害後?それもおかしい、そんなことをする暇があるのならそのまますぐ外に逃げた方がいいはずだ」

 考えを巡らせていた時、チコが最後に残っていた電球を回し、光を灯す。

 その瞬間、まるで俺のひらめきが灯ったかのようにある一つの解答が脳裏を駆け巡った。

 そうか……それならすべてのつじつまが合う。

 直後、チコの携帯が鳴り響く。

「はい、チコ。ああ、正確な検視の結果が出たのね……え?それってほんと?なんでそんなことが……」

「ホーカー氏の死体から睡眠薬の成分が検出された。そうだろ?」

 電話の途中で割り込んだ俺の言葉にチコは驚きの表情を向ける。

「な、なんでわかったの?」

「その理由は後で話す。鯉、調べた結果はどうだった?」

「特にこれといった収穫はなかったですけど……」

 鯉は申し訳なさそうに言って、その調査結果を伝える。

 その鯉の証言で俺は更にその推理に確信を持った。

「ああ。どうやら、これで決まりのようだ。犯人がわかった」

「え?ちょ、ちょっと待って、こんな話で本当に何かがわかったの?あなたが犯人でないのなら、一体だれが犯人?だって無理でしょ?大した証拠も何もないのよ?」

「いや、一つだけ決定的な証拠がある。だが、それは恐らく今、非常に危うい状況にあるんだ。早く、あの二人をここに連れてきてくれ。ジャネットとジェイムズの二人だ。だが、ただ二三聞きたいことが出来たと軽い調子で呼び出してくれ。くれぐれも慎重にな」

「あなたは……もしかして、あの二人の内のどちらかが犯人だと考えているの?」

「ああ、そうだ。すべては全員が揃った後に話す」

 俺の言葉に皆は唖然と言葉を失う。

 それもそうだ。一見するとこの事件には何も決定的な証拠がないように見える。

 だが、そうではないのだ、始めからこの場所は重要な証拠で満ち溢れていたのだ。

「やはりあの絵がキーポイントだったか……」

 俺がポツリと呟いたその言葉も、唖然とする皆には届かない様子だった。



 6,

「お忙しいところお呼び立てしてすいません……本当にすいません……」

 チコはぎこちない様子でジャネットとジェイムズの二人を連れ、展示室真向かいの応接室の中へと現れた。

 チコは未だに俺のことを信用していないらしい。もしも俺の推理が的外れだったのなら、この二人に酷い迷惑をかけることになり、警察に苦情が行くことになるだろう。当然、チコの立場も危うくなる。それを恐れているのだ。

「失礼。俺の名は池田戦。どうしてもお二人に聞きたいことがあってね。ホーカー氏の殺害の状況、それを確認して貰いたいんだ」

 二人は俺に怪訝な表情を向ける。

「池田さんというと……父の絵を取り戻したというあの探偵の?何故、私達が殺害の状況を確認する必要があるんですか?」

 ジャネットが問いかけ、

「この探偵はきっと俺達のことを疑っているのさ」

 ジェイムズが皮肉げに呟く。

「まあまあ、お二人はこの屋敷の構造にも詳しい。この俺の推理が当たってるかを確認して欲しいってだけですよ」

 俺は軽い調子で答えて、話を続ける。

「じゃあチコ、既にこっちの準備は整えてある。お前が死体役だ。よろしく頼む」

「わ、私が死体役?」

 チコは動揺した素振りを浮かべるが、今更引っ込みもつかず渋々その役目を負う。

「まず、誰かと密会していたホーカー氏はその密会相手……犯人によって睡眠薬を飲まされ昏倒させられた。さあ、チコ、昏倒しろ」

「うう……ああ眠い……」

 下手くそな演技と共に、顔を真っ赤にしたチコがカーペットの上に倒れ込む。

「その後、犯人はホーカー氏の身体を扉の近くまで運び、横たえた。そして長いロープをホーカー氏の首にかけ、それを展示室へと向かって伸ばした」

 そのロープは別段変わりのないものだが、中頃で輪になった結び目を作り、そこにロープを通し、更に大きな輪を作ったものだ。

 その輪をチコの首へとかけ、俺は僅かに開けた扉を抜けて廊下を横切り、展示室の格子の隙間からロープの両端を外へ落とす。

 そうした後、俺は皆が待つ書斎の中へと戻った。

「このようにロープの両端を展示室の外、中庭へと落とした。そして犯人は外から自らの手でこのロープを引いたんだ」

 俺の言葉と同時に外で待機していた鯉がロープを引く。

 ロープは展示室と廊下を貫く形でまっすぐに伸び、扉に寄りかかっていたチコの首を絞める。内開きの扉と壁がチコの頭と身体を支える形になり、ロープはチコの首に食い込む。

 首を絞められたチコは苦しさのあまり、激しく扉を叩いた。

「鯉、もういいぞ。これ以上やると扉が傷む」

 鯉に呼びかけ、ロープを引くのを止めさせる。

 チコが首を押さえて激しく咳き込む中、中庭にいる鯉はそのロープの一方だけを引き、それを回収していく。結び目がある方のロープを引くことによってロープはすんなりと回収することができるのだ。

 すべてのロープを回収し終わった後、不意にチコの身体が後ろに寄りかかり、その扉を完全に閉める形になった。

「実際にもこれと似たことが起きたはずだ。扉に寄りかかった死体が自然と扉を押し、扉を完全に閉めた」

 俺はそうやって一連の推理を披露したものの、辺りの皆はただ呆れたような表情を浮かべているだけだ。

 チコなど顔を紅潮させ俺を睨み付けている有様だった。

 ジェイムズは大きなため息と共に口を開く。

「おいおい、なんだ。まったくわけがわからんな。確かにこうやれば実際に首を絞めて殺せるかもしれないだろう。だが、なんで犯人はこんな馬鹿みたいな回りくどい殺し方をする必要があったんだ?どう考えてもまったくの無意味だ。馬鹿馬鹿しい」

「このトリックは犯人のアリバイ工作だったんだよ。今は実演の為に実際にすぐにそのロープを引いたが、実際にはホーカー氏の首にかけられたロープは数十分の後に引かれたんだ。その為、犯人は廊下の電気をつかないようにした。他の誰かが廊下に伸びているロープを発見しないようにする為にだ」

「アリバイ工作だと?」

「屋敷の外に出た後、ホーカー氏を殺害すれば、その犯人は容疑者から除外される、それを狙ったんだよ」

「池田さんは……もしかして私達を疑っているんですか?」

 ジャネットが悲しげに呟く。

 その場の皆の不信は高まり、俺に対して敵意にも似た感情が向けられる。

 確かにこれだけの話では実に荒唐無稽で理にかなっていない。それは俺も理解している。

 俺はジャネットの問いかけに答えることもなく、扉を開ける。

「さあ、次は展示室だ。実はここまでの話はあまり重要じゃない。実は犯人の目的はホーカー氏殺害にはなかった。犯人の目的は別にあったんだ」


 7,

 皆が展示室へと移った時、ジャネットとジェイムズの視線が壁際の絵に向けられ、二人の顔に怪訝な表情が浮かんだ。

 あの絵が裏返しにされ、壁に立てかけてあったからだ。

「チコ。やはり俺の記憶は正しかった。この絵の額についていた傷、それは以前俺が見た時にはなかったものだ」

 チコが半信半疑といった表情を浮かべる。

「本当に?記憶違いとかじゃなくて?もしかして……あの小さな傷があなたの言う決定的な証拠なの?だとすると……その傷はどうやってついたの?」

「どうやってその傷がついたかだと?」

 俺は少し頭を悩ませた後、

「さあな?流石にそこまではわからんな。どっかの親父が家具か何かをぶつけたとか……まあ大方そんなところなんじゃないか?」

 軽い調子で答える。

「い、池田……あ、あんた自分が何言ってるのかわかってんの!」

「おい、なんだ、お前ふざけてるのか!これ以上の無礼は許さんぞ!」

 チコとジェイムズがほぼ同時に怒声をあげる中、俺は今にも飛びかかってきそうな二人を手で押さえ、話を続ける。

「ああ、悪い。言い方が悪かった。あの額の傷がどうやってついたかは重要じゃないんだよ。『なかったはずの額の傷が増えたこと』その現象自体が重要なんだ。いいか?チコ。前にも言ったとおり、この額の素材は金属製だ。こんな傷、余程なことがない限りつくはずがない」

「はあ?」

 チコはまだ理解出来ないといった様子で睨み付ける。

「実は、やっと今になってその重要な事実に気づいたんだよ。この額からは確かに犯人の指紋もそれ以外の人物の指紋も検出されなかった。だがそれ自体が異常だったんだ。何故なら俺は、はっきりとホーカー氏がこの額に触れたことを記憶していたからだ。この額からホーカー氏の指紋が出てこないことはあり得ない。そして、以前にはなかった額の傷が増えたこと。それらの条件を考慮するとこう推測できる。つまり……『この絵は額ごと贋作にすり替えられていた』と」

 それまでただ顔を真っ赤に染めていたチコの表情がやっと変わった。

「す、すり替えられていた?偽物に?」

「それこそが犯人の真の目的だ。犯人の目的はモネの睡蓮を盗み出すことにあったんだ。さっきロープを使っただろ?あれはただホーカー氏の首を絞める為だけに使ったわけじゃない。絵にロープをかけ、格子の隙間から中庭に降ろすことにも利用したんだ」

「絵を降ろす為?」

「ああ、絵をすり替えるには、時間的余裕から考えて額ごとすり替えた方が現実的だ、恐らく額に傷がついていたのは類似品をそのまま流用してしまったせいだろう」

「ま、待って。でもそれならこのパーティに招かれた客なら誰も同じことが出来たんじゃないの?どうしてこの二人が容疑者に……あっ……」

 二人を容疑者として疑っていることを漏らしてしまったチコは慌てて口を塞ぐ。

 始めからこの段階でそれを明かそうとしていた俺は別段気にすることもなく、ジャネットとジェイムズに向かい口を開く。

「いや、この絵が精密な贋作にすり替わっていたのならば、それが出来る人物は極一部に限られる。何故ならばホーカー氏曰く、『今日までこの絵は自分の子供達にしか見せていない門外不出の絵だったからだ』つまり贋作を用意出来る機会があった人間はこの二人しかいないんだよ。ああ、そうだ。俺はジャネットとジェイムズ、あんた達二人を容疑者として考え、この話をしている」

 ジャネットとジェイムズの顔がサッと青ざめた。

「馬鹿な……こんな出鱈目な話。よくもまあ考えつくことができるもんだな。姉さん心配することはない。どうせ証拠なんてないんだ。俺達の疑いはすぐに晴れるさ。そうした後、この探偵を名誉毀損で訴えれば良い」

 ジェイムズはキッと俺を睨み付け、

「覚悟しろよ。探偵」

 凄んだ。

 ジャネットの方はただ呆然とその視線を宙に向け、言葉を失っているだけだ。

「証拠……そう証拠だ。まあ、それが一番の問題だった。ここまではなんとか推理を進めることが出来た。だが、最後の一手にどうしても到達出来なかった。決定的な証拠がなかったんだ。だが、犯人は最後の最後にたった一つ、『決定的なミス』を犯していた。そして今もその証拠はこの場所に残っている」

「ちょ、ちょっと待って、ミス?そんなものがどこに?」

「犯人は最後の仕上げとして贋作の絵をこの展示室の中に戻す必要があったことはわかるな?それもわざと大きな音が立つように乱暴に投げ入れる必要があった」

「乱暴に……?あっ」

「そうだ、屋敷を出た時刻を印象づけた犯人にとって、ホーカー氏の死体は自分に都合がいい早いタイミングで発見してもらう必要があったんだ。死体が発見される時刻が翌日にでもずれ込めば、死亡推定時刻に幅が生じ、犯人のアリバイが成立しなくなってしまうからだ。その為にわざと絵を乱暴に投げ入れ大きな音を立てた。屋敷にいる人間に異変を気づかせるためにだ」

「展示室の扉が半開きだったのもその為……」

「ああ……そしてその乱暴に投げ入れるという行為が、結果的に『決定的なミス』を生じさせた」

 俺の合図と共に、その場にいた鑑識の二人が、壁に立てかけられた絵を表向きに戻す。

 皆の視線がその絵に向かって集中する。

「そうだ!この贋作の絵についた傷。真ん中から斜め右下へと伸びるこの傷。この傷はいつの時点でついたのか!乱暴に投げ入れるという行為がもたらしたこの傷は一体、!さあ、これで皆もわかったはずだ!」

 直後、その場に居た一人の顔がサッと青ざめ、その手が胸元へと伸びた。

「動くな!」

 その瞬間、俺はその場の皆が硬直するような大声を張り上げた。

 皆の動きがそれによって停止した後、俺はチコに向かって口を開く。

「チコ。ジェイムズの胸元だ。そこにあるラベルピンにこの絵の顔料が付着しているはずだ」

「え……ラ、ラベルピンに……?」

 チコは慎重にジェイムズの元へと近づき、その胸元のラベルピンにジッと視線を向ける。

 チコの額に汗が滲んだ。

「た、確かについているわ。緑色の顔料が……え、絵を投げ入れた時にこのラベルピンが顔料を削ったのね……」

 俺はジェイムズへと視線を向け、口を開く。

「この特異な展示室の構造と状況も一因ではあったが……最終的にはその伊達な服装が仇になったようだな。ジェイムズ」

 俺の言葉の後、チコはジェイムズへと鋭い視線を向けた。

「ジェイムズさん。何故、胸元のラベルピンにこの顔料が付着しているのか?それに対しての納得できる説明をお願いします」

「それは……うう……」

 しばらくその答えを模索しようとしていたジェイムズだったが、やがて観念したのかその肩を落とし、震える唇で語り始めた。

「……お前達にはわかるはずがない……これは何も問題がないことだったんだよ。父を殺すことも、そして絵を盗み出すことも、何も問題がないことのはずだったんだ……」

「ジェ、ジェイムズ……あなたなんてことを……どんなことがあろうとも自分の父親を殺すなんて許されるはずないわ!」

 ジャネットが真っ青な表情で叫ぶ中、俺が口を挟む。

「『何も問題がないことのはず』か……ただ一点、その点が最後までわからなかった。流石に自分の肉親を殺すにはそれを強烈に後押しする強い理由が必要だ。そこで、こいつは俺の推測なんだが……ひょっとしてホーカー氏は既に余命宣告をされていたんじゃないか?恐らくその病気は肺癌」

 ジェイムズは俺の言葉にハッと目を見開き、驚きの表情を向ける。

「お、お前は……何故そんなことまでわかるんだ……」

「ホーカー氏がポツリと呟いた言葉がずっと気に掛かっていてね。『この絵は死を招く絵画でもある』……という言葉、そしてあの咳き込み。今になってやっと思い出した。モネは毒性の高い顔料を使うことが多いことでも有名だったが、その中でも特に強烈だったのが、パリスグリーンだ。これはある種のカビと反応することによってヒ素化合物を空気中にまき散らし、ヒ素中毒による肺疾患を引き起こすことで結構な問題となった顔料だ。……とはいえ、当時、パリスグリーンが問題になったのは大量に使用され、カビが生えやすかった壁紙での話でだ。この絵程度の量では健康を害する程のヒ素が出てくることはまずない。だが、恐らくホーカー氏は己の病気とこの絵を結びつけてしまったんだろう」

 ジェイムズは真っ青な顔のまま頷く。

「ああ、その通りだよ、探偵……父の余命は残り半年と宣告されていた。そして、あの絵だ。父は己の死があの絵によってもたらされたと考え、最期までこの絵と共に運命を共にするつもりだったんだ。わかるか?父の残した馬鹿げた遺言が。父はあの絵を一緒に自分を火葬するようにと手配していたんだ。そんな馬鹿げたこと……あの素晴らしい絵を灰にするなど、許されることじゃない!」

 ジェイムズは自らのしたことを肯定するように叫ぶ。

 恐らく当初、ジェイムズはホーカー氏を殺害するつもりはなかったのだろう。始めは絵を贋作とすり替えてしまうことだけを考えていたはずだ。

 だが、ジェイムズは難題に直面する。

 厳重に管理し続けられているこの絵をすり替え、そのことをホーカー氏に気づかれてはならないという難題。ホーカー氏は長年この絵を見続け、自らの手でこの絵を探し当てた程なのだ。贋作は一瞬の内に看破されるだろう。ならばどうするか?

 その間も準備は着々と進み、後戻りが出来ない状態に陥る。

 悩みに悩んだジェイムズに悪魔がささやきかける。ホーカー氏の馬鹿げた遺言、そして余命宣告。それらの二つが彼の背中を押した。

 この殺人は罪ではないと。

「僕はむしろ皆の為にこれを行ったんだ。この世界に素晴らしい絵が残り、そして父は病気によって苦しむことなく楽に死ぬことが出来る。これは罪じゃない。お前が……お前が余計なことさえしなければ!すべてはなんの問題もなく正しい方向に進んだんだ!お前さえいなければ!探偵!」

 ジェイムズは絶叫し、俺に向かって飛びかかる。

 だが、俺が反射的に身構えた直後、ジェイムズの身体はその場で半回転し、地面へ叩きつけられた。

 チコが見事な大外刈りでジェイムズを投げ飛ばしたのだ。

「ジェイムズ・ホーカー。あなたには黙秘権がある。あなたの証言することは法廷で不利に扱われる可能性がある。あなたには弁護士を呼ぶ権利がある。もし自分で弁護士に依頼する経済力がなければ……いや、さすがにこれは必要ないか……」

 チコはミランダ警告を述べながらふうと息を吐き出し、己の襟を整える仕草をしてみせた。

 なるほど……。

 その時になってやっと理解した。

 チコの本領が発揮されるのはその頭脳ではなく、肉体だったのだと……。



 8,

 後日、ホーカー氏殺害事件の処理が一段落ついた頃、チコがウチのオフィスへと訪れた。

「少し聞きたいことがあったんだけど……池田さんはジェイムズじゃなくて、ジャネットさんが犯人だとは思わなかったの?」

 チコはソファへと腰を下ろすのと同時、開口一番、問いかける。

「まあ、実は俺もその可能性は考えた。だが、ジャネットの身長は五フィート(約百五十二センチ)もないくらいだ。その身長だとあのでかい絵を抱えるのはかなり難しいし、更にそれを抱えて窓から投げ込むのはもっと無理だ。それにジャネットはハイヤーであの屋敷に訪れていたからな。すり替えた絵を車に乗せる場合、そのハイヤーの運転手が共犯である必要がある」

「なら、別の人物との共犯の可能性は?」

「わざわざあそこまで面倒なトリックを使って自らのアリバイを作る必要があったくらいだ。共犯者の可能性は初めからかなり薄かった。共犯者がいたのならもっとスマートなアリバイ作りができただろうしな。犯人は門外不出の絵を扱うことから考えて、できるだけ関わる人間を少なくしたかったはずだ。関わったのはせいぜい贋作作りに協力した画家くらいのものだろう。なので共犯の可能性もなし。従ってジャネットは犯人から除外される」

 俺の言葉の後、チコはジッと宙を見つめ思考を巡らす。

「なるほど……一応全部ちゃんと考えてたのね。あの……私、池田さんのこと勘違いしてたかもしれないわ。あなたはそんなに悪い人じゃなさそうだし。推理もちゃんとしてたし……その……ごめんなさい……犯人扱いしちゃって」

「まあ気にするな」

「あ、そのラベルピン似合ってるわよ」

 チコはとってつけたようなお世辞を言ったが、そうわかっていても悪い気はしないものだ。

 俺は長年引き出しの奥で眠っていた胸元のラベルピンに触れながら、これからもこいつをつけ続けてみようか……そんなことを思った。

「お前の大外刈りも様になっていたぜ」

 そう俺が返すとチコは頬を赤く染めて、照れくさそうに自分の頭を掻いた。

「いやー照れるなぁ」

 と、そんな具合に雰囲気が良くなったところで俺は一枚の紙を机の上に滑らす。

 チコはその紙をなんなのかまったくわからないといった表情で見つめ、ぽかんと口を開いた。

「なにこれ?」

「今回の事件のコンサルタント料の請求書だ。多少まけてある」

「いやいやいや……だって池田さん、勝手に推理してただけだし、ウチも正式に依頼したわけじゃないし……こんなの経費で落ちるわけないでしょ」

 俺はあからさまに舌打ちをした後、その請求書を丸めてゴミ箱に放り込む。

「まあどうせ、そう言うだろうとは思っていた。いいだろう。今回は特別にタダにしてやる」

 チコも多少気が引けるのか、一応、顔に申し訳なさそうな表情を浮かべる。

「ごめんね?今回ので表彰とかされるかもしれないからそれで我慢して」

「そんなもんいらねぇよ……まあいい。だがこれは払ってもらうぞ」

 俺は胸ポケットの中からもう一枚の請求書をとりだし、それをチコへと手渡す。

 怪訝な表情でそれを受け取ったチコだったが、その内容を見るとみるみるうちにその顔を紅潮させた。

「か、賭けの代金百ドル?な、なによこれ」

「なによこれ、じゃないだろ。お前、俺と賭けしただろ。俺が犯人じゃなかったんだから、ちゃんとその金払ってもらうぞ」

「あれは……その……売り言葉に買い言葉というか……え……これ本当に払うの?」

「賭けは絶対だ。あれだけ大口叩いたんだから払ってもらうぞ」

 俺が睨み付けるような強い視線を向け、チコは渋々鞄の中から財布を取り出す。

 チコはレシートやらクーポン券やらが入りまくっている異様に分厚い二つ折り財布の中をまさぐり、その顔をしかめた。

「うう……五十ドルしかないわ」

「俺が言ったとおりじゃねぇか、貧乏人め……。まあいい、特別にまけてやる」

 俺は片眉を下げ、呆れた表情を浮かべながら、その五十ドルをひったくる。

「あっ……わ、私まだお昼ご飯も食べてないんだけど……お金ないんだけど……」

「なんだお前、まさかカードも止められてるのか?どんな貧乏人だよ……。まあともかく、諸々含めてお前の勝手だ。一食くらい抜けばいいだろ」

「じ、慈悲はないのかー!この馬鹿ー!」

「馬鹿って言った奴が馬鹿なんだよ」

 チコはギャーギャーと文句を垂れ流す。

 そしてオフィスを去る間際、

「前言撤回!やっぱりここは最低の探偵事務所だった!そのラベルピンも凄くダサい!」

「そいつはどうも、これからもオフィス『旅の道』をよろしく」

「二度と来るか!ばーか!」

 ガキのような調子で言い捨て、チコはオフィスの扉を強く閉める。

 外階段をドタドタと降りる音が響いた後、オフィスの中はまるで嵐が去ったような静けさに包まれた。

 そんな中、一連の様子を見ていた鯉が、

「そんなんだから先生モテないんですよ」

 呆れた様子で呟いた。

「おいおい、お前、そんなこと言っていいのか?こいつで旨い昼飯でも食べに行こうと思ったんだがな?」

 俺は手に入れたばかりの五十ドルをヒラヒラとはためかせる。

「あ、本当ですか。先生、男前だなぁ、モテるなぁ。大好きー」

「調子のいい奴め……まあいい、じゃあ行くぞ」

 俺はオフィスを出る前に思い直し、胸元につけたラベルピンを外して机の上に置く。

 そして、俺達は強い日差しが射す、ニューヨークの街へと繰り出していった。



 …………。

 後日。

 盗み出されたモネの睡蓮は無事発見された。

 ホーカー氏の遺言は無効とされ、遺産を相続したジャネットの意向によってその絵はニューヨークのメトロポリタン美術館へと寄贈された。

 南側二階。

 永らく衆人の目に触れることのなかった『死を招く絵画』は、その悪名を消し去り、そこで今も尚、当時と変わらぬ美しい色彩を放ち続けている。



                       「死を招く絵画」   了

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死を招く絵画 鬼虫兵庫 @ikedasen

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