第10話 理を統べる者
打ち付ける雨の音がかき消された。巨獣の口から生じた雄叫びは周囲の音全てを塗りつぶし、全ての人を己へと仰ぎ見させる。山の王者として、高い場所から炎の巨獣は人間たちを見下ろしていた。
「……あれが、この山に巣食う人喰い
エニフが槍を構えた。盗賊の集団を相手に顔色一つ変えなかった彼女にもさすがに緊張が走っていた。
「おいおい、想像していたのよりもよっぽどでけえぞ。ありゃ小さい
ジュバも、さすがにこれほどのサイズの魔物を見るのは稀だ。剣を握る手に汗をかいていた。
「……“魂喰い”の影響だな。いったいどれだけの人間を食ったというんだ」
イザールも戦慄する。だが、もとより
「シャアアアアア!」
再び
「……ちっ、こっちを見やがった!」
その視界にとらえたのはバーダンの盗賊団だった。スピカという怪物を前に恐怖に怯え、へたり込んでいる男たちはあまりにも仕留めやすい獲物に見えたことだろう。
「てめえら、退け。喰われるぞ!」
バーダンをはじめ、盗賊たちが逃走を始める。その動きを見た
「ひ、ひいっ!?」
崖の急な斜面を伝い、それが盗賊たち目掛けて速度を上げながら一直線に下りてくる。既に狙いは定まっていた。
「ちっ、あの馬鹿ども!」
「うわああああっ!」
恐怖のあまり逃げることすら忘れ、男たちは目を覆う。地に降り立った無慈悲な暴虐がその牙で彼らをとらえようと迫る――。
「させるか!」
だが、その前に飛び込んだアルトが男たちを突き飛ばす。その直後、しゃがみ込むアルトの頭上で
「冗談じゃねえ、これ以上でかくなられてたまるかっての。おい、早く逃げろ!」
「ひ、ひいいっ!」
盗賊たちは頭を抱える。恐慌状態でその場から動けない。
「ちくしょう、やるしかねえってのか!」
アルトが剣を抜き、頭上の火蜥蜴の顎目掛けて切り上げる。だが、その皮膚を覆う鱗の前に刃はいとも簡単にはじかれた。
「硬ってえ!?」
「
バスタードソードやグレートソード、ウォーハンマーやメイスなどを携えた傭兵を連れ、イザールが駆けつける。他の傭兵たちは鎖を首や足に放ち、一斉に引いて
「エニフ、俺たちも行くぞ!」
「あいよ、手荒い歓迎のお返しだ!」
拘束から逃れようと激しく抵抗する
「手を休めるな、攻撃を続けろ!」
体内にダメージは蓄積されていく。それにより弱って動きが鈍くなる瞬間をイザールは待つ。いかに巨大な魔物と言えど生物。耐久に限界はあるのだ。
「シェギャアアアア!」
雄叫びを上げて首を振る。体にまとわりついた不快な代物を解こうとする
だが、降り続く雨でぬかるむ地面と
「いかん!」
自分を縛る力が弱まってきたことを知った
「うおっ!」
本来の
着弾した地面が爆ぜる。砕けた岩が飛び散り
「退け! 一度体勢を立て直すぞ!」
「待ちな、イザール。まだ依頼人たちが!」
エニフが馬車の方を指し示す。ハマルとポーラがいまだにそのそばで
「どうしてまだ逃げていない!?」
ポーラが必死に父親に逃げるように促している。だが、ハマルは右足を押さえて立ち上がることができないようだった。
「馬車が倒れた時に怪我をしたのか」
「おいまずいぞ。もうこれ以上、
遂に
「やばい!」
ハマルたち父娘を視界にとらえたのを察知し、アルトが走り出す。
「うわっ!?」
目の前に炎の壁が立ち上がり、アルトは驚き足を止めてしまった。それは、あまりにも致命的な瞬間だった。
「シャアアアア!」
涎と炎を撒き散らし、
「逃げなさい、ポーラ!」
「やだ、お父さんも一緒!」
「くそっ、ハマルさん、ポーラちゃん!」
全身から炎を撒いて巨獣が駆ける。通ったその場所は赤く燃え上がり、曇天で薄暗い中を煌々と照らす。
「……させない」
だがその時、父娘と魔物の間に割って入るものがあった。スピカがゆっくりと歩を進め、彼らを背に立ちはだかる。
「スピカ!?」
「まだ逃げてなかったのかい!?」
「シャアアアア!」
俯くその表情はうかがい知れない。だが、人を丸呑みできるほど巨大化した
「死ぬ気か嬢ちゃん。そこから離れるんだ!」
「逃げない……もう二度と逃げたりなんてしないから」
それは、誰に向けて告げた言葉だったのか。火に包まれた場所。倒れる人々。目の前には顎を開いた巨獣が迫る――その何もかもがあの日に似て。
「……違う」
アルトは直感した。死ぬ気など微塵もない。スピカは立ち向かう気なのだと。勝算のある行動なのだと。だが、彼女の怪力だけでは鋼の刃をもはじき返す
「もう目の前で、誰も殺させない!」
魔物をも殺せる力を使うということ。
「まさか!?」
スピカが右手を掲げる。握るその手は力強く。高らかにその言葉を告げる。
「――
彼女の身に宿る魔力が
そして魂を喰らい、世界中の人々に忌み嫌われる存在となった人間のなれの果て。魔物を単独で殺すことができ、魔物以外に「化け物」と称されるもう一つの存在。
「魔法使い……っ!」
イザールが苦々しく吐き捨てる。
「‶水は凍てつき槍と降る″」
スピカが力を開放した。紋章から放たれた光は「青」、それが示すのは周囲に存在する水を操ることのできる水の魔法を司る証。
放たれた魔力が周囲の水滴の動きを掌握する。温度を支配して凍結させる。在り方に作用してその形状を変化させる。見る間に何本もの鋭利な氷柱がスピカの周囲に生成され、彼女が手を振り下ろすとともに一斉に射出された。
「シャアアアアア!」
「ギャアアアアアアア!」
だが、そんな炎をものともせず、氷は
魔力を受けた強靭な氷柱は鋼の刃も通さない鱗を難なく突破し、次々と氷の槍は突き刺さっていく。
「“水は逆巻き薙ぎ払う”」
紋章がさらなる光を放つ。雨水を集結させ、鞭のごとく周囲へと放つ。付近に巻き散らされた
「ガ……グオオオ……」
「……そうか、体温!」
エニフが思い至る。
「あいつは魔物とはいえ、蜥蜴の生態も備えている。つまり」
「体温が下がれば動けなくなるってことか」
「――
その言葉に応じ、再びスピカの紋章が強い光を放つ。雨、そして地面から水が集結して周囲にいくつもの水球を作り、高速で回転しながら円盤状にその姿を変えていく。
「“水は凍てつき刃と舞う”」
水の円盤が氷結する。縁は鋭い刃物と化して
「ガアアアアアアア!」
――天空に、燃える尻尾が舞い上がる。鈍い音を立てながらそれは地面に落ちた。バタバタと断末魔のように暴れ、泥水を盛大に跳ね上げる。そして、炎が消えていくにつれ、次第にその動きを止めていった。
「逃げるぞ!」
だが、その動きに気を取られていた間に
「……蜥蜴の尻尾切り」
命の危機に瀕した場面に行われる、蜥蜴が己の尻尾を切り捨てて外敵から逃れる行為。つまり、
「……」
右手の紋章が光を失っていく。そして、光が消えると、そこには何の痕も残さず、元の少女の手に戻っていた。
「お姉……ちゃん?」
「スピカさん……あなたは」
「あはは……バレちゃった」
魔法使いの少女は微笑む。いつもと変わらない優しい少女の表情なのに、どこか悲壮感を漂わせていた。
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