葬送

@Kmrmsz

葬送

 月明かりがうすぼんやりと路肩を照らしていた。街灯の極端に少ないこの道は、少し前に痴漢があったと騒がれていた。だけれど、特段気にすることはない。全部どうでもよかった。

 事件が起こるのも頷けてしまうような人気の無さ。ふらりと立ち寄った公園で、自動販売機の温いココアを買う。以前、ここの機械はどうかしていて、中の商品がほとんど温くなってしまっているんだ。そう、秘密みたいに教えてくれた人がいた。誰だったか、いや、まあ別に気にすることはないのだ。だってもう、あの人は。

 空を見る。まだ星は出ていなくて、昼に取り残されたかのように三日月がぽつんと浮かんでいるだけだった。手袋を外してカツカツとプルタブに爪を立てる。周りを見渡すと寂しいベンチが一つきり、虫の群がる街灯の下にひっそりと佇んでいた。そこだけが世界から浮いている。最近日が短い。ベンチに腰を下ろしてそっと瞼を閉じた。黒いジャケットに黒いスカート、このままじっとしていれば、黄昏の次に来る夜に、一緒に連れて行ってもらうこともできそうだ。いっそそうして欲しい。私をどうか、攫って行ってほしい。遠く、夜の向こう側まで。

 カポン。間抜けな音を立てて、短い爪でひっかいたプルタブが外れた。吐き出した息は白い。手袋越しじゃないココアの缶は、温かったはずなのに、火傷しそうに熱かった。

 ねぇ、何で死んだの。先生。

 鳴いているのは蛙ではなく蝉だった。

 昼食を終えて一番初めの授業、現代文。私は割とその教科が好きで、テストでもそこそこの点数を取っていた。友人たちはこぞってぐうすかと寝こけていて、私はその寝息をBGMに先生の声を聴く。浅野先生の声は渋くて、朗読なんてされた日には下手な子守唄なんかよりもずっと安眠できそうなくらい心地いい。今年三十路を迎えたという彼は、少し不愛想でとっつきにくくて、生徒からの評判はあまりよくない(テスト問題を小難しく作るところも原因の一つだろうと思われる)。だけれど、私はむしろ先生を好ましく思っていた。

 先生は、私の名前を間違えなかった。人として当たり前の行為であるだろう。人の名前を間違えるなんて普通に考えれば失礼以外の何物でもない。ただ、私に関していえば、初見ならほとんどの人に間違えられる面倒な名前を持っているために、「間違えられること」が当たり前になっていた。だからこそ、初対面で正しく「私」を呼んでくれた時に、私はとてもうれしくなってしまった。そのときから先生は私の中で、少しだけ変わった立ち位置にいる。

「この詩の作者は『蛙の詩人』とも呼ばれているそうです。さて、では彼はこの詩の中に蛙を登場させることで、いったい何を表そうとしたのでしょうか」

 美しい、少し掠れたバリトンに被せる様に、タイミングを計り損ねたチャイムが響いた。爆音の目覚ましにびくっと体を跳ねさせる級友、先生はそれをじっと見守っていたが、やがて静かに目を伏せ、それでは今日はこれでお終い、と括りの言葉を口にした。

「いやぁ、ついつい寝ちゃったよ。先生の声ってめちゃくちゃに寝やすくてさ」

「分からないでもない」

「しずかにすすむいちれつの」

「え、何?」

「今日やった詩だよ。るるる葬送」

 私が口ずさんだ一節に、どうも寝ていてよく授業を聞いていなかった友人二人はそろって首を傾げた。

 しづかに進む一列の。ながい無言の一列の。蛙の列が進んでゆく。ひたひたに青い蛍をともし。万の蛙等すすんでゆく。日本沙漠の砂をふみ。砂漠のくらい闇をふみ。しづかにしづかにすすんでゆく。

 続きは何だったか、思い出そうとすればするほどに、先ほどの先生の顔ばかりが思い浮かんだ。一瞬、本当の一瞬だけ、先生の目に哀しみが溢れた。瞳を伏せたわずか少しの間だけ、彼の顔と、おそらく心に翳が落ちた。そんな顔、見たことがなかったから。

 ねえ先生、何がそんなに悲しいの。

 未熟ゆえの探求心と好奇心で私はそのことがすっかり気にかかってしまって、その後の授業は散々だ。数式を問われて化学式で答えたポンコツな脳みそには、先生のあの、見ている方が泣きたくなるほど痛ましい顔だけが焼き付いていた。

「エミ、今日は部活あるの?」

 友人が連れ立って歩いてくる。部活がない日はいつも一緒に帰る固定メンバーだ。

「ううん。でもごめんね、ちょっと先生に質問があってさ」

「えっ、何それ珍しい」

「待ってようか?」

「多分長くなるだろうから、いいや。先帰ってて。ごめんね」

「いいよ。じゃあまた明日ね」

 ばいばい。そう手を振って友人たちと別れる。最近新調した深い藍色のリュックサックを背負って、教科書を手にして、教室の施錠をしてから職員室へと向かう。教室には私一人だけしか残っていなかった。どこかから運動部の声が聞こえる。蝉の音と被せるように、かき消すように、はたまた競い合うように、演劇部の発声が聞こえた。そのすべてを縁取るような吹奏楽部の音出し。中庭の木漏れ日は嘘みたいに優しかった。

 どこまでいってもポンコツな私は、まったくわかっていなかった。大人が悲しい顔をするところを、これまでに見たことがなかったから。痛ましい記憶を掘り起こすのに、いったいどれほどの勇気が必要なのだろうか。他人に容赦なく抉られる傷口はどれほど痛むのだろう。自身の深いふかい奥底に秘めた出来事を人に打ち明けるのに、どれほどの恐怖と不安が生まれるのだろうか。未熟で幼稚な私には、何もわかっていなかった。


 扉の向こう、クーラーのきいただだっ広い職員室に、先生はひとりだけで座っていた。野暮ったい黒ぶちの丸眼鏡をかけ直し、一心不乱にパソコンに向かっている。私はなるべく静かに鍵を戻し、先生の背後に近づいた。夏場でも必ず身につけている暑そうな黒いスーツジャケットはキャスター付きの椅子に掛けられていて、真っ黒なジャケットに真っ黒なスラックス、真っ黒なネクタイときて、まるで喪服みたいだと頭の片隅で思い出す。以前もそう思ったことがある。この人に、黒は似合わないと思うんだけどな。目の前の白いシャツに包まれた背中は、なぜか縮こまって、小さく見えた。

 気が付かない。よほど文字入力にお熱らしい。私はす、と息を吸い、緊張で声が震えないよう努めて明るく先生を呼んだ。

「あさのせんせい」

「ひっ」

 いきなりかけられた背後からの声に、先生は小さく悲鳴を上げて肩を跳ねさせた。くるりと椅子を回転させてこちらを見た先生の丸くなった目と目がかち合う。先生、眼鏡ずれてますよ。そう教えてあげたかったが、払拭したはずの緊張が途端によみがえってきて、五秒ほど見つめ合いが続いた。恥ずかしい。いよいよ気まずくなった空気を破ったのは、他でもない先生だ。

「…えっと、確か三組の」

「あっ、はい。守野です」

「守野さん…守野咲さん?」

「よく覚えてらっしゃいましたね、フルネーム」

「いやぁ」

 照れたようにへらっと笑った先生を、限界まで広げた目でじっと見つめる。まさか先生が私を覚えていたなんて、信じられない。そういった体で口を覆った私に、先生は何を思ったか、めったに見ない優しい微笑で答えてみせた。

「まあ、そりゃあそうでしょう。教え子の名前ぐらい把握しておかないと、教師としては、ねえ?特に守野さんは最初の授業での出欠確認、驚いて椅子引っ掛けて転んだじゃないですか。印象に残ってます。今でも思い出せますよ」

 なんだ、その笑顔は。いだずらっこの顔で笑った先生に、ぐっと喉の奥が鳴った。思い出させないでほしい。あの時はまさか、先生が私の名前を間違えずに呼ぶだなんて思ってもいなかったのだから。

「ああ、それで。守野さんは僕に何の用が?」

 先生の質問により現実に引き戻される。危ない、これでは職員室に何故足を運んだのかが分からなくなってしまうところだった。私は教科書をぐっと握って、先生の目を見た。今ならどうにか言えそうだ。

「今日の授業で分からないところがあったので、質問に来ました」

「今日の授業というと、…ああ」

 思い当たったように題を挙げたバリトンボイスと声が被る。

るるる葬送。

「…あれは、夏休みに入るまでの授業の繋ぎです。今日一時間だけの、テストにも出ない詩ですよ」

「そうなんですか?それは、いえ、それでも、私は知りたいんです。あの詩の解釈と、それから」

 教科書を先生の胸元まで持ち上げて、そっと押し付ける。先生は驚いたようで、そっとその教科書を押さえた。勢いに任せないと、この先はきっと、言えない。

「先生のことを。どうして先生はそんなに泣きそうな顔をしているんですか?」

 虚を突かれた様子の先生は、教科書を押さえる手を緩めたようだった。笑顔の成り損ない、みたいな顔で私を見る。言葉を失った大人を、その怯えたような眼差しを、私は見つめ返した。だから先生に拒絶されればすぐにでもこの場を離れようと、そう思っていた。思っていた、のに。

「…あまり、……気分のいい話ではありませんが、それでも…いいのなら」

 考えあぐねた結果、少しずつ言葉を探す先生に、私は即答で頷いた。聞きたかったのだ。先生が考えて、私に話してくれようとした先生の傷を。

「…それなら、場所を変えましょう。もうすぐ会議が終わるころだ」

 何故。会議中なのに先生は参加しなかったのだろう。職員室には他の先生の姿はなかったのに。職員室の隣の自習コーナーへ進むと、ぶわり、熱気が戻って来た。遠かった蝉の声も一緒についてくる。振り返った先、本当の本当に誰もいなくなった職員室の真ん中で、黒いジャケットだけが取り残されていた。

「蛙の列は無言でした」

 もう十五年も前になる。当時高校生だった先生には、同じ高校に通う幼馴染がいた。マコトという彼は人気者らしく、クラスの違う先生の元にも彼の話は届いていたという。不愛想で人付き合いが苦手な先生と、笑顔で常に周りに人のいたマコトさん。タイプは違えども、クラスは違えども。二人は確かに親友だった。

 家が近所の二人はいつも一緒に登下校をしていて、その間に様々な話をした。クラスのこと、部活のこと、勉強のこと、将来のこと…。その日は、マコトさんの方から話を振った。

「優人、今現国って何習ってる?」

「え?あーと、何だっけ。ナカハラナントカ」

「中也な!月夜の浜辺?」

「あー、なんか、そんな感じ?」

「いいよな中也。俺も好きだぜ。前詩集借りて読んだもん」

「お前本好きだもんな。僕は国語だけは真面目に無理」

 本が大好きだったマコトさんは図書館や学校の図書室でたくさんの本を借りて読んでいたらしい。種類は様々で、小説、科学書、エッセイ、そして詩集。

「そうそう、詩といえばさ。お前草野心平って知ってる?」

「草野?…知らない。詩人?」

「そうそう。この前面白い本見つけてさ。お前にも貸してやるよ。ついつい買っちゃったんだよなぁ」

「いらないよ…本とか全く興味ないし」

「そんなこと言うなって。これだから理系はさぁ。いや、ほんと面白れーの!蛙がどうのこうのって」

 るるる葬送って詩なんだけど。そう言ってそらんじた詩を、先生はいつものことだと聞き流した。先生にはマコトさんの語る詩の良さがいまいちわからなくて、陰気な雰囲気の詩に、ついつい否定的な返事をしてしまった。そんな先生に、マコトさんははにかんで、お前にはまだ早かったかもな。と、言ったそうだ。


 その二日ほどのことだった。マコトさんが亡くなったという。

 中学でもクラスの中心だった彼の葬儀には、高校の友人、中学の同級生、果ては恩師まで多くの人が集った。事故死、だったらしい。家族旅行に行っていたマコトさんの一家は、帰り道に高速道路でトラックに突っ込まれたらしく、車ごと潰されてしまったそうだ。相手運転手は死亡。運がよいのか悪いのか、小さくひしゃげた車の助手席から投げ出されたせいで一人寂しく生き残ってしまった彼の姉は、目元を赤くして気丈にも喪主を務めていた。

 皆無言だった。出棺の際には白い百合を一本、棺に投げ入れた。白すぎるマコトさんの顔に、知らないおばさんの「まだ右手が見つかっていないんですって」という言葉が過ぎる。腹の上で組まれた手は、一本だけだった。先生のことを可愛がってくれたマコトさんのご両親。泣きはらした目のお姉さん。眠っているみたいなのに、もう二度と目を開くことのない、冷たい親友。泣きたいはずなのに、なぜか涙は出なかった。出ては、くれなかった。

「誠」と、なんとか絞り出した名前が、いやに空々しく感じられた。

 見送りのための歌が流れている。先生の知らない、だけれども何度も口ずさんだ声ならば良く知っている、男性ボーカルの静かなバラードだった。マコトさんの歌い方とは違って、しっとりとした、お葬式にはぴったりの曲調。その歌に混じってすすり泣く声が聞こえた。先生はまだ、泣けてもいないのに。

 いつの間にかその歌も聞こえなくなっていて、葬式は終わってしまった。音もなく声もなく、静かに帰路に就く参列者。無言の蛙たち。どうやって家に帰ったのかはわからず、気が付けば先生は自分の部屋で座り込んでいた。帰り際にお姉さんが先生にと渡した、先生が持ち得るたったひとつの、マコトさんの遺品。あの日得意げにそらんじて見せた声をなぞるように、声に出して、読む。

 るるるはしろい、ほのほになって、るるるはいない。

 うつくしいるるるはもうゐない。

「いな、い」

 あの場ではただの一滴も流れなかった涙が、ほろり、と、零れ落ちた。あの日のマコトさんの声を、先生はもう思い出せない。ああ、ああ、もっとちゃんと聞いておけばよかった。もっとちゃんと話しておけばよかった。もっとちゃんと、もっと、もっと。ハンガーにもかけなかった学ランにくしゃりと皺が寄る。それも気にせず、否、気にする暇もないほど、先生は泣いた。本を胸に抱いて、今までの涙を取り返すみたいに、血を吐くように、声が枯れるほどに泣いた。

 いない。もうあの友人はこの世にいない。もう会えない。あの日はにかんだ笑顔が焼き付いて、白く冷たい姿が過って、もう、本当に彼は、死んだのだと。

 先生はあの日に捕らわれたまま、大人に成ってしまった。

 蝉の力強い声が窓を激しくノックする。外はまだ日が高く、青空が広がっていた。時計の短い針が六を指したところで、不意に先生は外へと目を移した。その目がここではないどこか(もしくは現在ですらないのかもしれない)を見ているようで、私は思わず唾をのんだ。

「僕の授業、面白くないでしょう」

 唐突に話を振られ、私は答えに窮する。そんな私の困った様子を観察するように見て、先生は笑った。

「口下手で、喋るのも得意じゃないし、教師なんかちっとも向いてない。僕はもともと国語は苦手だったんです。本なんか読まない、活字なんて大嫌い。だから、…国語が好きなのは僕じゃない。あいつでした。友人は僕の夢を応援してくれていたんです、なのに。なのに、僕ばかりが未練がましく、あいつの影に縋っている」

 情けないことだ。緩く微笑んだ先生の横顔は、ともすれば消えてしまいそうだ。

(あやうい)

 美しいものは儚いのだと、私はその時初めて知った。

「詩の解釈に正解はありません。だから是非、守野さんは守野さんだけの解釈を見つけてください」

 柔らかく細まった彼の目は、私という教え子への愛しさと、少しの狂気を孕んでいた。あの目は覚悟を決めた人の目だ。ああ、どうやらこの人は、思い出とともに心中する腹積もりらしい。

「…ありがとうございました。大変興味深い話が聞けて、うれしく思います。最後にひとつ、いいですか。先生の夢って、何だったんですか」

 先生は私の質問に驚いたように目を開いて、苦しげに顔を歪めて、すぐに諦めた、疲れた大人の顔で言った。くたびれた声は、やけに優しい色をしていた。

「もう遅いから、お帰りなさい。気を付けてね」

 こんな大人になってはいけませんよ。先生の声が、もの悲しく転がった。

 それは無言の拒絶だった。これ以上、踏み込んでくるな、という警告だった。もしかすると、もうそれすら思い出せないところに、先生はたっているらしい。私は可能なら、先生の心がまだこちら側に残っていたのなら、彼を引っ叩いてでもこちら側に引き戻したかった。実際、そうすることに尽力しただろう。だけれども、それはどうも叶わないらしかった。もう多分、きっと、先生は戻れないところまで来ている。下駄箱まで連れて行ってくれた先生が、夏の夕陽のまぶしさに目を細くする。先程の顔とは違うそれに、明らかに安堵したのは私だった。いつの間にか発声の声も運動部の声出しも聞こえなくなっていて、合奏をする吹奏楽部の、へたっぴな音外れのトランペットがプアン、と一人で鳴いた。蝉はまだ、命を燃やすように鳴いている。友人に先に帰ってもらってよかったとふと思った。こんな顔、あの子たちにはとても見せられたものじゃない。

「まだ明るいですが、夏至を過ぎて日が落ちるのもだんだんと早くなっています。なるべく人通りの多い、街灯の明るい道を通っておかえりなさい。みどり公園の前は少し危ないですから、遠回りになっても国道沿いを通った方がいいでしょう。知ってましたか?あの公園の自動販売機、温度調節機能が壊れているんです」

「いつになく饒舌ですね、先生」

 私がそう返すと、先生は今気が付いた、とばかりに口を噤んで、気まずそうに目を逸らした。

「…こんなに長く、生徒と話したのは久しぶりでした。もしかしたら初めてかもしれません。どうやら僕は、ずっと、貴方みたいな人を探していたらしい」

 とん、とつま先を石の上に叩きつけるように振り下ろす。つま先が固い石にぶつかった。いたい。

「こちらこそ、先生の声と話がたくさん聞けて、嬉しかったです。また明日、学校で」

「…ええ、また明日。元気に学校に来てください。くれぐれも悪いおとなに捕まらないように」

 先生が背後で、さようなら、と呟いた。私はそれには言葉を返さないようにして、玄関を出た。しばらく歩いて、校門のところで振り返ると、先生は丁度後ろを振り向いてその場を離れるところだった。黒いジャケットが翻る。

 喪服というのも、案外間違いではなかったのかもしれない。

(なぜ今そんなことを思い出したのかというと、)

 口の中に甘さが広がった。ほう、と白い息が夜に溶けて消えていく。じきに夜がやってくるだろう。今日を昨日に塗り替えるため、夜が来てしまう。ぎゅうっと手元の缶を握り締めた。

 私はあの日以降、先生とは一度も話せていない。あの日の翌日、終業式の席で、彼は体調面が優れないので退職するという旨を話し、二学期にはもう先生はいなかった。彼の代わりに来たのは可愛らしい小柄な女性教師で、みんな眠ることは少なくなったけれど、それでも私は時々、あのバリトンの子守唄が泣きたくなるほどに聞きたいと思う。

 十一月の十二日。今日はもう十四日だが、その日に先生は亡くなった。元々心臓が強くなかった先生は、ここのところの寒波にやられて、発作を起こして実にあっけなく死んでしまった。私があの声を聴くことはもう二度となかったというわけだ。

 参列者は十数人ほどの、小さな葬式だった。子どもは私だけ。奥さんのいなかった先生のお葬式は、彼の兄夫婦が一切を取り仕切っていた。棺の中に花を手向ける時に見たその顔は、あの野暮ったい眼鏡を取り払っていて。

(こどもみたい)

 少年のような大人がひとり、横たわっているだけだった。組まれた手の下敷きになった古ぼけた本に、やりやがった、とわたしは思う。このひとは、本当に一生、思い出と添い遂げてみせた。一人の同行も連れて行かずに、自分だけで、思い出のあの日へと単身飛び込んでいってしまった。

 先生はやっと、彼の言う「あの日」から抜け出すことが出来たのだろうか。あるいは逆に、あの日の中にやっと戻ることが出来たのかもしれない。彼は今、在り得なかった、来ることのなかった「あの日」の続きにいるのだろうか。

 先生の声は思い出せない。あの心地いい子守唄を、私が聞くことはもう二度とない。人が人を忘れる時に、最初に忘れるのは声だという。忘れたくない。先生、私、あなたを忘れたくないよ。先生が語ってくれたように、いつか、いつの日にか、今日が昨日になって、去年になって、そうして過去になっていく。そんな日が来てしまう。怖いよ、先生。私は貴方を過去になんかしたくないのに。

 ぼーん、ぼーん。鐘がなった。遠くに飛びかけた意識が一気に醒める。錆び付いた時計台の針は、六時を指している。あたりは真っ暗だ。そろそろ帰らないと心配をかけてしまう。気を付けてね、ともう思い出せない声で、先生が笑った。

 だめだ、これ以上は、いけない。今度は、このままでは、私があの日に囚われてしまう。

 振り切るように立ち上がる。ぐいっと中身を呷って缶をゴミ箱に放り投げた。ガコンと音を立てて外れる。缶が転がる。拾いに行く。あんなに熱かったココアは、とっくに冷め切っていた。

 ひとすぢのさざなみたててみおくりの。

 歌がしづかに流れだす。

 日本沙漠の闇のなか。

 いつとはなしにその歌も。

 はるかかなたにとほのいて。

ほたるのあはい。

ひも絶え絶えにきえてゆく。

あの日以来口にすることのなかった詩を口ずさむ。頬を熱い雫が滑り落ちたが、もうそんなことはどうでもよかった。本当にもう、どう足掻いたって、あの美しい人はいないのだから。

どうにか進むしかないのだ。先生のように、過去と共に心中しないためには、する覚悟がないならば、もう進むしかないのだ。それしか道はないのだ。先生は私のような人を探していたと、そう言った。そう言ってくれたなら、もう満足だろう?満足しなければならない。先生が一生添い遂げて、墓にまで連れて眠ろうとしたそれを暴いた私は、先生の共犯となった私には、前に進む義務があるのだ。先生を過去にして、思い出に変えて、その思い出ごと引き摺って、未熟な私を踏みつぶしても、前に踏み出す義務がある。先生との思い出を抱えて墓に入る資格など私には無い。

悪いおとなに捕まらないように。先生が耳元で笑っていた。あの、喪服のような黒い出で立ちで、似合ってもないしサイズすらも合ってない、あの黒ぶちの野暮ったい丸眼鏡をかけて。思い出せない声で、笑う。その姿すら、やがては思い出せなくなっていく。その道を、自ら選ぶしかないのだ。

好きだったかもしれない。恋だったのかもしれない。だけれども、私が先生へ抱く感情を恋と呼ぶにはあまりにも経験不足で、愛と呼ぶにはあまりにも幼稚過ぎたから。私と先生ではどこをどうやっても、おとなとこどもでしかなかったから。

「かたむく天に、……あ」

 熱くなった目の奥。ぼやけた視界の向こう側で、星もまばら、黒で塗りつぶされた空に、細い、カギのような三日月が笑っていた。

「鉤の、月」

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