第3話 それは崩壊の一歩
彼女の笑顔に見惚れて硬直していたが、我に返って隣に座った僕は少しぬるくなったラムネを飲んだ。しゅわしゅわとした炭酸がのどを抜ける感覚が気持ちいい――
この時だけは、本当にこの暑い季節に感謝したくなる。まあ、暑いのは嫌だけど。
一方、澄華はとうに飲みきってしまっているようだったが、なかなかベンチを離れようとしない。そんな様子だったので、こちらから話しかけた。
「今日も暑いね」
「そうね……でもここみたいな日陰は、この暑い中でも涼しく感じるわ」
「うーん……でも、空気が暑いから汗ばむじゃないか」
「そうだけど、それも夏って感じがするでしょう?」
――そんな風に夏を楽しむ人に、僕は今まで会ったことがなかった。ますます彼女に興味が湧く。
「でも、ベタベタして気持ちの良いものじゃない。できるだけ僕は避けたい」
と言い返す僕にそうね、と笑う彼女。でも――
「そうやって、汗だくになって家に帰るでしょ? その後に入るお風呂が気持ちいいじゃない」
なんて言うので僕はなるほど、と素直に思ってしまった。
そんな風に話していると、あっという間に彼女との時間は過ぎる。
「それじゃあ、私帰るわね」
なんとなく話題が途切れ、静かになった時だった。彼女はもう帰ってしまうらしい。…………また僕はあてもなく彼女のことを待ち続けなければいけないのか、この暑い中を――
と思うと同時に言葉が喉に引っかかるが、それは形にならない。彼女はそんな僕の様子を見て、何を考えていたのかすべてお見通しだ――みたいな顔をして、
「そうね――明日のこの時間には、ここにいるわ」
と笑った。
そして、瓶を捨てると、いつものようにてくてくと炎天下を歩いて帰っていった。それが初めて交わした彼女との約束だった。
台風のような人だな、と思う。いつも(といっても二回目だが)唐突に現れては、何か僕に考えさせた後、何事もなかったかのように帰っていく。
……でも、そんな彼女のことがますます気になっている自分がいて、なんとも言えない気持ちになった。
*
そうして僕たちは、次の日もまた次の日も駄菓子屋のベンチで待ち合わせし、約束を交わした。
「明日、またこの時間ね」なんて約束、とっくのとうに課題なんて終わってしまっている僕にはこの暑いなか駄菓子屋へ行く意味なんてほぼなかったのだが、破ってはいけないとなんとなく直感で――もし約束を破ったら――二度と会えないような、そんな気がして。結局なにもないのに図書館に行き、昼ごろに駄菓子屋に行く生活を続けていた。
そんな僕に、彼女は「セミの鳴き声って、みんみんっていうよりしゃあしゃあだよね」だとか「夏の日差しを受けたアスファルトって思ったより熱いよね」だとか……他愛のない、これといって特別なものでもない話をする。
彼女とする他愛のない、どうでもいいような話。……僕とは違った見方をいつも教えてくれる彼女とそんな感じで過ごしている時だけは、今生きている世界が綺麗な色――ラムネの瓶みたいな色に見えた。
そんな日がずっと続くと思っていた矢先の出来事だった。良くも悪くも、僕と彼女の差――というか根本的な違いを思い知らされたのは。
その日も、いつものように待ち合わせをしていた。僕が駄菓子屋に行くと、いつも彼女が先に座って待っていたのだが、ただただ時間に対して正確なんだな、ぐらいにしか思っていなかった。
「今日も暑いね」
「ねえ、それいつも言っているけれど、挨拶なのかしら」
「まあ、そんなもんじゃないかな」
と、この頃になると僕もだいぶ彼女と話すことに慣れ始めていた。彼女の口調はなんとなくお嬢様っぽいが、外見とマッチしていることもあってすんなりと受け入れられた。最初はちょっとイラッとしたけど。
「今日もラムネなのか」
「それはあなたもでしょうに」
「どれもこれも澄華のおかげだけどな」
暑い。特に、今日みたいな日は湿度が高くてこう、むわっとした空気が身体を中からも包み込むような――まあ、不快な日だ。
冷たいラムネの瓶は、周りの空気が冷やされてできる水滴でびしゃびしゃになっていて開けにくい。
「ああ、もう……」
「なんでそんなにあなたは短気なのかしら」
「そんなこと言われてもなぁ……暑いし、めんどくさいし、滑るし、膝に水滴が垂れるし、めんどくさいし――」
「めんどくさいって二回言ったわよ」
「あーもう! めんどくせえ! 暑いしなんのやる気も起きねえ!」
「そうやってイライラしても――」
「何にも解決しないっていうんだろ? その通りだ。でも、抑えられない時もある」
「今がその時だと?」
「いかにも」
こんな暑いやりとりをしながらも、涼しげにラムネを飲む彼女。白い喉をこくこくと鳴らして飲むその姿は、艶めかしく見えて――って何考えてんだ……僕は……
「ちょっと、お金取るわよ」
「いや、なんでだよ」
「今なんとなくえっちぃ目で見てたでしょ」
「見ーてーねーえーしー。年上のお姉さまが好きだしー」
「うわ。きも」
「すいませんでした。僕が悪かったですお嬢様」
「よろしい」
そんなくだらないやりとりをした時だった……瓶を持つ彼女の指が透けて見えたのは。それはただただ白い肌が見せた――というものではなく、瓶の奥の景色が透けて見えるようなものだった。
「指が――」
とっさに口に出してしまう。
小声で紡がれたその言葉を、彼女は聞き逃さなかった。……ふっと僕のほうを向いたその時の顔は、嬉しさや悲しさといった――とにかく幾つもの感情が混ざったような、そんな顔をしていた。
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