仮タイトル『とある夫婦のお茶漬けの話』

飛騨群青

幸福な日

 私の名前はアキオ。今はそう名乗っている。以前は別の名前だったし、少なくとも10回以上は名前と戸籍を変えていた。

 こうも頻繁に名前を変えているのは、仕事の都合だ。私は社会の境界線のこちら側、要約すると非合法な行為を生業としていた。必要に迫られるたび、私は別の人間に生まれ変わるのだ。

 今日は大きな仕事をしてきた。私は『誰か』が準備してくれた車に乗り、指定された所へ移動し、指定された通りに『誰か』を轢き殺した。車は事前に指定された所へと戻しておく。そうすれば『誰か』がまた別の場所へ運ぶのだろう。そして私ではない無実の『誰か』が轢逃げ犯として逮捕される。そして、私の代わりに逮捕された『誰か』は多分、こう供述するだろう。


 「酒を飲んでいたので覚えていない」


 誰が車を準備するのか、私は誰を殺したのか、誰が後始末をするのか、誰が逮捕されるのか、誰がこの殺人を計画したのか、誰が利益を得るのか、私にはわからない。知っているのは、知る必要がないという事と、知らない方が良いという事だけだ。 

 私の経験上、この名前はもう使わないだろう。だから、今日はアキオがアキオでいられる最後の日だ。私はアキオの家へと帰ることにした。


 「おかえりなさい」


 帰宅すると、私の妻という事になっている女が出迎えた。名前はミカという。本名でないことは明らかだが、そんなものはどうでもいい。

 私とミカは3年ほど前に引き合わせられ、夫婦として一緒に住みだした。だが、部屋の中の様子は、今日の朝と比べて一変していた。既に大半の家具は片づけられ、この家を引き払う準備ができていた。残っているのはリビングのテーブルと椅子だけだ。


 私はミカを気に入っていた。この女には何の特徴も存在感もない。目が細く、何の感情も読み取れず、無駄口は叩かない。ミカが私のことをどう思っているかは分からないが、彼女は役割として妻をやっているだけだから、そんなことを考える必要はない。だから、私にとっては非常に都合が良い妻だと思う。

 そのせいだろう、私はミカの前では四六時中張りつめている緊張が緩む。これは殺し屋としては致命的かもしれない。もっとも、それも今日までの話だ。もう、この女と会うことなどないのだ。

 私はすることがないので、椅子に腰かけた。


 「何か食べる?」


 「5分で食えるものを」


 ミカの質問に私は即答した。ミカは台所へと消えていく、足音がしないのが不気味な分、食事を準備する音が私を安心させる。私は自分が呆けているのに気が付いていたが、どうしようもなかった。

 私の目の前にお茶漬けが置かれた。ミカが移動した気配がなかったので、突然、魔法のようにお茶漬けが現れたという感じがした。私の中で喜びの感情と疑念が同時に沸きだす。


 このお茶漬けに何かが入っているかもしれない。私は長いこと、この仕事をしている。私に指図をしている人間が、誰なのかは想像もつかないが、そういう人間から見たとき、私はもう邪魔なのかもしれない。私はいつの間にか私の目の前の席に座っていたミカに目をやったが、ミカはまったく無表情のまま私を見つめていた。

 まあ、もう死んでもいいか。いや、この女になら殺されてもいいか。そう思いつつ、私はお茶漬けを一息で平らげた。5分どころか、1分もかかっていない。


 「ありがとう。私の作ったものを食べてくれて」


 そう言ったミカは心から笑っているように見えた。だが私の気のせいだろう。私は立ち上がってミカに背を向けた。


 「またどこかで」


 私はそう言って、家を出た。行先は決めてないが、ここには戻らない。



 もう私はアキオではない。

 

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仮タイトル『とある夫婦のお茶漬けの話』 飛騨群青 @Uzumaki_Panda

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