それが色を持たない音だとしても

サトミサラ

それが色を持たない音だとしても

 人間は、死んでから一ばん人間らしくなる。

 太宰は言った。他の生き物は生きているときこそ意味を持つのに対し、人間は亡くなって初めて、完成するのだという。これは小説の一節だが、それでも確かに太宰が書いた言葉だ。

 ならば、透明な私は死んだら少しは色づくだろうか? 澄はそっと目を閉じて、今日も眠りにつく。明日が来ないことを願って。



 雨だ、と起きたとき直感的に思った。しばらく晴れた空は見ていない。枕元のカレンダーを見やる。六月も中旬だ。

 小さく息を吐いて、ベッドから出る。眠たい目をこすりながら、狭いキッチンにある冷蔵庫に手を伸ばす。ヨーグルトを取り出して机のパンの横に並べる。それから部屋のカーテンを開けて、空を見上げる。ああ、ほら、やっぱり、雨。やけに静かなくせに、低い地響きのような、あるいは耳鳴りのような音だけが脳裏で嫌に響いていた。パンの袋を開けて、最近買い換えたテレビをつける。仕事を辞めたのと同時に買ったそれは、中古だったときよりいくらか画面が眩しくなったようだ。ワイドショーに切り替えると、週末のできごとをまとめていて、その中によく知った名前を見つける。この先もずっと、隣に立っているのだと思っていた。

 奥原恭平、五万人の前で涙。

 そんなチープな見出しと一緒に紹介されたライブ映像。オレンジ色の字幕と同じように画面の中の彼は言葉を話し、そして深々と頭を下げる。

「生きていて、よかった。ここに立つことができてよかった。本当にありがとうございます」

 きっと誰も、その言葉の重さを知らない。彼をよく知るという幼馴染みはかなり前に姿を消してしまったらしい。それ以上に誰が彼を知るのだろう。父は物心がついた頃からいなかったといつだったか話していた。母の姿を私は知らないけれど、彼はきっと愛されていたのだろう。でなければ、あんな優しい音は奏でることができない。ならば母になら分かるだろうか、彼の気持ちが。

 恭平は消えたかったのだと言った。消えてしまいたくて、音楽に手を伸ばしたのだと言った。「生きていてよかった」とはつまり、そういうことなのだ。

 澄は、そうやって死を、生を見つめながら生きる恭平が好きだった。ステージの袖から、あるいは関係者席から眺めるのが、好きでたまらなかった。

 だけど、もう終わったのだ。澄と恭平はもう、赤の他人になってしまった。音のない部屋の中で、澄はぼんやりとテレビを眺めていた。



 澄が恭平と出会ったのは、職場でのことだった。レコード会社で働く澄は、まだ新人歌手だった恭平を担当することになったのだ。澄はそれ以前から恭平を知っていた。まだ彼がスバルと名乗っていたときの話だ。顔を見てすぐに分かった。動画投稿サイトで期待の新人と呼ばれ、ワンマンライブなども経験していたはずのスバルが、名前を捨ててビジュアルも変えた。まるでアイドルのように着飾っていたのに、彼は長い前髪で顔を隠し、うつむきがちで、まるで別人のようにふるまっていた。何が恭平をそうさせたのかは分からないが、それでも長年応援していた恭平と一緒に仕事ができることは、嬉しかった。

「天宮です、よろしくお願いします」

 長い前髪で顔を隠す恭平は、曖昧に笑って同じように名乗った。なんとなく、こっちが本物なんだと分かった。スバルはきっと別の誰かで――いやそれは間違いなく恭平なのだが、まるで別の誰かを演じているような――そんな気がしたのだ。

 それ以来、五年以上を共に歩んできた。

「奥原さんって、スバルさんですよね?」

 聞いてはいけないことなのかもしれないと思った。恭平は歌い手だった頃の話を自分からはしない。だから澄がそれを聞くことができたのは、共に仕事をするようになって、およそ一年が過ぎた頃だった。この日はCDジャケットの撮影で、都心から少し離れたカフェに来ていた。

「……そうだよ」

 少しだけためらいがちに吐き出された言葉に、嫌悪感は含まれていないようだ。澄は胸をなで下ろし、気になっていたことを口にした。

「どうして本名でやろうと思ったんですか? スバルって名前で売れてたなら、その方が良くなかったですか?」

 すると恭平は目を伏せ、手元のグラスを触りながら小さな声で呟いた。

「もう、彼の名前は名乗れないとおもったから、かな」

 彼、って誰なんだろう。再び質問を重ねようとした澄を遮るように、ヘアメイクを直しにスタッフが割り込み、しかたなく澄もテーブルを離れた。休憩は終わりらしかった。

 スバルだった頃よりも、恭平は笑わない。非難する意味ではない、彼は不自然には笑わなくなったのだ。

「それじゃあ撮影再開しまーす」

 カメラスタッフの声が飛ぶ。恭平はふっと微笑んで、テラス席から遠くを見つめた。どうしたって切なさをまとう彼の横顔は、美しくてしかたがなかった。



 奥原恭平はさみしい男であった。いつも哀しい音を奏でる。かなしくて、さみしくて、やさしい、おと。心地よくて、それなのに胸が締め付けられるような、そんな音だった。インターネットで活動していた頃と変わったのは、見た目だけではなかったようだ。音楽も少しだけ、変わった。それはレーベルに所属することによってあまり好きなように作れなくなったというのもあるだろうし、あるいは本当に作風が変わったのかもしれない。昔はもっと乱暴で荒々しくて、どちらかといえば居場所を探すようだったのだ。だけど今は反対に、だれかのよりどころとなるような、そんな音を作る。

「奥原さんは、どういう風に音楽をつくるの?」

 いつの間にか澄と恭平の距離は近くなった。互いに敬語で話していたのは、最初のほんの一年ほどだっただろうか。同い年だと分かったのがきっかけで、恭平は敬語を使われるのを嫌がった。元々芸能人らしい態度を嫌った恭平だから、それはごく自然な流れだった。

「どんな風、って?」

「どういうことを考えてるのかなあって。奥原さんの音って、不思議な世界観だから」

 たとえば、歌詞。切なさと明るさとを備え、死生観や孤独を歌う、独特な世界観がある。まるで遠くの世界に生きるような、うつくしい言葉選びをするのだ。

 それからメロディ。柔らかな音から、突然反転し、途端に激しくなる。かと思えばまた温かく優しくなったりと、音がよく変わる。

 恭平の曲には、うつくしいという言葉がひどく似合う。一言で形容するならば、澄は確実にうつくしいという言葉を選ぶだろう。そんな恭平のつくる音は、彼の想いで溢れている。

恭平は視線を落とし、アイスミルクティーのグラスを揺らし、中で氷が崩れた。その姿は、どこか切なげだった。

「昔のことを、考えてるかな」

「それって、前に言ってた……」

「昴くん」

 スバル、という名前に、自分の肩が小さく動いたのが分かった。かつて恭平が名乗っていた名前。

「僕の幼馴染みだよ。大分前に死んだ」

 その話しぶりは、まるでなんでもないことのようで、それどころか少し笑っていた。どこまでも優しい笑顔で、恭平は幼馴染みのことを話し始めた。

「大学生のときかな。本当に急で、正直あのときのことは覚えてないんだ。だけど、なんとなく分かってたのかも。いつかそうなるって」

「スバルって、名前の由来も、それ?」

 うん、と小さく声をこぼす。グラスに落とされたままの視線は、切なげだった。名前の由来になったくらいだから、本当に大切だったのだろう。

「僕がゲーム実況してたのは知ってる?」

「覚えてる限りで全部見てた」

「たまにゲストで来てた、幼馴染み……声にはあまり感情がこもってなくて、ゲームが下手な……なんて名乗ってたのかは忘れたけど」

 覚えている。確か恭平はときどき四人でゲーム実況をしていた。一人は明るくてよく笑う人だった、もう一人は大人びているけれどどこか無邪気な雰囲気の人、そして最後が口数の少ない、例の昴くんだ。

「……それが、昴くん。僕がいちばんきらいで、すきだった、友だち」

 目を細めて笑うのは、愛おしさなのだろう。恭平は、友人が少ないと少し前に苦笑いをしていた。その数少ない友人の中のひとり、をある日突然失った。それでも笑っている。まるで思い出話をするみたいな、そんな優しさを含んだ声だった。もしかしたら本当は生きているんじゃないかと思って、だけどそんな嘘をつく意味もないと気がつく。恭平はそんなくだらない嘘をつくような人ではないはずだ。

「死は、永遠の美なんだって。ばかみたいだ、僕にはそんな美学、到底理解できない」

 恭平はそう吐き出して、アイスミルクティーを一口飲んだ。それは自殺を暗示する言葉にも聞こえたが、そんなことを聞く勇気はさすがに持ち合わせていない。恭平はわらって、だけど声色は少しだけ怒っているように聞こえた。聞いたことがない、そんな話し方をする恭平は、見たことがない。

「死は無責任だよ。僕は死に美しさも永遠も見い出せない。そんなもので報われることなんて一つだってない」

 恭平は珍しく饒舌だった。普段は戸惑うみたいに、あるいは心細そうに話すのだ。まるで言葉を探すように、ゆっくりと。だけどこのとき恭平は早口で、それはきっと怒っているのだと思った。

「だって」

 恭平が顔を上げ、澄を見る。眉尻を下げて、困ったように笑って、そのとき恭平は泣きそうな顔だった。

「どこに消えたって、愛されているのに。昴くんは分かってない。残された人が、愛するものを忘れていくつらさを。永遠に美しくあろうとした昴くんの顔なんて、もう思い出せない。うつくしかったのか、それもわからない」

 きっと、大切でしかたなかったのだろう。愛して、そして愛されていたのだろう。それなのに、いつか必ず忘れてしまうという恐怖は襲い掛かる。

 それでも、幼馴染みはいなくなった。話を聞く限り、自らだったのだろう。愛する人の中で、永遠に美しくあることを夢見て。

「私は、彼の気持ちも分かるよ。だって永遠がなかったら、生きてる意味なんてなくなっちゃうじゃない。どんなに頑張っても、待ってるものは全部虚無になっちゃう」

 恭平と澄は分かり合えない。ふたりの孤独はあまりにも違う。

 恭平は誰かとあまり近づくことはしない。境界を作って、恐らく例の幼馴染みのようなことにならないよう、いつも気を使っている。そんなことをしたところで、幼馴染みのいなくなった毎日に寂しさを覚えるだろうに、それでも必要最低限の言葉しか交わさないのだ。だから澄は意外だった。こんな踏み込んだ話、一度も聞いたことがなかったのだ。

「彼は虚無だよ」

 吐き出すように、恭平が呟く。それはまるで、心臓を掴まれた気分だった。心が痛い、自分のことでないのに、苦しくてしかたがなかった。何が澄をそうさせたのかは分からなかった。だけど、あまりにも、息が苦しい。

「だってもう、思い出せないじゃないか。それじゃあ、いなかったのと何ら変わらない」

 恭平の表情は嫌悪感に歪められ、見たことがないくらいに悲しそうでもあった。たまらなくかなしいのは、くるしいのは、きっと恭平だ。それなのに弱音を吐き出せないのは、それが愛する幼馴染みの望みだと分かっているからだろう。

「かわいそう。……望んだ永遠なんて、誰も叶えてあげられない。忘れられていく、かわいそうなひと」

 そんなことはないと言ってやりたかった。その恭平の胸の痛みだけで、幼馴染みの彼は救われているのだと、そう言いたかった。だけど恭平の声は、そうさせてくれない。まるで魔法のような声なのだ。澄は声を発することなどできなかった。恭平の声が澄を縛りつけて、まるで動くことができない。

「……久しぶりにこんなに話した。ごめんね」

 優しく笑う恭平を見るのも苦しくて、澄は曖昧に笑って、そして何も返せなかった。だって、そんな切なそうに笑う恭平なんて、見たことがなかったのだ。



 恭平はその後も決して幼馴染みを気にする素振りは見せなかったし、澄もそれ以上何かを聞き出すことはしなかった。

 分かち合えない孤独を抱えたふたりは、やはり孤独なままだった。いつだったか、大人は孤独なものだと聞いたことがあったが、それはきっと本当だったのだろう。大人になると、失うものが増える。恭平の幼馴染みだとか、それから澄の夢だとか。澄はずっと恭平を見ていたかったのだ。彼の音楽の向かう先を見たかった。だけど、運命はそんなちっぽけな夢すら奪ってしまう。

「仕事、辞めるの。次のアルバムが、最後」

「どうして?」

 淡々と澄が切り出したのは、ベッドの上だった。真っ白な空間、鼻を刺す消毒液の臭い、そして雨上がりの空。澄は昨日、恭平の面会を拒絶した。

「私の将来、虚無になっちゃった。もう、何も欲しくないや」

 へへ、と小さく笑う澄に対し、恭平はいっそう不機嫌に表情を歪めた。それはいつだったか幼馴染みを語ったときみたいで、もしかしたら自分は大切に思われていたんだろうかなんて期待してしまう。

「うそ、ほんとは、欲張りなの。ばかね、叶わないものばかり、欲しくなるのよ」

 本当に、ばかみたい。小さな声でつけ足した澄に、恭平は何を返せばいいのか考えているらしかった。病室は静寂に包まれている。

「……聞こえないの。雨が降るとね、なーんにも、聞こえなくなっちゃうの」

 わざと冗談めかして話す澄は、まったく笑えていなかっただろう。自分でも分かるくらい、不安に震えていた。それは仕事を失ったからではない。ずっと愛してきた音を、この先どんどん失ってしまうと分かったからだ。他のものは失っても、それだけは失いたくなかったのだ。

 二日前、それはひどく冷たい雨の日の夜だった。澄は電車から降り、いつもの帰路についた。雨で霞む視界のため、ゆっくりと歩みを進めていた。雨音はもはや滝の落ちるそれと何ら変わらない。暗闇の中で降り続ける雨は、まるでスクリーンのようだった。大雨のせいだろう、繁華街すら人は少ない。繁華街を過ぎ、大きな交差点で信号がちょうど青に変わった。横断歩道に足を踏み出したとき、右側でぼんやりと何かが光った。それが、バイクのライトだと気がついた次の瞬間、澄は急ブレーキの音を聞いた。遠ざかる意識の中で、雨の冷たさが身にしみていた。

 目が覚めたとき、澄は怪我を負っていたが、他の異変はなかった。あの大雨の中だ、恐らくバイクもそんなにスピードを出していなかったのだろう。怪我も三ヶ月あれば完治するらしい。

 しかしその昼、異変は起きた。ひどい耳鳴りと目眩がして、それから吐き気が澄を襲った。ナースコールのボタンを押すと、しばらくして担当医がやって来たが、何かがおかしかった。分からないのだ、彼らが何を話しているのか。口は動いているのに、音がないのだ。まるで何も聞こえない。それをどうにか動作で訴えると、すぐに検査することになった。やがて出た結果は、異常なし。つまりそれは身体的要因ではなく、精神的要因ということだ。担当医が言うには、断言はできないものの恐らくストレスによる難聴や目眩らしい。怪我や気候変動による身体的負担、そして事故による雨に対するトラウマ。全てがその原因になりうるというのだ。雨の日に恭平が訪ねてきたが、面会を拒絶した。恭平の声が聞けないなんて、そんな現実を突きつけられるのが嫌だった。

 晴れの日がやってきて、澄の気持ちが落ち着くまで、恭平だけはどうしても会えなかった。

「……怖い?」

 恭平は小さな声で尋ねた。

「ううん、でもね、かなしいかな」

 その悲しさを表す方法は知らないから、陳腐な言葉にしか感情は乗せられないけれど。

「たまらなく悲しいのよ。だって、わたしは奥原さんの作る音が、まるで壊れものを抱えるように、こぼれ落ちる音が、すきだったの」

 愛していたのだ。彼の音を、声を、たまらなく。切なくて儚くて、うつくしい音を。

「きっとそのうち、あなたの音もわからなくなる」

 だったらいっそ殺してくれたらよかった。音のない世界に価値など感じないのだから、あのとき死んでしまえばよかったのだ。

 どうしようもない虚しさを抱えながら、不自由な足では死ぬこともできない。

 恭平は何も言わない。口下手な男は何も言わない代わりに、窓の外を見つめ、何かを口ずさみ始めた。

 その日から、恭平はほとんど毎日病院にやってきた。もちろんアルバムの打ち合わせがほとんどの時間を占めていたが、ときどき恭平は用もなく訪れ、何かを口ずさんで帰っていった。どこか聞き覚えのある荒々しいメロディ。それは確かに、昔恭平が――スバルが、作った音だった。

「……なつかしい」

「僕も、久しぶりに歌った」

 恭平は表情をふわりと緩め、そっと微笑んだ。

「……ぼくはね、昴くんを待ってるんだ」

 かと思えば急に遠くを見つめる。その視線は切なそうだった。

「昔、一度聞いたでしょ。僕が何を考えて音楽を作ってるかって。昴くんが僕のことに気がつけばいい。どこにいてもいいんだ、ある日ふと僕のことを思い出して、なんとなく調べてみて、こんな歌を作ってるんだなって、そう思うだけで、それでいい」

 久しぶりに聞いた、幼馴染みの話だった。だけど以前、恭平はその幼馴染みを死んだと言わなかっただろうか。掠めた違和感を聞くべきか悩んでいるうちに、枕元の椅子に座る恭平はかなしそうに、表情を歪めた。

「人は、二度死ぬって言うでしょ。僕はもう、昴くんの話し声も、笑い方も、忘れちゃった。……僕はね、昴くんのこと、殺しちゃったんだよ」

 人は二度死ぬ。一度目は生命を失ったとき、そして二度目は忘れられてしまったとき。順番が逆とはいえ、つまりはそういうことなのだろう。

 恭平の音楽がいつからか変わったのは、幼馴染みのためだったのだ。いつでも戻ってくることができる居場所であるために、そんな温かな拠り所であるために、恭平は音楽を奏でていた。

「天宮さん。これが最後に一緒にできる仕事なら、わがまま言ってもいいかな」

 このタイミングで恭平がそれを提案した意味はよく分からなかった。だけど、その幼馴染みの話を聞いたあとで、恭平の頼みを断ることはできなかった。開いた窓から、冷たい風が吹いてきた。夜にでも、雨が降りそうだ。スバルを名乗っていた頃とは違う、ワックスでまとめられていないさらさらな髪が揺れる。その姿がどうしても美しく映るのは、きっととうにこの人を愛してしまっている証なのだろう。



「奥原恭平、フィーチャリング、スバル」

 アルバムのクレジット内で、ついに実現したそれに、澄は興奮を抑えられずにいた。スバル時代の曲に恭平がアレンジを加え、歌を録り直したのだ。まさか本当に実現するとは思わなかった。このCDはきっと、話題になるだろう。何せ、突如姿を消した謎の歌い手「スバル」の名前が、ここに載るのだから。

「どうしてこのタイミングだったの?」

 ふと気になったことを尋ねると、恭平は力なく笑った。

「……さみしかったのかな。自分でもよく分からないや」

 テーブルの上の紙をまとめ、恭平はファイルにしまって澄に渡す。それらは全て、次のアルバムの収録曲の詳細だった。シングル曲が三曲、スバルの曲が一曲、そして新曲が十一曲だ。今回は澄が入院してしまった関係で、ほとんどを恭平にまかせっきりだったが、上司からの咎めは一切なく、原案が通った。

「天宮さんが担当じゃなければ、こんなことしなかったのかも」

 澄はスバルを知っていた。奥原恭平としての音楽だけではなく、スバルとしても、彼の音楽を愛していたのだ。ずっと見ていた。画面越しに、スバルを、見ていた。

 恭平が突然スバルのときに作った曲をCDに収録しようなどと言い出したのは、やはり幼馴染の存在を忘れられないからなのだろう。恭平はそれだけで、その幼馴染が救われていることなどは知らない。恭平が苦しんでいることが、その幼馴染みがいなくなったすべてだというのに。

 まだベッドから立ち上がることのできない澄に、恭平は何か音源を作っては携帯に入れて持ってきた。今日は昔の音源と、アレンジを加えた音源との二つだった。荒削りな音楽と、掠れた歌声。今よりも少しだけ幼い声だった。ああ、すきだな。そんなことを思いながら、そのうちこの声も聞けなくなってしまうのだと思って、途端に寂しくなった。

「それで、こっちがアレンジ入れた方」

 柔らかなメロディ、そしてそれが突如、崩れ落ちる。新たに加わったピアノの音が、破壊のような音を生み出していた。昔、恭平はこの曲には死生観を詰め込んでいると言っていた。崩れ落ちる音は、死を意味するのだろうか。

「言われなかったら、同じ曲だなんて気がつかないかも」

「うん、そう思って、クレジットにスバルって入れたんだ」

「でも、どうしてこの曲?」

 澄は知っている曲だが、これが彼の代表曲かと聞かれれば、決してそういうわけではない。そう問えば、恭平は携帯を机に置き、近くの椅子を引き寄せて座った。

「僕は、死んでいくのかな」

 その声はまるで、迷子になったみたいだった。行き場をなくして、不安そうな、小さな声。視線は机の上に落とされたままだ。

「――って、そう、思ったんだ」

 それはもちろん、ただの死の話ではないだろう。スバルの曲を持ち出したのだから、例の幼馴染みの――忘れられていく死の話をしているのだ。

「僕の音が、天宮さんの中で死んでいくのが、かなしくてたまらない」

 こぼれ落ちるような、小さな雨音みたいな声だった。

「僕は忘れていく怖さを知ってる。だけど、自分の音を一番近くで聴いていてくれた天宮さんが、僕を忘れていくことが、どんなものなのか、まったく分からないんだ。恐ろしくて、悲しくて、それがどうしても嫌なんだよ」

 恭平の言葉は不思議な力を持っているのだ。ひどく悲しいことを話していても声が優しかったり、何でもないように話したりする。それは無理しているようには聞こえないが、澄には寂しく感じた。

「きっと、本当に怖いのは天宮さんなのにね」

 申し訳なさそうに呟いた横顔は、差し込んできた光で陰り、やけにうつくしかった。



 アルバムが発売されると、すぐに話題になった。調べると、スバルと恭平の歌声を比較してみただとか、顔を比較してみただとか、そんなものが大量に出回っていて、そして結果は一目瞭然であった。スバルが帰ってきた。およそ十年前、どこかに消えたはずの伝説の歌い手が、戻ってきた。

 最後の仕事が成功した喜びと、もういよいよ終わりだという悲しみが混ざって、澄は素直におめでとうと声をかけることができなかった。

 結局、澄はそのまま仕事を辞めた。

 やがて、恭平の初めてのドームツアーが決まったという連絡が届き、澄はそれを見届けられなかった後悔と悲しみに明け暮れた。いつの間に、そんなに大きくなったんだろうか。きっとこの先、ますます遠い存在になるのだろう。好きだった、彼の音も、そして彼自身も。

 恭平はいつも歌ってくれた。これから音を失くしていく澄に、まるで忘れさせないように、いつも歌ってくれた。昔の音も、今の音も、全部。そのおかげで、晴れの日が楽しかった。病室はいつでも音に溢れていて、だからこそ、今ひとりの家がやけに寂しかった。雨も降っていないのに、静かで、まるで音がない。自分が音を失い始めているのか、あるいは本当に静かなだけなのか、もはや分からなくなっていた。そろそろ実家に帰ろうかと考え始めたある日、澄の家に一通の手紙が届いた。それは恭平からの手紙で、ツアー最終日のチケット、それも関係者席のものが同封されていた。

 こんな優しさすら、心が痛い。

 ライブ当日、空は曇っていた。雨になるかもしれないとテレビの中のキャスターは告げている。そんな日に、外に出ても良いのだろうか。迷った挙句、恭平の晴れ舞台を見たいという気持ちが勝ち、澄は会場へ出かけていった。

 ライブが始まっても、澄の耳は聞こえていた。恭平の音が、声が、響いている。ライブも中盤になり、スバルの曲が流れ始めた。柔らかくて、温かなメロディ、そして一気に、崩れ落ちる。曲はサビから入る作りで、会場が大きく揺れる。恭平はギターをかき鳴らしながら、口を開く。この荒々しい音、本当に、懐かしい。ワンフレーズ、そして突如、すべての音が、途切れた。

 嘘だ、だって会場内は温度も、気圧も調整されていて、だから――。

 ああ、いよいよ全てが終わるのだと思った。

 澄は音のないまま、遠くの恭平を見つめた。せめてこの曲は、聴きたかった。

 スクリーンには歌詞が映し出されてる。そのときふと、この歌詞が、例の幼馴染みのことを歌っていることに気がついた。死生観をテーマに作ったのだと当時スバルは語った。だけど実際は、幼馴染みがいつか自分の中で死んでしまう、そんな孤独を歌ったのだ。ひどく心に突き刺さる歌詞だった。だって、まるでそれは、澄の心を表したようなのだ。

 ――愛していました、この日まで。

 ――僕はいつか君を殺してしまう。

 まるでこの先、音を忘れていく澄のようだったのだ。

 ああ、どうして来てしまったんだろうか。苦しいのは自分なのに、こんなライブに、どうして足を運んでしまったのだろう。恭平の歌がわからない。彼がどんな風にギターを鳴らし、歌うのか、まるで聞こえない。ただ遠くで歌う恭平の姿は、美しかった。

 きれい。きれいよ。

 心の中で呟いた言葉は、誰にも届かない。目頭が熱くなり、涙が溢れた。愛していた、本当に、愛していたのだ。だけどいつか澄は彼を、彼の音を、忘れてしまうだろう。かなしい、胸が苦しい。熱気に包まれた会場の中で、澄だけが孤独だった。もう、彼の隣にはいられない。

 澄は最後の挨拶まで見届けることもなく、会場を後にした。



 それから、恭平とは会っていない。退院してから、恭平は会いに来なくなった。代わりに同僚が見舞いに来たり、恭平の活躍を伝えてくれるようになった。何度か恭平から連絡は来たが、雨の日は誰にも会いたくない、なんて適当なことを言って会わなかった。しかし、いよいよ梅雨の時期も過ぎ、晴れの日が続くようになった。澄の調子は良かったが、それでも恭平とは会いたくなかった。そんなことをしたら、きっともっと側にいたくなってしまう。

 いつものように、同僚がインターホンではなく携帯で家の前に着いたと知らせてきた。ドアを開けた、その先に立っていたのは、ショートボブの同僚ではなく。

「なんで……」

「ごめん、こうでもしないと会えないと思って」

 恭平だった。少しだけ笑った恭平は、やはり優しい声だった。挨拶もせずに帰り、連絡もせずにいた澄に対し、それでも優しく笑う。

 澄は恭平を家に上がらせる。雨でもないのにやたら静かに感じた。

「あの曲……私のために選んだの?」

 沈黙に耐えられず、先に口を開いたのは澄だった。愛する人を自ら殺してしまう、つまりは忘れてしまう、あの曲。こんなタイミングで選んだことに、自分が関与していないとは思えない。

「天宮さんなら、分かってくれるかなって、思ったから」

 不器用な話し方をする恭平だが、その言葉にこもる力は強かった。

「そうだね」

 澄は笑って見せたが、自分の表情は分からない。上手くは、笑えていないだろう。

「……永遠って、苦しい」

 澄の呟きに、恭平は伏せた視線をこちらに向けた。見つめられると、息が苦しくなる。よりによって恭平を、音をいつも大切そうに抱えるひとを愛してしまった。

「永遠なんてないって、昔言ってたよね。でもやっぱり、あると思う。永遠があるから頑張ろうと思って生きるのよ、だけどそれは同時に虚無も生み出す」

 恭平の幼馴染みは、永遠に美しくあろうとした。だけどそれはあまりに独善的で、だから彼は虚無を生み出した。恭平はいつしか幼馴染みの姿を忘れ行き、幼馴染みも恭平を忘れていく。それはたしかに美しい姿のままかもしれないが、しかし美しさよりも孤独を残した。忘れるしかないという苦しみ、その苦しみのみによって存在を証明される幼馴染みだって、こんな未来は望んでいなかったはずだ。

 澄がこのまま音を失えば、恭平は永遠に美しくあるだろう。ステージに立つ恭平は、確かにうつくしかったのだ。しかし同時に苦しい。忘れ行くことを約束された将来は、永遠に虚無しか待っていない。

 そして澄が忘れたその先で、恭平という人物は完成される。なぜなら、恭平がそれ以上うつくしくなることなどないからだ。澄の中で恭平は過去のものになり、何も変化しない。ただ、奥原恭平として、澄の中にとどまる。

 ――人間は、死んでから一ばん人間らしくなる。

 太宰が言うのは、そういうことではないだろうか。

「あのとき、死んでしまえばよかった」

 ぽつりと、こぼれ落ちた声は、本心だった。事故に遭ったとき、死んでしまっていたならば。音を失い、恭平の気持ちを共有できなくなった澄は、きっと美しくはないだろう。

「そんなの」

「好きな本にね、死をよいものだと思ったって、書いてあったの。パンドラの箱を開けたことによって、あらゆる災いが世界に飛び出したんだって。慌てて閉めたせいで、中に希望だけが取り残された。私にとって、その残された希望が死ぬことだった、それだけの話。だって、どんなに不恰好でも、誰かといないと生きていけないのよ。耳が聞こえなくなるって、そういうことじゃない」

 本当に死にたかったのかもしれない。ほとんど勢いで飛び出した言葉が、澄のすべてだったのかもしれない。

「……太宰の、パンドラの匣」

「そう」

「もしも太宰のように死にたいと言うのなら」

 恭平はひどく悲しそうだった。かなしそうで、無理に口角を上げて、そんなことを言う。澄は恭平を困らせたいわけではなかった。ただ、彼といるべきなのは自分ではないと思ったのだ。

「僕と一緒に死んでよ」

 彼から離れたかったはずが、いつの間にか彼を巻き込んでしまった。やはり会うべきではなかったのだ。

「……でも、僕はまだ死ねない。伝えなきゃいけない音がある。伝えなきゃいけない人が、いる。だからさ」

「待って」

 やめてほしかった。そんなことを言われたら、やっぱり好きなのだと思い知ってしまう。分かりたくないのだ、自分のそんな気持ちは。

「それまで、一緒に、いきてくれる?」

 澄は何も応えられなかった。音を忘れていきながら彼を見つめるのは、あまりに胸が痛い。そして忘れられていく恭平だって、苦しむに決まっている。何も報われない。そんな結末は、望んではいけない。

「だめ、だよ。そんなの、だめに決まってる」

「どうして?」

 恭平は優しいのだ。優しいから、そんなことを言って、澄を苦しめる。

「お願い。帰って」

 突き放すしかない澄は、そう小さく呟いた。恭平はやはり悲しそうな顔で、席を立った。

 ごめん、ごめんなさい、私がいけなかったの。軽率に死にたいなんていったから、それがあなたを引き止めてしまった。

 心の中で何度も謝りながら、澄は出て行く寂しい後ろ姿を見つめていた。



 朝から降り続く雨は、一向に止む気配を見せない。耳が聞こえないから外に出ることもできず、ただぼんやりと窓の外を眺めていた。そのとき、ポケットに入れていた携帯が振動し、メールの通知が画面に光った。

「開けてほしい」

 恭平からだった。どうやら家の前まで来ているらしい。あんなに突き放したのに、どうして。無視しようかと思ったが、外では冷たい雨が降っている。その中で恭平を待たせるわけにはいかなかった。

 ドアを開けると、少しだけ微笑んだ恭平は身体の後ろに隠していた何かを取り出した。スケッチブックだ。一枚めくる。

「散歩でもしない?」

 そしてすぐに表紙に戻し、リュックの中にしまう。恭平は澄の答えを聞く前に腕を引いた。澄は慌てて手に持っていた携帯に文字を打ち込み、恭平に差し出す。

「今聞こえないから、外に出るの怖い」

 恭平は澄の手を掴み、すぐ下に文字を打ち込んだ。

「雨が怖くて、それがストレスになってるなら、たくさん会おうよ。聞こえるようになるまで歌うから」

 恭平はきっと、たくさん考えてくれたのだろう。澄が救われる方法を。音を失わない方法を。植えつけられた雨への恐怖は、そう簡単にはなくならない。それでも、恭平の側にいる時間は温かくて優しかった。

 見上げると、恭平と目が合った。柔らかく微笑んだ恭平は、もう一度携帯を手に取った。

「僕は永遠って言葉は嫌いだけど、誰かを失ってから永遠の存在に気がつくことがある。天宮さんで、同じことを繰り返したくない」

 恭平は澄を見ていた。視線には強い意志が込められているようで、きっと音がなくたって、恭平は澄を手放してはくれないのだと、今やっと気がついた。

「僕じゃ頼りないかな」

 自分はどれだけわがままなのだろう。恭平の気持ちを考えないで、自分のことばかりで、それでも恭平は諦めないでくれた。それはどんなに喜ばしいことだろう。

 澄は涙をこらえながら首を横に振った。恭平の口が、ゆっくりと動く。音はないが、彼が伝えようとした言葉は分かる。応えるべき言葉は一つしかないのに、声が出ない。自分の声も聞こえないのに、言葉にすることが怖いのだ。次の瞬間、澄は恭平に腕を引かれ、気がつけば抱きしめられていた。温かい、やさしい、愛おしい。どれも伝えたい言葉なのに、何て口にすればいいのか分からない。その温もりに包まれてしまえば、もう我慢はできなかった。何かが決壊したようにぼろぼろと涙が溢れ、止まらなくなる。澄は恭平の背に腕を伸ばし、強く、強く抱きしめる。恭平はずるい。いつも不安そうな顔をして、そのくせ言葉や視線が訴えるものは強くて、それが澄を捉まえて離さないのだ。

 澄は口を開く。自分の声は聞こえないから、どんな音を発しているかは分からない。だけど、それでも言葉で、声で伝えたかったのだ。それが正しい音だったかは分からなかったが、恭平は澄を抱きしめる力を緩め、身体を離す。ひどくやさしい、顔だった。少し泣きそうにも見えたけれど、確かにうつくしく微笑み、そしてそっと澄にくちづけた。

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