解決編

「……今回の事件、平日の昼間に起きたことがそもそも引っかからないかしら」

「そうですか? 仮に俺が先輩の家に侵入しようとしたら、平日の昼を狙うと思いますよ。確実に先輩がいないのはわかっているし、ご家族も仕事でいないだろうし」

「普通の家なら、ね。けれど梓さんは寝たきりのお母さまと同居していた。そして事件当日も、お母さまは家にいらした……『ストーカー』がそれを知らないとは、私には思えないのよ」


そうだ、たしかにストーカーなら知っていたはずだ。対象者を徹底的に知りたがるのが彼らの性質なのだから。

だとすればおかしな話にならないか。


「待ってください」


声を上げたのは野間紙さんだ。


「仰る通り、妻は事件当日も自室にいました。しかし長元とは接触していないんです。それに荒らされていたのは梓の部屋だけだった……長元は妻を避けて行動しただけでしょう」

「それがふたつめの謎ですわね」

「謎というのは……」

「決まっています。どうして、奥様を避けて行動できたのか、ということです」


ぎくりと野間紙さんの動きが止まった。


「梓さんの部屋だけが荒らされていたということは、長元はまっすぐ梓さんの部屋を訪ねたことになる。けれど初めて訪れた人の家の間取りを、誰がどの部屋を使っているかを、どうして長元は知っていたのでしょうね?」

「そ、そんなもの……梓が帰宅したときに、部屋を外から見ていればいいのでは? 明かりのついた部屋が梓の部屋だとわかるでしょう」

「高層マンションの最上階ですよ? まぁ不可能ではないでしょうが……ストーカー被害に悩む女性が、カーテンを開けっ放しにしているとは思えませんね」

「ではあなたは、それ以外の可能性があると仰るのですか?」


痺れを切らしたような野間紙さんの問いに、先輩はその黒曜石のような瞳を閉じた。


「簡単な話です。長元は招かれたのですよ。部屋の間取りをよく知る人物にね」

「招かれたって……ストーカーですよ?」

「そもそもその前提が間違っていたのよ。ストーカーなんて最初から存在しなかったの」

「梓と葛城くんが嘘をついたと?」


何を根拠に、と問い詰める野間紙さんに、先輩は静かに続ける。


「梓さんは自室に引きこもっていると、あなたは仰いましたね? でも梓さんの部屋は、ストーカーに荒らされた部屋なんですよ? 引きこもるにしたって、そんなところを選ぶかしら」


あ、と思わず声が出た。

たしかに、他人に荒らされた部屋なんて気味が悪くて仕方ない。俺なら一秒だって居たくないだろう。野間紙さんも同じだったようで、言葉に詰まっている。


「じゃあ長元はストーカーでもなんでもなくて、ただの客だったっていうんですか? でもいったい誰が……」

「万里小路くん、あなたうたた寝でもしていらして? 当日、確実に家にいたのはただひとり……逆に言えば、その人だけが長元をあの日あの場所に呼び出すことができた」


もうわかるでしょう、と先輩はまるで小学校の先生みたいな口調で呟いた。


「長元は、梓さんのお母さま……あなたの奥様に招かれたのですよ。野間紙さん」


ガシャン、と大きな音がした。ティーカップが机の上でぱっくりと割れてしまっている。ブルブル震える野間紙さんの手から落ちたことは、さすがの俺にもすぐにわかった。


「……ありえない。あれが……なぜ、あんな男を知っているんだ……」

「今のご時世、ネット回線がつながれば一国の大統領ともコミュニケーションができてしまいますのよ。住む世界が違くても、出会おうとすればいくらでも出会えてしまう。良いところでもあり、悪いところでもありますわね」


悠々と語りながら、先輩は自分のティーカップを手に取って俺に傾けて見せる。おかわりを所望する合図だ。俺がそこに注ぎたての紅茶を注ぐ間も、野間紙さんは獣のように荒く息をしていた。


「でも……どうして奥さんは長元を呼び出したんです? 先輩の言うとおり、ネット上で出会ったんなら……やりとりもネット上で済むじゃないですか」

「ネット上では済まない用事、だったんじゃないかしら。実際に顔を合わせてでないと、できないこと……そんなに多い選択肢ではないでしょう?」


あ、これはまずいな。そう思うより先に、項垂れていた野間紙さんがガバリと顔を上げた。


「三鼓さん……あなたは……妻と長元が、逢引をしていたとでも? あれは野間紙に嫁いだ人間なんです。そんな不埒な真似をするわけがない! これは野間紙に対する侮辱だ!!」


怒りをあらわにする野間紙さんの迫力に、恥ずかしい話だが俺は少しだけびびってしまった。紳士然としているせいか、あからさまに粗野な風体の人が怒るよりも凄味があるのだ。

しかし先輩はと言えば、涼やかな顔で紅茶を味わっていた。


「勘違いさせてしまったのなら申し訳ありません。お叱りは私の話を最後まで聴いてからでも遅くないと思いますわ」


心のこもっていない謝辞を述べながら、先輩は口端を緩める。あぁ楽しんでいるな、心から。困った人だがそんな姿も麗しい。


「結論から言えば、奥様と長元は男女の関係ではありません。ビジネスの関係だったのですよ」

「ビジネス?」

「えぇ。もっとも……奥様は顧客ですがね」


そうして先輩は閉じたスクラップブックを野間紙さんのほうへ突き出した。


「奥様は長元から麻薬を買っていたのでしょう」

「麻薬って……ええ!? 何のために……」

「使う以外に何があるっていうのかしら」


平然と答える先輩に唖然とするも束の間、野間紙さんが立ちあがった。真っ赤な顔に荒い息遣い、拳をきつく握りしめているのは、先輩に掴みかかるのを自制しているからかもしれない。


「妻が……薬物中毒者だったとでもいうのか!?」

「そうです。でなければ、長元があの部屋で死んだ謎が解けないじゃありませんか」

「何が謎だ……! 妻は寝たきりだったんだぞ! 心神喪失状態で、会話もままならない!そんな人間がどうやって薬物を手に入れるっていうんだ!」

「お芝居だったのですよ」


殴りかかってきそうな剣幕を、先輩はあっさりとかわしながらそう言った。今日はいい天気ですね、そんな調子だったから、俺は思わず聞き逃すところだった。


「心神喪失はお芝居。あなたを騙すための、奥様の一世一代の演技だった」

「……そんなわけ……だいたい、梓や葛城くんが知らないはずがない!」

「えぇ。だから、お二人は知っていたのですよ。演技だということも、それをあなたに隠していることも」


ぽかん、と野間紙さんは目を丸くして黙り込む。その表情に、証券会社の社長さんの面影はもうなかった。


「過剰なストレスがかかった人間を救うのは、お医者様でもおくすりでもない。ストレスの原因との、徹底的な別離なんですよ。だから奥様は壊れたふりをして、狂ったふりをして、あなたとの接触を最小限に避けたわけです。奥様のためなら、看病を買って出た梓さんや葛城さんも当然秘密を守るでしょう」

「……いつから……そんな……」

「薬物が先か、心神喪失の演技が先かは私にはわかりかねます。それに重要なのはそこではないでしょう。事実として、ひどく精神を病まれた奥様が薬物に救いを求め、あなたを拒むために心身喪失を偽った。実際に奥様の主治医の方に伺えばわかることです」


野間紙さんは、力なくソファに座り込んだ。空気の抜けた風船のように、怒りはすっかり鳴りを潜めて、先輩を睨みつけていた血走った目も、いまは空を見つめている。

先輩は構わずに続けた。


「演技のことは打ち明けられても、薬物のことは梓さんや葛城さんには言えなかったのでしょうね。郵送では封筒の処理や配達記録でお二人にバレる恐れがある。自分から繁華街へ行くことも……万が一あなたに見つかる可能性が消せなくて、実行できなかったのかしら。奥様が選んだのは、訪問販売という手法だったわけです」

「なるほど……長元はヤクの売人として家に招かれたわけですね。……あれ? じゃあ……どうして長元は死んだんですか?」


浮かんだ問いをそのまま投げかければ、先輩はティーカップから視線を上げた。


「みっつめの謎。覚えているかしら、万里小路くん」

「え? えーっと……あ、手袋! 長元が手袋をしていたこと、ですよね!」

「そうね、ちゃんと話を聴いていてえらいわ」

「へへへー」


先輩からの褒め言葉は非常に珍しい。歓びながらも、録音しておけばよかったと密かに後悔する。そんな俺を後目に、先輩は飄々と続ける。


「そもそもどうして長元は手袋をしていたのかしら?まだ六月の半ばだというのに。しかも死んだときも身につけていたってことは、室内でも手袋をしていたってことになるじゃない?」

「指紋が残るのを避けたんじゃないですか? ほら、梓さんに来客者が来たってバレちゃまずいでしょ?」

「あら、不思議なことを言うのね。指紋が残ってるかどうかなんて、一般人にわかるかしら。仮にわかったとしても誰のものかなんて調べようがないじゃない」


たしかに。スマートに正論をぶつけられて俺は早くもお手上げだ。

するとそれまで黙りこくっていた野間紙さんが、唐突に声をあげた。


「わかった……長元は、妻を殺す気だったんだ!」

「は!?」

「ドラマとかであるだろう、犯人が手袋をつけて人を殺すあれだよ……! そうすれば室内でも手袋をしていた説明がつく」


突飛な推理に驚く俺を余所に、野間紙さんはえらく興奮した様子で語り続ける。


「事故だったと言いましたよね? つまり長元は妻を殺そうとして、誤って転落してしまったんだ!!」

「私が言ったのは『最初は事故だった』ですよ、野間紙さん」


揚々と語る野間紙さんを止めた先輩は、少しだけあきれ顔だ。


「長元にとって奥様は貴重な金づる……もとい、顧客です。殺す理由がありませんわ。万里小路くんよりはマシですが、そんな複雑な話じゃありませんよ。事実はいつもシンプルです」


さりげなく俺の心を傷つけながら、先輩は改めて紅茶に口をつける。血なまぐさい会話の内容と噛みあわない美しさ。それを絵画のように鑑賞しながら、俺と野間紙さんは続く言葉を待った。

桃色の唇が開かれる。


「長元は、潔癖症だったのですよ」


今日はその単語をよく聴く日だな、と思った。


「ここでいう潔癖症は野間紙さんとは違い、物質的なほう……たとえば、埃の積もった部屋で飲食をしようものなら発狂する。そういう潔癖症です」

「け、潔癖症の、ヤクの売人? え、なんかすごく、汚れに慣れてそうですけど」

「野間紙さんとは真逆で、心理的な汚れはまったく気にしない性質なのでしょう。ワイドショーで彼の経歴を見たときから不思議だったんですよ。あの手の、いわゆるチンピラが真っ先に行いそうな、傷害事件の前科がありませんでしたからね」


肉体的に人を傷つければ、多かれ少なかれ汚れますものね。

そんなことをさらりと言い放って、先輩は麗しく笑う。言葉と表情のミスマッチがいっそ清々しいほどだ。


「つまりあの手袋は、長元を守る砦だった。そう考えれば、室内であろうと外さないのは当然ですよね。彼にとっては他人の家なんて、雑菌と汚物の温床でしかなかったのでしょう」

「待ってください!」


口を挟んだのは野間紙さんだ。


「長元が潔癖症だからって何なんです? それが事件とどうかかわるっていうんです? あなたは……何を証明しようとしているんですか?」

「私はただ、調理をしているだけですわ」

「……調理?」


この場で、この話の流れで、その単語に出会うなんて思いもしなかったのだろう。野間紙さんはただ、先輩の言葉を反芻した。反芻するだけで精一杯だったのだ。

さて、と先輩は仕切り直すようにつぶやいた。


「手袋をつけていた理由ははっきりしました。それでは逆に、なぜ長元の死体が片方しか手袋をしていなかったかを考えてみましょうか」

「片方しか……?」

「万里小路くんの脳は、海馬の代わりに石でも入っているのかしら……長元の手袋は、片方は彼の手に、もう片方は彼の死体のそばに落ちていた。そうでしたね、野間紙さん」


えぇ、と戸惑いながら野間紙さんが頷く。


「そう聴いております」

「長元が潔癖症という事実を踏まえると、彼が自ら外すとは考えにくい。けれどそんなことは関係なしに、手袋を外さなければならない行為があったとしたら?」

「手袋を嵌めたままだとできない行為……ってことですか?」


そうよ、と頷いて、先輩は胸ポケットからそれを取り出した。それは今や誰もが当然のように持っているものだった。


「スマートフォン……ですか」

「えぇ。長元が身につけていたのは革手袋と聴いております。外さなければスマートフォンの操作は難しいでしょう」


なるほど、だから片方だけ外していたわけだ。スマートフォンなら、操作は片手で事足りる。


「長元のスマートフォンは現場から見つかっていますか?」

「……これは、マスコミには発表していないことですが……自首の際に、葛城くんが持ってきたのです。それが、決め手になったそうで」


俺は素直に驚いた。葛城さんの自首を警察が受け入れたのにはちゃんと証拠があったらしい。

しかし先輩は予想通りとでも言いたげに口元を緩めた。


「スマートフォンは、奥様が長元から奪ったのでしょう。そしてそれを使って、葛城さんは自首をなさった」

「……なぜ、妻はスマートフォンなど……」

「これは、あくまで私の推測ですが」


そう前置きして、先輩は続けた。


「奥様は買ったその場で麻薬を服用したんじゃないかしら。あれは依存度が高いものですからね。長元から以前買った分を使い切り、あの日まで我慢していたとしたら……手に入ったその場で吸引してもおかしくはないでしょう。長元は売人ではあったが麻薬の服用歴はなかった。だから奥様が服用しているその間、長元はベランダに出ている必要があったのでしょう。健常者からすると、麻薬の臭いはひどく堪えると聴いたことがありますわ」


ティーカップとセットのシュガーポットからスプーン一杯の砂糖を掬うと、先輩はこれ見よがしに白いそれを紅茶の海へ降らせた。


「ベランダで長元は手袋を外し、スマートフォンを触っていた。吸引を終えた奥様は、その長元を呼びに行き、見てしまったんじゃないかしら」

「見たって……」

「長元が撮影した、麻薬を吸引する奥様の写真を」


野間紙さんの顔色がサッと変わる。恐ろしい想像に行き着いた顔だった。


「証券会社の社長夫人が麻薬を吸う写真……抜群の脅迫材料でしょうね」

「そんな……」

「あら、不思議なことではありませんよ。長元はもともと恐喝や脅迫で生計を立てるチンピラでしたもの。麻薬はそんな彼にとって定期収入と言ってもいい。保険をかけるのは当然でしょう」


先輩はティースプーンで優雅に紅茶を掻き回しながら、さらりとそんなことを言う。


「奥様は当然それを消すよう懇願するでしょうね。けれど長元がそれを聞き入れる理由はなかった。ふたりは言い合いになり……スマートフォンの奪い合いになったんじゃないかしら。狭いベランダ、スペースには限りがある。おそらく長元はベランダの手摺りを背に、スマートフォンを持っていたのでしょう。そして……スマートフォンを落としかけた」

「……落としかけた?」


先輩の言葉が引っかかったのか、野間紙さんが首を傾げた。それに対して先輩は、机上に置いた自身のスマートフォンを細い指でトントン、と叩いてみせる。


「落としたのなら、スマートフォンは壊れるでしょう。なにせ高層マンションの最上階ですもの。けれどあなたはそうは言わなかった」

「たしかに……スマートフォンは至って普通で、データも残っていたと聴きました」

「間一髪のところで長元が掴んだのでしょう。彼にとっては大事な商売道具ですからね。長元はベランダの手摺りを掴み、もう片方の手を伸ばしてスマートフォンを掴んだ。つまり、干された布団のような状態でベランダの手摺りに身を預けることになった」


それは想像に難くない光景だった。


「その背を、奥様が押した」


先輩の言葉に、俺も、野間紙さんも、何も言えなかった。だって思ってしまったのだ。先輩が言うより早く、その可能性を。


「ところが長元は落ちなかった。間一髪、ベランダの手摺りにでもしがみついて、墜落を防いだ」

「!」

「さっきも言ったように、長元がそのまま落ちたならスマートフォンも一緒に地面に叩きつけられているはずでしょう? けれどそうじゃなかった。おそらく奥様は助ける代わりに、スマートフォンを寄越せと迫ったのね」


わかりやすい構図だ。いまにも落ちそうな人間に、それを寄越せと脅迫する人間。その立ち位置が逆であればまだ救われたと、たぶん野間紙さんは思っているんだろう。


「長元は言う通りにした。スマートフォンを奥様に渡して、助けを乞うた。彼にしてみれば、助かったあとに奪い返せばいいだけですものね。そして奥様も、彼を助けようとしたのでしょう。スマートフォンさえ手に入れば、彼を殺す必要なんてないですものね」

「じゃあ…どうして長元は…」

「万里小路くん、あなたが同じ立場なら右手と左手、どちらを奥様に伸ばすかしら」


突然向けられた問いかけに、俺はわずかに戸惑う。少し考えてから右手を差し出した俺に、そうね、と先輩が続けた。


「人は無意識に利き手を差し出すものだわ。いままさに落ちようとしたのなら、なおさら。つまり長元はスマートフォンを触っていたほうの手で、ベランダの手摺りにしがみついていたはずなのよ。その手を、奥様は掴んだ。当然引き上げるためにね。けれど、それが素手だとしたら?」

「……あっ」


スマートフォンを触っていた手は、当然素手だろう。でなければ、タッチパネルは反応しない。つまり長元は剥き出しの手で、ベランダの手摺りに掴まっていたのだ。


「手摺りに掴まっている時点で、彼には苦行だったでしょう。自身の手が汚されていく感覚に、それでも必死に我慢していた。そこに、無遠慮に触れられたら?」


長元は潔癖症だった。その手に、手袋を嵌めていない手に、もし誰かが触れたら。


「長元は、奥様の手を振り払った。そして、墜落したのよ」


不謹慎ながら、俺は思わず笑ってしまった。あまりにも滑稽だ。命よりも清潔感を選んだ長元という男の幕切れは、あまりにもあっけないものだった。

そんな俺を咎めもせず、先輩は紅茶に口をつける。野間紙さんはといえば、ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱していた。


「……事故だ。そうでしょう? 妻は、長元を救おうとしたのです」

「その主張は、その場で救急車を呼ぶなり、通報した方のみ許されるものです。見ない振りをして、葛城さんを身代わりにした時点で、完全な事故ではなくなると思いませんか」


何か反論しようとして、野間紙さんは顔を上げた。そこに紳士の面影はない。ぼろぼろでぐちゃぐちゃの、ただの男だった。

無慈悲なほど静かに、先輩が続ける。


「梓さんと葛城さんが帰ってきたとき、すでにすべては終わっていたのでしょう。奥様はおふたりにことの真相を打ち明けた。ベランダの下に人の死体があれば、隠しようがありませんからね。おふたりは長元を梓さんのストーカーということにして、その末の正当防衛であると、こうしようと思った。だから梓さんの部屋を荒らし、口裏を合わせた。長元というストーカーが部屋を物色していて、自分たちはそれを見てしまったのだ、とこういう風に。奥様が奪ったスマートフォンは、画像を削除してから、証拠として葛城さんが持参したのでしょうね。すべては奥様と、あなたを守るためのこと」

「……私、を?」

「あぁ失礼、違いますね。正しくは、野間紙証券会社の社長であるあなたの地位と……あなたのプライドを守るため、でしょうか」


ガラガラと、音が聞こえる。それは最後の最後、野間紙さんの中に僅かに残った希望や可能性が崩れさる音だったのかもしれない。実際は先輩が立ち上がり、窓を閉めた音だったのだけれど。

絶望した人間とはこういう顔をしているのだな、なんてことを思いながら、俺は新しいティーカップに紅茶を入れて彼の前に置いてやった。せめてもの慰めだ。


「……私は、どうすれば……」


何かにしがみつきたいのだろう、よろよろと呟いた野間紙さんに、しかし先輩は淡々と言い放つ。


「さぁ、お任せいたしますわ。私は真実を明らかにしてくれという依頼に応えただけですもの。その真実を受けてあなたがどうするか、どうしたいかは、あなただけのものです」

「……」

「ただ、そうね、小娘の戯言ですけれど」


そう前置きして、先輩は微笑んだ。弧を描く口元と、一切緩まぬ目元のコントラストがいっそ眩しい。


「良い旦那さま、お父さまになってみたらいかがかしら。あなたにできることなんて、それくらいでしょう」


包丁で胸の傷口を突っつくような、一歩間違えばトドメを刺すような先輩の言葉に、野間紙さんが何を思ったかは俺にはわからない。ただ彼は姿勢を正し、深く頭を下げた。


「……お代は」

「いえ、もうすっかりいただきました」


ごちそうさまでした。

そう言ってうっとりと腹を撫でる先輩に、野間紙さんが何かを言うことはなかった。ただ少し訝しげにするだけで、また頭を下げる。そして入ってきたときと同じく、紳士のような振る舞いで去っていった。


張り詰めた空気が弛緩する。気づけば窓から差し込む光はオレンジ色を帯びていた。


「……はぁ、ビビった〜……先輩、無駄にお客さん煽るのいい加減やめません?」

「あら、煽るだなんて。私は調理をしているだけよ。おかげでとても美味しかったわ……」


そんなことをのたまうと、先輩は満足気に微笑んで見せる。俺は途中からずっと気になっていたことを問いかけた。


「それで、今回の依頼人はどなただったんですか? やっぱり梓さん?」

「えぇ」

「ああ、やっぱり! 人が悪いなぁ……俺も会いたかったです!」

「いつも言っているでしょう。あなたという何も知らない凡人の存在が、ターゲットを刺激して説得を受け入れやすくするものよ」


……さて、ここで種明かしだ。カンの良い人はきっと気付いているだろうけど、先輩は名探偵ではない。いや、「テレビでいうところの名探偵」ではない……だろうか。彼らは推理を組み立てて真実を暴くものだが、先輩はそうではないのだ。

なぜなら先輩は数日前に、すでに梓さんからことの真相を聴いていたのだから。


今回のお客様はたしかに野間紙さんだった。だが宗一郎さんではない。娘の梓さんこそが、俺たちの本当の依頼人なのである。

依頼内容は「父に真実を伝えること」だった。


「梓さんによれば、お母さま……凛子(りんこ)さん、というらしいのだけど、彼女はもう自分の罪をすっかり飲み込んで、罰を受ける心づもりだというの。けれど宗一郎さんを納得させなければ、いくら自首をしようときっと力ずくで取り消されてしまう。そうなったときに、凛子さんに危険が及ぶ可能性を考えると言い出せなかったそうよ」

「それで先輩に依頼を……」

「まぁ麻薬の話はさすがに刑事さんにも黙っていたようだけど」


当たったみたいでよかった。そんなことを言ってコロコロと笑うのだから、恐ろしい人だと思う。麻薬の話……つまり今回の事件の「謎」はちゃんと解いていたらしい。

梓さんも葛城さんも、純粋に凛子さんの身を案じていたのだろう。だからこそ懇意にしている刑事の伝手で、先輩に辿りついた。そしてその話の中に、先輩は「隠された謎」を見出した。でなければ、この人が依頼を引き受けるはずもない。


先輩は探偵を名乗ってはいるが、真実にはさほど興味がない。それを暴けと言われれば暴くだけだし、今回のように、相手を説得するためだけに材料を集め、あたかも推理のように披露することもある。

本来探偵の仕事は謎解きに限らない。依頼人の依頼をまっとうすることがすべてだ、というのが先輩の持論なのだ。


どうしてそんな面倒なことをするのか、と質問した俺に、先輩は桜の下を暴きながらこう告げた。


「私は歪(いびつ)を食べたいの」

「イビツ?」

「美味しいの、とっても」


先輩の言うことはひとつも理解できなかったが、その笑顔がこの世のものと思えないほど綺麗だったので、どうでもよくなった。

先輩は歪を愛している。心の底から。そして、歪は謎の中にこそ溢れているのだという。


「謎というのは、誰かが嘘をついたり、何かを隠したり、つじつまを合わせたり、そうすることで産まれた矛盾を言うの。その中には、歪が満ち満ちている。だから私は、それに一番触れやすい方法をとっているだけよ」


そんな言葉を聴きながら、一緒に桜の下を埋め直した。女神のような顔で悪魔みたいなことを言うこの人に、俺はすっかり夢中になってしまっていた。

そして俺は警察庁の警視の息子というコネクションをすべて提供することを条件に、探偵倶楽部への入部を果たした。この世に蔓延る謎にも歪にも、正直なところ興味はない。ただ、惚れた女性の力になってこそ男だろうとは思う。



翌日は朝からどのチャンネルも野間紙証券のニュースでいっぱいだった。社長夫人がストーカー事件の真犯人であることを自白し、責任をとって社長も退陣するという内容だった。それまで黒字経営だった野間紙証券の株価は一夜にして大暴落。今期の赤字は免れないという。


放課後、いつものように部室を訪れると、速達で荷物が届いていた。添えられていた手紙を読んだ先輩が小さく笑う。


「奥様と一緒に、昨夜のうちに出頭されたんですって。葛城さん、梓さんは容疑者秘匿の罪に問われることになるでしょうけれど……待つつもりみたい。四人で住める家を探すらしいわ」

「そうですか……意外ですね。てっきり離婚問題に発展するかと」

「また怒られそうだけれど……奥様が殺した潔癖症はひとりだけじゃなかったみたいね」


本当に怒られそうだな、と思う。けれど俺はすっかり納得してしまったし、先輩が楽しそうなのでよしとする。

梱包をほどくと、ずいぶんと立派な缶が出てきた。


「これは?」

「茶葉ね。英国王室御用達の……最高級品よ」


それはあからさまに高そうな紅茶だった。野間紙さんなりの謝礼、なのかもしれない。

まじまじと缶を眺める俺に、先輩がティーカップを差し出す。


「入れてくださる? それとも茶葉は初めてかしら?」

「そうですね……うちはコーヒー党なんで。でも任せてください。先輩が満足する一杯を入れてみせますよ!」

「あら、頼もしいこと」

「先輩を喜ばせることが俺の部活動ですからね!」


自信満々に返せば、先輩がきょとんとした顔になる。それまで浮かべていた優雅な笑みを引っ込めて、なんだか不思議なものを見るような目になって。

それからくしゃりと顔を歪めるようにして、笑った。


「万里小路くんは、本当に下心しかない男ね」


ちっとも美味しくないわ、と言われて少し反省する。先輩の腹を膨らませられないのは申し訳ないことだ。けれどまっすぐな言葉を、歪のかけらもない思いをぶつけられたときに見せる先輩の笑い方が、目元をくしゃくしゃにする笑顔が、俺は一番好きなのだ。

その笑顔を見るために、俺は今日も先輩の役に立つ。


「先輩、今日もお客さんが来ますよ」

「あら……じゃあそれまでに紅茶の用意を済ませなさいな」

「はい!」


都立浅葱高校、一階。来客用玄関を右手に曲がった奥の部屋。そこが、先輩と俺の青春の場所。

埃にまみれた部屋に、今日も小さくベルが鳴る。


「ようこそ、探偵倶楽部へ」

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潔癖症の殺し方 赤屋いつき @gracia13

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