事件概要
紅茶を一口飲んで、野間紙さんは話し始めた。
「西新宿の、ストーカー転落事件をご存知でしょうか」
それは最近ニュースを騒がせている、ひとつの事件の通称だった。事のあらましはこうだ。
被害者の名前は、長元(ながもと)。新宿を根城にするチンピラで、麻薬の売人もしていたという。恐喝や空き巣、詐欺で数回少年院に入ったこともあり、成人してからも変わらず警察とやり合う仲だったらしい。ずいぶんとヤンチャな男だったようだ。
彼が変わり果てた姿で見つかったのは、ちょうど一週間前。あるマンションの駐車場で、頭から血を流して死んでいるのが発見された。高所から落ちて、頭を強打したらしい。警察の見立てでは即死だったという。
死体は片手のみ手袋をはめており、もう片方は死体のそばに落ちていた。その不自然な状況から、高層階を狙った泥棒がうっかり落ちたようにも見えたという。
自殺か、事故か。そんな推論が飛ぶ暇もなかった。長元が発見された翌日、ひとりの男性が自首をしたのだ。容疑者の名は葛城(かつらぎ)。証券会社に勤める、真面目なサラリーマンだった。
彼の恋人は長元に執拗なストーカー行為を受けていた。恋人の部屋に侵入した男を見つけた彼は、その男……長元と口論になり、勢いでベランダから突き落としてしまったらしかった。
事件の経緯と、容疑者が近所でも評判の好青年であったこと、被害者が前科のあるストーカーだということも合わさって、世論は葛城に同情的だった。正当防衛を主張する動きもあるようだ。
俺が連日のニュースで知っている限り、この事件は解決に向かっている。それを裏付けるように、ワイドショーで取り上げられることも少なくなった事件だ。
しかし、野間紙さんにとってはそうではないらしい。
「野間紙さんと、その事件のご関係を伺ってもよろしいですか?」
「はい。容疑者の葛城くんは、私の娘の恋人なのです」
「えっ……じゃあもしかして、ストーカーを受けていた被害女性っていうのは……」
「はい、私の娘です。お恥ずかしい話ですが娘……梓(あずさ)がストーカーに遭っていたなんて、私は少しも知りませんでした。仕事が忙しく、家庭は妻に任せきりで……私がもう少し気にかけてやっていれば、葛城くんが巻き込まれることもなかっただろうに……」
そう言うと、野間紙さんは口惜しそうに表情を歪めた。
「葛城くんは前途洋々な若者です。仕事ぶりはもちろん、やさしく快活で気持ちのいい青年なのです。彼の人生がこんなことで終わってしまうなど、耐えられることではありません」
「野間紙さんは、葛城さんをずいぶんと買っていらっしゃるのですね」
「はい。梓は一人娘で、少しばかり世間知らずの気があります。最初に恋人を連れてくると聴いたときはどんな輩を見とめたのか、心配でたまりませんでしたが……もったいないほどよく出来た方なのです。あんなに良い人材を採用するなんて、手前味噌ですが、自分の会社の人事課を誇りに思いましたよ」
「ああ、やっぱり。野間紙証券といえば有名ですものね。そちらの社長さんでいらっしゃいましたか」
珍しい苗字ですものね、と話す先輩を横目に、俺はようやくその名を思い出していた。テレビのCMも流している、なかなか大きな会社だったはずだ。
しかし野間紙さんは謙遜するばかりだった。
「仕事ばかりで、父親らしいことをしてやれた試しもありませんが。葛城くんが捕まって、娘は部屋から出てこなくなってしまいました。……警視とは古い知人の紹介で出会いましてね。相談したところ、こちらを紹介してくだすったのです」
「ご依頼は、葛城さんの無実を証明することでしょうか」
「いえ」
野間紙さんは意を決したように話し始めた。
「事件の真相を明らかにしていただきたいのです」
「……と仰いますと?」
「私は、梓が長元を殺したのではないかと思っているんです」
「は?」
思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。途端に集中する視線に、俺は慌てて頭を振る。
「す、すみません、でも……どうしてですか? 娘さん……なんですよね?」
「……だからこそです。葛城くんが犯人でないのなら、彼が自首した理由はひとつしかないでしょう」
野間紙さんの顔は苦しそうに歪んでいた。俺はそこでようやく、彼の言わんとしていることがわかった。
「……梓さんを庇うため……」
「そうです。梓は、長元のストーカー行為に苦しめられていた。だから、長元を殺してしまった……そして、葛城くんはそんな梓を守るために自首をした。私には、そうとしか考えられないのです」
そう言うと野間紙さんは深く息をつき、項垂れてしまった。自身の導き出した答えに、絶望するように。
俺にかけられる言葉はなかった。沈黙が痛い。それを破ったのは、先輩の言葉だった。
「事情はわかりました。美味しそうですし……お引き受けしましょう」
「美味しそう……?」
「気にしないでください! でも先輩。俺は反対ですよ」
「あら、珍しい。根拠を聞かせてくださる?」
「だって真相を明らかにするってことは、葛城さんじゃなくて梓さんが犯人だって証明するってことでしょ? 女性を悲しませるのは本意じゃあありません!」
「……万里小路くん、梓さんはすでに悲しんでいらっしゃるわ。恋人が逮捕されてね」
「うっ」
未成年の主張は正論の矛でひと突きにされた。
「それに、私は梓さんが犯人だなんて思っていませんの」
「それは……」
葛城さんが犯人ということか。
そう尋ねようとして、野間紙さんは口を閉じたようだった。そんな彼に、先輩は再び向き直る。
「野間紙さん、ひとつ伺ってもよろしくて?」
「なんでしょう」
「件のマンションは、ずいぶんと高級な立地にあると聴きましてね。しかも梓さんの部屋は最上階だったっていうじゃありませんか。ワイドショーでもね、ちょっと驚かれていましたのよ。二十代の女性が住めるようなところではないと。……もしかして、マンションは野間紙さんが購入したものではないかしら?」
先輩はワイドショーを好んでよく見ている。それにしたってよくもまぁコメンテーターのなにげない言葉を覚えているものだ。
野間紙さんも少し驚いたようだった。
「仰る通りです。あのマンションは私が梓と母親……妻に与えました。妻は、少々心身を病んでおりまして……梓が看病をしてくれていたのです。あのマンションのとなりには病院がありまして、あれの主治医が常駐していますから、夜間でも応対してもらえるようにと」
「では野間紙さんは、一緒には住んでいなかったのですね」
「はい。私は会社のそばのホテルに泊まっています。お恥ずかしい話ですが……あれは、私がいないほうが、気分が良いのだそうです。ですから会いに行くのは月に一度だけで、あとは梓に任せきりでした」
「なるほど。葛城さんもそのことはご承知でしたのね?」
「はい。葛城くんには私が直接お願いしました。いざというときに男手が必要になったときは、梓を手伝ってやってほしいと。責任感の強い彼のことです。犯人を名乗り出たのも、そのせいかもしれません」
そこまで聴いて、先輩は少し考えるようなそぶりを見せた。しかしすぐに顔を上げる。
「もうひとつ。長元の死体は平日の夕方に発見されたそうですね。平日の昼間に、梓さんや葛城さんが家にいることは少ないのでしょうか?」
「はい、梓は大学がありますし……葛城くんも、会社員ですから。ただ事件の日は、葛城くんのお父さまの命日で、午後は会社を休んでいたと聴いています。梓も授業のない日だったらしく、一緒に墓参りに行ったあと、部屋で長元に鉢合わせたとか」
「そのお話は梓さんから?」
「いえ、梓は事件以降すっかり参ってしまって……部屋に閉じこもって、何の連絡も寄越さないのです。ですので昨夜、警察に行って葛城くんと面会を」
「あら、強引な手に出ましたのね」
「お恥ずかしい話です……ですが、このままですと本当に葛城くんが犯人になってしまう。それだけは避けたいのです」
「奥様には何かお話を聴いていないのでしょうか」
「……あれは、いわゆる心神喪失といいますか……話ができるような状態ではないのです。刑事さんのお話ですと、長元が荒らしたのは梓の部屋だけでしたので、おそらく姿も見てはいないのではないかと」
「なるほど……」
そして先輩は、小さく口元を緩めた。それが舌なめずりだとわかるのは、きっと俺だけだろう。
「まず、葛城さんの容疑はすぐ晴れるでしょう」
「本当ですか!?」
「自首といってもね、ちゃんと裏付け捜査はするんですのよ。彼には、長元を殺す動機があったかもしれない。でもどうやってあそこに長元を呼び出したのか、それを葛城さんは説明できないでしょう。なぜなら葛城さんと長元は、事件の日が初対面だったのだから」
「……ん? 先輩。話が違いませんか?」
割って入った俺に、先輩はその冷ややかな視線を向けた。何も言わないことを続けてよしと捉えて、俺は記憶を手繰り寄せた。
「テレビでは、被害者……長元は、梓さんが留守の隙に家に押し入った。そこに葛城さんと梓さんが帰ってきた、と言っていました。野間紙さんのお話でも同じだったはずです。だいたいストーカーの長元が誰に呼び出されたっていうんです?」
「そんなの犯人に決まっているじゃない」
俺の疑問を、先輩はまるで時候の挨拶でも交わすように退けた。
驚いたのは野間紙さんだ。
「犯人がわかったんですか!?」
「えぇ。……ただね、野間紙さん」
そこでいったん言葉を切って、先輩はまっすぐに野間紙さんを見つめた。
「真実がいつも美しいとは限りませんわ。それでもよろしくて?」
先輩の言葉にはなんというか、隠しきれない毒がある。言葉遣いが丁寧な割に、感情が伴ってないのだ。芸術のように可憐なかんばせが、にこりともしないのと同じ。慇懃無礼という四字熟語が、異様に似合う人だと思う。
そんな先輩に気圧されたのか、野間紙さんはすっかり黙ってしまった。それでも深く下げた彼の頭に、先輩はまた少し、口元を緩めたようだった。
「あれは事故だったのですよ、そう……最初は」
「事故? って……」
思わず先輩の言葉を反復する。事故。それはつまり、長元が何らかの理由でベランダの手すりに飛び乗って、バランスを崩して落下したと、そういうことか。
そんな俺の推測をよそに、先輩は『死因』ではなく『ある人物』に焦点を当てたようだった。
「長元は麻薬の売人だった。ワイドショーであれだけ騒がれていながら、野間紙さん、あなたはそのことに少しも触れませんでしたね」
「はぁ……そうですね、私にとって彼は売人ではなく、ストーカーですから」
「そう。人はいつだって『自分にとってその人が何者か』という立ち位置で他人のことを呼ぶのです。だからこそ世間にとって長元は『被害者』であり、あなたにとって『ストーカー』だった」
「……仰っている意味がよく……」
「あら、ごめんなさい。では単刀直入に。野間紙さん、あなた、梓さんや葛城さんのことはきちんと名前で呼ぶのに、奥様のことは『妻』や『あれ』と呼んでいること、お気づきかしら」
そこで初めて、野間紙さんは血相を変えた。血の気が引く、とはこういう表情を言うのだろう。ひとつ賢くなった気分だ。
先輩はまったく気にする素振りも見せずに続けた。
「夫婦関係のことを外野がとやかく言うのはナンセンスでしょうけど、あえて言わせていただくなら。あなたは梓さんや葛城さんとは別の感情を奥様に抱いている。倦怠期とか、マンネリとか、そういうかわいいものではなくて……汚点、かしら。あなたはどこかで奥様の存在を、疎ましく思っている」
「し、失礼な! そんなことは今回の事件とは関係ないでしょう!?」
「関係あるんですのよ、大いにね」
野間紙さんが声を荒げるのも無理はない。先輩は明らかに喧嘩を売っている。けれど一歩も引かず、躊躇わず、声のひとつも震わせないで、先輩は続けた。
「そもそも奥様が心神喪失に陥ったのはなぜかしら。大企業の社長夫人で、優秀な恋人を持つ娘がいて、一等地の高層マンションを与えられて……何が彼女の心身を蝕んだのかしら」
「……それは……」
「野間紙さん、あなた、潔癖症ではなくて?」
先輩の言葉に、俺は思わず声をあげてしまった。
「いや、先輩、それはないですよ! だって野間紙さんはこの部屋にふつうに入ってこれたじゃないですか! 潔癖症の風紀委員長が入室拒否したこの部屋にですよ?」
「万里小路くん、あなたは少し黙りなさいな」
ピシャリと叱りつけられて、さすがに少し落ち込む。そんな俺を気にもとめず、先輩は野間紙さんを見ている。視線を追えば、彼は今にも倒れそうな顔色をしていた。
「あらら〜大丈夫ですか? 水飲みます?」
「い、いえ、平気です……」
浮かせかけた腰をソファに下ろし、野間紙さんは紅茶を飲み干した。すっかり冷めたそれは、もう苦味しか残っていないだろう。けれど味わう余力さえないのか、野間紙さんの表情はちっとも変わらなかった。
「潔癖症には二種類ありますのよ。物質的な潔癖症と、心理的な潔癖症……とでもいいましょうか。前者は汚いものに触れない……たとえばこんな埃まみれの部屋で飲食なんてとてもできないでしょうね」
これでも掃除はしてるんですけどね、と付け加えながらも先輩はどこか諦めたような口ぶりだ。
「一方、後者は卑劣な行いや犯罪行為など、いわゆる反社会的なものを許せない。怠惰や堕落や欲望に忠実な姿をよしとしない。あなたはこちらのタイプなのでしょう。なるほど、大企業の社長としてはご立派ですわ。証券会社は信用が命……不祥事やスキャンダルはご法度ですものね」
「……仰るとおり、少しばかり潔癖かもしれません。しかし、それのどこがいけないのです?私は社長として、社員の生活を守る義務がある!」
「えぇ、あなたは間違っていないと思います。ですが……父親として、夫としては、どうだったのかしら」
そして先輩は、棚から一冊のスクラップブックを取り出した。それは先輩が「美味しそう」だと判断した事件の記事を集めたもので、先輩にとってはレストランのメニューに匹敵するものらしい。
「あなたは奥様にも潔白を求めた。完璧を求めた。社長夫人としてかくあれ、と。その抑圧が、奥様の心身を歪めてしまったのではなくて?」
「……たしかに、妻がああなった原因は重度のストレスだと聴いています。しかし私は、抑圧したことなどありません。野間紙の人間として、当たり前の振る舞いをするように言っただけです」
「……そうですか。あぁ、ありました」
先輩はスクラップブックの、とあるページを野間紙さんに見せた。
それは週刊誌の記事だった。麻薬を求める主婦たち……なかなか官能的なタイトルだ。それによれば繁華街を根城にしていた麻薬の売人が、ターゲットを住宅街の主婦に変えたという。主婦というのは同じことを毎日、延々繰り返さなければならない。そのくせ、ほかの仕事に比べて感謝されることが圧倒的に少ない……それがどんなにむなしいことか、あまり想像したくはないけれど。そのストレスの捌け口として、麻薬に手を出してしまう主婦が増えているらしい。
そんな記事の概略を聴いただけで、野間紙さんはあからさまに顔を顰める。これは相当な潔癖症ってやつだ。
「……こんなのは、弱い人間が数人引っかかるだけでしょう。私はどうも、こういうことが苦手なようだ……真面目に生きている大勢の人間が、バカにされているように感じてしまうのです」
「健常的な判断です。けれど、それは強者の意見でもあると思いませんこと?」
「……どういう意味です?」
「追い詰められた人間に……心を踏みにじられた人間に、果たして正常な判断を下す余裕があったのか? というお話ですよ」
先輩はスクラップブックを閉じて、野間紙さんに向き直った。
「さて、今回の事件のポイントはみっつ。ひとつめは事件が平日の昼間に起きたこと。ふたつめは荒らされていたのが梓さんの部屋だけということ。みっつめは……長元が手袋をしていたこと」
「……どういうことです?」
「少しは自分で考えなさいな、万里小路くん」
「ええ……まぁそう言わずに。解決編といきましょう、先輩!」
早々に考えることを放棄した俺を見て、先輩はやれやれとため息をつく。
依頼に関する俺の仕事は、先輩の邪魔をしないことと、美味い紅茶を淹れることだけなのだ。
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