理
白川津 中々
第1話
漠然とした憧れというのは、人を絶望させるのに十分な毒性を持つ。
湿った熱波が吹く夜。夏の到来を迎え、陽が沈んでも大粒の汗が人々の肌から滴っていた。
それは木谷も例外ではなかった。なかったのだが、彼の額から滝のように汗を垂れ流させているのは、太陽が残した不快な置き土産以外にも別の理由があった。
木谷が大きく肩を上下させながら息を切らせているのは、そこまで走ってきたからに他ならなかった。いったい彼がなぜ、暑く、深い夜に疾走したのか。いってしまえば、逃走である。
夜の店で法外な値段を請求され有り金を巻き上げられた挙句、「まだ足らぬ」と、およそまともな職に就いていないだろうという事が想像できる三人の男達に凄まれ金を下ろしに行くよう命令された。小心である彼は抗おうともせず、黙ってコンビニまで連行されたのだが隙を見つけ逃げ出し、ようやく危機から脱したのであった。
木谷はビルにもたれかかり、酒と運動によって生じたであろう吐き気に耐え兼ね吐瀉物をひび割れたアスファルトにぶちまけた後、乾いた笑いを上げながら涙を流した。
「帰りたい……」
山が立ち並ぶ田舎から出てきた初日。憧れであった首都東京で、彼は人の悪意を初めて経験し、早くも産まれ育った故郷に帰りたいと弱音を吐いた。その姿は滑稽で愚かであったが、悲しくもあった。彼は僅かながらの賃金を必死に溜め込み、やはり僅かながらの貯金を頼りに上京したのであったが、完全にのぼせ上がってしまいこの日だけで二十万もの金を、悪漢達に奪われるまでに使ってしまっていた。そして、先の店で更に二十万を支払い、彼が蓄えていた金も、同じく二十万となってしまったのである。なんとも救い難く、哀れな話ではないか。
一時間が経った。空は太陽の光をゆっくりと延ばし、小さな星々から輝きを奪っていく。木谷は相変わらず涙を流しながら、自ら吐き出した汚物を眺め続けていた。それを見た数少ない人々は、こぞって彼を指差し笑った。その嘲笑が、木谷以外の新たな若者に向けられる日も遠からずやって来るだろう。世界とは、愚者を貪り生存しているのである。
理 白川津 中々 @taka1212384
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