第40話〈カノーネの恋人〉の提案
デダラスが遠ざかると、ヒメルは戦闘中に穴の開いた建物に近づいた。そこは最後にブリジットが背にしていた建物である。ヒメルはその内部に躊躇なく足を踏み入れた。
『どうした。確かめなくても、あいつが生きていないってことくらいは分かるだろう』
ゲアハルトがそう言った。彼にしては怖気づいたような口調だった。
屋内に入ってすぐにブリジットは見つかった。照明が消えて薄暗いなかで、金色の髪を扇状に広げて仰向けに横たわっている。その顔は生気を感じられないほどに儚い。
『ほらな。あの攻撃を食らって生きているはずがないんだ。さっさと戻ろう……、いや、待てよ。それにしては欠損が少ないな』
ゲアハルトが指摘したように、ブリジットの肉体は五体満足だった。焦げ目と煤が全身を包んでいるが、最後にヒメルの集中砲火を浴びたにしては損傷の度合いが軽い。
「生きているといいんだけどね」
ヒメルがそう口にすると、その声に反応したようにブリジットが薄目を開いた。まだ意識が夢との境界上にあるのか、その瞳は鮮明さを欠いている。
『生きている!? ヒメル、お前がやったんだな。妙だとは思ったんだ。円筒弾の爆発が小さいから、演算を誤ったものだとばかり』
「苦労したわ。適度な火薬量を調整するのにね」
『笑い事じゃない! 威力が不足していればお前が死んでいるところだったんだぞ!』
霞みがかった頭でブリジットが焦点を彷徨わせる。その先にヒメルの姿を見出すと、驚いて上体を跳ね起きさせた。途端に苦痛が体内を駆け巡ったのか小さく呻く。
「そんなに慌てなくてもいいじゃない。戦いは終わっているんだから」
「〈カノーネの恋人〉……! なぜ私を殺さなかった。情けのつもり!? だとしたら、そんなもんクソ食らえだわ!」
激昂するブリジットを宥めるためか、ヒメルは穏やかに話した。
「落ち着いてよ。私だって情けに限りがあるんだから、あんたにかける分なんてないわよ」
「じゃあ、何だっての。私を嘲るため? 嗤うため? 苦しめるため? どれよ」
「あんた、発想に偏りがあるわね。善意だとしたら、どうするの」
「信じられるか!」
ブリジットが右手で身体を引きずり後ずさった。ヒメルと距離を置くと、痛覚の警鐘を無視して立ち上がる。ヒメルに見下ろされることが気に食わないのだろう。
「強情ね。ま、私も善意じゃないんだけど」
「ほら、それが本音でしょうが。どっちかが死ぬまで殺し合うってんなら、受けて立つよ」
「ややこしい女ね」
『お前がややこしくしている面もあるだろう。早く説明してくれ。俺にも』
ヒメルの最期の一言は小声でゲアハルトに語りかけたものだ。ゲアハルトもヒメルの心理を図りかねているようで、彼女を急き立てる。ヒメルは頷いてブリジットに向き直った。
「私の言い方が悪かったわ。私はとにかく、あんたに生きていてもらいたいって人がいるのよね。それでどうにかお互い死なないように工夫してみたんだけれど」
「私に生きていてほしい? 莫迦なことを」
「本当よ。ゲアハルトという名前を知らない?」
「ゲアハルト……?」
ブリジットが記憶のなかでその名前を索引してみる。聞いたことはあるようだが、思い当たる人物は見当たらない。そもそもブリジットに深く関わった人間など、師か兄弟子くらいしかいないのだ。師の名は違うし、兄弟子のことはイザークとしか覚えていない。あの長ったらしい姓名を覚えておけばよかったと、彼女は後悔した。しかし、イザークも鬼籍に入っているはずだ。やはり、該当する存在はいない。
「どうだったかしらね。……もしかして、イザークの間違いじゃないの」
「イザーク? 違うわよ。ゲアハルト。ゲアハルト」
「何回も言わなくていいわよ」
そこで二人は思考の迷宮に陥ったようだった。元来短絡的で、しかも敵対し合っていた両者が目を細めてともに頭を悩ませる姿は、傍目には滑稽だろうとゲアハルトは思った。
『ちょっと、ゲアハルト、あなたのこと知らないって』
『俺もどういうことだか分からん』
ゲアハルトはとぼけているわけでなく、カノーネに人格を転送されたせいで記憶に忘却の虫食い穴が空いているのだ。その穴に、かつての自分の姓名が落ちているのである。
「やっぱり、あんたの言っていることは嘘だね。私を混乱させるためってこと」
「嘘じゃない。あんたの過去のことも知っていたもの」
「どうだか。……もういいわ。あんたを殺さなければ、私の自信は失われたままなんだ」
「本当にややこしいわね」
ヒメルはそれまでの静穏な態度を捨ててブリジットに肉迫。戦える状態にないブリジットは棒立ちでヒメルを迎え、ヒメルの蹴りがブリジットを吹き飛ばした。壁に背を打ちつけて崩れ落ちるブリジットに、戦意はあっても体力が伴わなかった。
『わ、ヒメル! あいつの言動が気に障ったのなら俺が謝るから』
狼狽えたゲアハルトの声を黙殺し、ヒメルがブリジットに歩み寄る。
「ちくしょう。殺すなら殺しなよ」
さすがに効いたらしく、ブリジットの声音に張りが失われている。
「殺さないわ。この建物の裏口に人を呼んであるの。そいつが、あんたを街の外まで護衛してくれる手筈だから。私を殺すのはいいとして、戦えない今のままよりも、傷を治してからの方が賢明なんじゃない」
ゲアハルトは、ヒメルとシャルロッテだけで話していたときに、ヒメルがそれを頼んだのだろうと勘づいた。
「何のつもり? 傷が治ったら、私はあんたを殺しに来るよ」
「私はね、あんたじゃなくて、
ゲアハルトの息を呑む気配がヒメルの耳元に伝わる。ヒメルの論理にブリジットは絶句して二の句を継げずにいた。
ヒメルが腰に手を当ててブリジットに宣告した。
「あんたに生きてほしい人がいること。そこの裏口に人を手配していること。この二つを伝えることが、私の目的だったの。あとは、自分の好きにして」
ヒメルがそう言い残し、その場を立ち去った。その途中で、見えない誰かにからかわれたかのように耳を赤くし、「莫迦」と独語する。
彼女にとって怨敵であった〈カノーネの恋人〉が消え去ると、ブリジットはよろめきながら立ち上がった。予想外の事態を咀嚼できず、彼女は溜息を吐く。
「変な女……。まったく、敵わないね」
ブリジットが言われた通り裏口の扉を開けてみると、昼下がりの陽光が降り注いでいた。そこに立つヒメルの手配した人物がブリジットを振り返る。
ブリジットはその人物を見定めた。そして頷くと外へと歩き出す。
それにしても自分を助けようとした人物とは誰だったのだろうか。釈然としないまま、ブリジットは話題に出た名前を呟いてみる。
「ゲアハルト……。イザーク……。イザーク。ゲアハルト。……イザーク・ゲアハルト。そうだった。思い出した」
イザーク・ゲアハルト・フォン・クラウゼネック。それが兄弟子の名前だった。〈カノーネの恋人〉が彼の意を汲んだということは、兄弟子は生きているのだろうか。
反射的に身を翻そうとして、ブリジットは思い止まる。
まあ、いいか。今度会ったときに聞けばいい。あの女、私の勝手だと言ったじゃない。
ブリジットは戸口を潜って外に出た。眩しい陽光が彼女を包み、肌に温かさを感じさせる。日差しを浴びたブリジットの髪が、金光に輝いていた。
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