第37話 ヒメル対ブリジット ヒメルの本気
「よっこいしょ」
街中でありながら人目につかない店、その仕事場でジョー・ミノワ博士が年齢にそぐわない老けた呟きを漏らした。今の言葉は立ち上がるときに発したものである。
作業に一区切りがついたので、博士は椅子に腰かけて珈琲を飲んでいた。机には山のように書物が積まれている。珈琲の芳香に目を細めている彼は、同時刻に街で起きている騒動のことなど知る由もないだろう。
博士は本の山から一冊をとり出して何気なく眺めている。それは先日この場所を訪れた博士の長年の友人である女性が懐かしいと言って手にした、古びた教材だった。
ふと、博士が独語した。
「
博士が口にしたのは、その女性がかつて彼の教え子であった頃、〈識〉の理論や実技に先立って教授した思想としての〈識〉である。客観的・数値的研究を旨とする科学者に近い〈識〉学者の彼が、宗教性の濃い思想をわざわざ教えたのは奇異でもある。
彼女は覚えていないだろうが、あのとき説明したことを彼は思い出していた。
「有の陽符、無の陰符のみの記号によって森羅万象を情報として明確に表現できる二進法。外部の自然世界と人間の内的世界とを繋ぐ回路がそれであり、そして発現されるのが〈識〉だ。人間の意識によって無からの創造をなすこの力能は、古代における神の御業を解体しさえした。世界と人間のうちに、これ以上の密接な関係を見出すことはできないだろう」
世界を理解する至高の手段であり、真理とも言い換えられるそれが〈識〉である。優れた識使はすなわち世界に近しい存在なのだ。
かつての教え子だった彼女、ヒメルは、博士の知る限りで最も世界に緊密な人物であった。恒常的に〈識〉を発現する特別性は、単に特異体質と呼んでいいものではない。ヒメルは先験的に真理の一端に触れている。少なくとも博士はそう考えていた。
ヒメルの相棒であるゲアハルトも〈
ヒメルとゲアハルト。片方がいなくては片方が存在しえない奇妙な関係となった二人は、その二人分の意識によって、いつの日か世界の秩序に接することができるかもしれないと、博士は思っている。
「さて、と」
束の間の物思いを終えた博士は腰を上げ、再び作業に戻った。
「どういうこと?」
ブリジットの一撃で跪いたヒメルを前にして、彼女はその言葉を口唇から零していた。
ブリジットの拳が直撃した瞬間、ゲアハルトが〈識〉を発現させてヒメルの前面に防御用の障壁を生じさせていた。光の盾を貫通し威力を減じてはいても、必殺の勢いで振るわれたブリジットの拳が頭部に炸裂したのだ。常人ならば顔の半分は陥没し、
それがヒメルは、頬を赤くして打身の傷跡を残しているが、それだけだ。痛みは感じているようでも、肉体の損傷は普通であれば考えられないほどに小さい。頑丈という言葉だけでは、説得力に不足が過ぎる。
『ヒメル……、どうなっているんだ』
ヒメルが生きているのは僥倖だったが、ゲアハルトにも事態は理解できていない。
「まあ、いいわ。一発で駄目なら、殴り殺せるまで殴ってやろうじゃない」
膝を地に着いて俯いているヒメルは、まったくの無傷なわけではない。先ほどの攻撃はヒメルに痛手となっていた。意識が混濁しているのか、身動ぎ一つしない彼女が抵抗できるとは思えない。
ブリジットがヒメルに手を伸ばしかけたとき、突然ヒメルが立ち上がった。素早い動作ではなかったものの、予想外のことにブリジットはただそれを眺めやっている。
ヒメルの目線がブリジットのそれと同じ高さになると、それまで伏せられていたヒメルの瞳がブリジットに見えるようになった。黒と黄金の双玉同士の焦点が、互いの中間点で絡み合う。そこで狼狽を示したのは、ブリジットの方だった。
あの目だ。以前ブリジットがヒメルに矜持を傷つけられた、あのときの。
ヒメルの双眸が鮮烈な光彩を放つ。それはひたとブリジットに定められて小揺るぎもしない。ブリジットは意志を総動員し、ともすれば慄いて退きそうな己の足を叱咤した。それが功を奏し、ブリジットはその場に踏み止まってヒメルと向き合う。
「そうだ。その目よ。その忌々しい目をぶっ潰してこそ、価値があるってものよ!」
ブリジットがきつく握りしめた左拳を引く。引き絞られた弓矢のように、それは一気に解き放たれるのを待っていた。
それを迎え撃つためか、ヒメルも無言で右拳を掲げる。
『おい、何をやっている! 素手で勝てる相手じゃない。俺を使うんだ、ヒメル!』
ゲアハルトの怒号を聞き流し、ヒメルが右拳を突き出した。それに応じてブリジットも左拳を繰り出す。両者の拳が触れ合うと同時に、その一点から衝撃が爆ぜる。
同心円状に広がった空間の波紋が二人の肌を震わせて、烈風が髪をはためかせた。ブリジットの金色の髪が太陽光を反射して光条を乱舞させ、ヒメルの髪を
地べたに寝転がるゲアハルトが地面を波打つ埃に塗れ、口がないのにゲホッと咳き込む。
一瞬の膠着の後、ブリジットの籠手に幾筋もの亀裂が走った。手から肩へと
「嘘だ……! こんなことがあるはず……」
ブリジットが左腕を押さえてよろめく。その表情には驚愕が濃厚にこびりついていた。まさか素手の女に、籠手はおろか腕まで破壊されるとは想像の範囲外だったに違いない。
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