第35話 ヒメル対ブリジット 小手調べ

「会いたかったよ、〈カノーネの恋人〉。あんたを殺すのを、どれだけ待ち望んだか」

「本当に私のことを恨んでいるのね。そんな覚え、まったくないんだけれど」

 ブリジットの双眸が細められる。金色の瞳に赫怒の火炎が燃え立った。

 ヒメルの言葉は事実であり、彼女には挑発や悪意という意識はなかったが、結果としてブリジットの殺意の水位を高めることになってしまう。



「でも、そっちの方が不幸じゃなくて。自分が殺される理由も知らないってのがね」

「殺されないから、知らなくていいわ。それより、どうしても戦わずには済まないんだったら、この男は邪魔だから抜きにしましょう」

 ヒメルは顎でクラウスを示した。いきなり口の端に上げられたクラウスが驚いて身体を強張らせる。その様子を見ていたブリジットが加虐的に唇で笑みを結んだ。

「逃がすって言うの? 駄目よ。あんたらを殺すのは決定しているの。順番を決めかねているだけでね」

「ちゃんと警察に引き渡すわ。その男に見合った処罰が下されるはずよ」

「処罰ねえ。それを自分の手で下したいって私は言ってんのよ。あの男がどうなろうと、あんたに関係ないでしょう。それとも、あんたはそいつに雇われたわけ?」

「そうじゃないけど……」

「ああ、なるほどね。あんた、この前も警察の差し金で働いていたんだっけ。今回もそういうわけね。あらあら、アーマンドに負けたくせして、いいご身分だこと」



 ヒメルは返答に窮した。ブリジットの言う通り、この仕事はヒメルと個人的な交誼のあるデダラスの厚意に寄るところが大きい。実力で得た依頼でないだけに、ヒメルも後ろ暗さを感じるのだった。

『ヒメル、気にするな。あいつはお前の動揺を狙っているだけだろう。まずはクラウスをこの場から離すことだ。そうすれば、警察が勝手にやってくれる。お前はブリジットの相手をすることに専念するんだ』

 ヒメルはその助言に頷いた。



 ブリジットが嘲りを含有させた眼差しを向けるが、それを受け流してヒメルはクラウスを見やった。挑発が不発に終わって、ブリジットが興醒めしたように鼻を鳴らす。

「あんた、早く逃げなさいよ。私がこの女の相手をするから。ここで死ぬより、警察に捕まった方がいいんじゃない」

 もう鼻血が止まっているが、顔の下半分を血だらけにしたクラウスがヒメルを見返した。決心が固まらずに目線を泳がせる彼を、ヒメルが急かす。

「ほら、何してんの。怒るよ!」

 ヒメルの剣幕に恐れをなしたクラウスが、とにかく今はその言葉に従おうと木偶でく人形のようにぎこちなく動き出した。ブリジットとクラウスの直線状を塞ぐようにヒメルが移動し、ブリジットの攻撃に備える。



 ブリジットが髪をかき上げた。瞬間、ブリジットが後退と見せかけて距離を詰めてくる。虚を突かれたヒメルの眼前でブリジットが左掌を広げ、その視界を奪った。一瞬の隙を作り出したブリジットは掌でヒメルに目隠ししながら、左手を固定しつつ自身はヒメルの横に回り込んでいる。

 ヒメルも案山子のように立っているだけではないが、体技においてブリジットに劣るようだ。反応したときには手遅れで、ブリジットはクラウスを目視できる位置に立っていた。

 ブリジットが小振りの裏拳を打ち、放たれた光の飛礫つぶてがクラウスの後頭部を直撃した。クラウスは棒が倒れるように突っ伏すと、そのまま起きる気配を見せずに寝そべっている。どうやら失神しているらしい。



「なーに。殺しゃしないよ、まだね。さてと、今度はこれだ」

 ブリジットの籠手に二進法の演算が燐光となって浮き上がる。高度な演算をたちまち完成させ、ブリジットが握っていた拳を開くと〈識〉が発現された。

 その一帯を包むように半透明の光の膜が出現した。巨大な円を描いて展開するそれは、地から伸びて内側に湾曲しながら天に向かう。その光が天頂を終着点としたとき、十字路全体と建造物の一部を囲んだ広大な領域が築かれていた。

 光の表面は、シャボン玉が透明ながらも角度によってさまざまな色彩を放つのに似て、時間の流れに乗って色合いを変化させていた。

 大地に巨大なお椀を被せたような形状の半球体の光に閉じ込められたヒメルは、戸惑いながら目線を四方に滑らせる。



『これは〈識〉で非物質の盾を形成する力能を援用したものだ。結界というのか、出たり入ったりできない封鎖された空間を作っているんだ』

「つまり、私を逃がさないため?」

「それもあるけど、邪魔者を入れないためよ」

 ブリジットが言い放つ。ヒメルが見ると、外の空間で警察が右往左往している。建物の屋上では、待機させられていたらしい狙撃班が介入の機会を失って呆然としていた。

「これで心置きなくやり合える場所ができたわ。〈カノーネの恋人〉、殺されたくなかったら死にもの狂いで抵抗してみな」

 ヒメルが飛び退いてカノーネを構え直した。



『やるぞ。気を抜くなよ、ヒメル』

「いっちょう、やったろうじゃないの!」

 ヒメルが気炎を吐いたとき、戦闘の火蓋が切られた。止まることなく光彩を変じる光の天蓋の下を舞台とし、〈カノーネの恋人〉と〈金光のブリジット〉は睨みあった。



 先にしかけたのはブリジットだ。手が届かない距離から左を打って光弾が放たれる。それを難なくヒメルはカノーネの砲身で防いだ。ブリジットが続けて左を三連発し、ヒメルは綺麗にそれらを捌いた。

 挨拶の手合わせを終えたブリジットが、直拳ストレートに加えて鉤打ちフック昇拳アッパーなど打撃の種類を増して左右の連打を見舞う。点というよりも線に見える光の流れがヒメルに殺到するが、それがヒメルの肌に達する前に砲身が光弾の群れを迎撃。ヒメルが巧みにカノーネを操って守備するさまは、その二つ名に見劣りしない。



 だが、その相棒たるカノーネは苦り切った声を出した。

『ご丁寧に防御するな。あいつの本領は接近戦だ。突っ込んでくるぞ』

 ブリジットの攻勢を耐えたヒメルを、光弾の残滓ざんしが粒子となって包んだ。その光点の乱舞を割ってブリジットが肉迫する。いとも簡単にヒメルの懐に入ったブリジットは、直に拳を叩きつけてくる。

 少しずつ狙いをずらした細かい左拳でヒメルの足を止め、本命の右拳が炸裂。ヒメルが砲身で防いだものの、膂力においては人後に落ちないはずのヒメルが弾き飛ばされた。両足が浮くほどの衝撃に、初めて力負けしたヒメルが気後れする。



 ヒメルが着地したとき、密着したままの間合いを保っていたブリジットが追撃をかけた。左拳を連発しつつ、ヒメルの注意が拳だけに向いているのを看取すると、右足を跳ね上げてその爪先をヒメルの左脇腹にねじ込んだ。予想外の一撃を食らったヒメルが苦痛の呻きを喉から押し出し、その身体が横に流れる。

『退くんじゃないぞ。あいつの昇拳に気をつけろ。俺を……じゃなくってカノーネを上に弾いて、がら空きになった顔面にどんぴしゃの一発が来る。それを逆手にとるんだ』



 通信といえども戦闘中に返答する余裕はヒメルにない。ゲアハルトの指示を実行するため、ブリジットの打撃を砲身で受け止めながら好機を待つ。ブリジットが左と右の連繋を打ち、それを受けたカノーネの砲身が水平に構えられていた。

 ブリジットの目が鋭さを増し、彼女の左拳が下から上へ垂直の軌道を描いた。その昇拳がカノーネの防壁を上方にずらす。そのときヒメルは意図的に力を抜いており、手応えの弱さに眉をしかめたが、ブリジットは違和感を意識の外に捨てて右の強打を叩き込んだ。

 紙一重の差で、首を傾げたヒメルがその拳を避けた。あらかじめゲアハルトに警告されていなければ、まともにもらっていただろう。

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