第33話 昼に堕つ闇

「ああ。お前はちょっと休んでいるんだ。デダラスに今後の指示を仰ぐ……おっと、ちょうどシャルロッテから通信だ」

 ゲアハルトが応答している間、ヒメルは何とはなしに戦場を見渡した。孤独の人となったアウルス翁が右手で左肩を押さえ、独り言を呟きながら徘徊している。肩からの出血は徐々に勢いを弱めていた。

 ゲアハルトが声でなく、通信で語りかけてきた。



『シャルロッテがヒメルにも話を聞いてほしいそうだ』

『分かった』

 三人が共用の回線を開いた。

『ヒメル、アウルス夫妻を倒したそうね。ご苦労様』

『うん。それでブリジットがいないんだけど、どうしたらいいの。デダラスに連絡してみようとしていたんだけれど』

『ええ。ブリジットはその場を離れたらしいわ。元締めのマイノングが殺されたという報せを受けた〈青狼屋〉の傘下が構成員を使ってブリジットを狙っているけれど、彼女に返り討ちにされているみたいね。街で騒ぎになっているわ』



 シャルロッテの言葉にゲアハルトが疑問を挟んだ。

『なぜ、そのことが〈青狼屋〉に伝わったんだ。構成員はブリジットやヒメルが倒したし、連絡する暇があったとも思えないが』

『ブリジットが自分で、マイノングとアーマンドが死んだことを〈青狼屋〉に漏らしたの。理由は不明だけれど』

 シャルロッテも彼女らしくもなく困惑しているような話し方だ。だが、ブリジットの件だけで彼女が頭を悩ませるとは考えられない。他の懸念があるらしい。

『生き残った〈青狼屋〉の構成員の話では〈カノーネの恋人〉を呼べと脅されたようなの。あなたと会いたがっているらしいわ、ヒメル』



『私と?』

 ヒメルは心当たりがなさそうに小首を傾げた。彼女の仕草を見るに、瀕死の身でありながらブリジットに痛撃を与えたことは、記憶から欠落しているようだ。第三者としてその一件を知るゲアハルトが苛立たしげに言う。

『ブリジットの奴、あのことを逆恨みしてヒメルを狙っていやがるのか?』

 ゲアハルトの独語をシャルロッテが遮る。

『もっと重要な話があったのよ。本当はこっちを先に言いたかったんだけれどね』

『どうしたの』

『デダラス刑事が撃たれたわ』

『え!?』

 叫びを上げて絶句するヒメルに代わって、ゲアハルトが問う。



『容体は?』

『左腕を撃たれて病院に運ばれたわ。命に別状はないから安心して』

『それはよかったが、いったい何があったんだ』

『例の連続殺人犯は知っているでしょう。その容疑者を張り込んでいる最中に、その人物と鉢合わせになって撃たれたらしいわ。だから、連続殺人は置いておいても、デダラス刑事とその他数名に対する傷害と殺人未遂の容疑者として指名手配されたの。その人物はクラウス・ミューラーという名よ』



『それが、アーマンドの銃を手に入れたかもしれない男ってことね』

『デダラスが病院に搬送される前に、私に連絡してきたのよ。あなたには、そのクラウスという男を取り押さえてもらいたいって』

『でも、ブリジットはどうするの』

『ブリジットはヒメル、お前を狙っているんだ。無理して探さなくても、あいつの方から来てくれる。それに、銃を盗んで自分を窮地に追いやったクラウスをブリジットが殺そうとしても不思議じゃない』

『あ、そっか……』



 全部がデダラスの計算ではないだろうが、クラウスをブリジットが害する可能性は考慮していたに違いない。クラウスのところにヒメルを向かわせれば、クラウスとブリジットの双方を確保できることもあると、怜悧な刑事は頭を働かせたのだ。

 ヒメル、ブリジット、クラウスの三者は奇妙な因縁で繋がった。ヒメルは、デダラスの依頼で二人の身柄を確保しようとしている。ブリジットは、二人の命を奪おうと画策。クラウスは、他の二名から追われる立場にあった。

『とにかく、私はクラウスを捕まえればいいのよね。でも、居場所が分からないんじゃあ』



『いえ、居場所は判明しているのよ……』

 微笑を絶やさないシャルロッテの声音が陰っていた。それを訝しんだヒメルとゲアハルトは彼女の説明を待っている。続いたシャルロッテの声を、二人は無言の驚愕で彩った。

 いつの間にか、その場で立っているのはヒメル一人となっていた。アウルス翁は左肩を押さえた姿勢のまま、物言わぬ骸となった伴侶の上に折り重なり、冷たくなっていた。





 路地裏から大通りに出てきた彼は、ひどく動揺していた。

 小柄で眼鏡をかけた男だ。長い距離を走ってきたのか顔は汗まみれで、衣服にも染みを作っている。荒い息を吐いて彼は周囲を眺めた。彼を見返す視線はみな冷やかである。

 彼が尋常ならざる人物であることは、道路を行き交う人々の目に明らかであった。彼の風体に問題があるのではない。彼の見えざる何者かの存在に怯えたような目、それに同調して震える四肢が、その異常性を印象づけるのだった。



 何よりも、彼がお守りのように握りしめている物体が人々と縁遠い代物のため、それが玩具に見えてしまい、その滑稽さが強調されてしまった。

 彼が手にしているのは、拳銃だった。それは万人が認めるものだ。要点は、それが本物か否かである。大多数はそれが偽物だと判じるだろう。そして極少数の愚者が、それを本物だと信じるかもしれない。

 彼自身を含めて不幸だったのは、愚者の方が真実の尻尾を握っていたことだった。



 挙動不審な彼を見咎めた制服警官の一人が彼に接近した。その警官には、連続殺人犯の容疑者に刑事が撃たれたという事件の報がすでに届いていた。

「すいませんが、その手に持っているのを確かめさせてもらえませんか」

 彼より年下の制服警官は丁寧に言った。彼は声をかけられて初めてその警官に気づいたように驚愕し、銃口をその警官に向けた。



 銃声が響いて、時間が凍りつく。音響の一瞬の空白を破ったのは、女性の悲鳴だった。肩から血を流し、たたらを踏んで警官が倒れる。石畳に広がる鮮血と、彼の手にする銃が硝煙を吐いていることで、愚者以外の多数派にそれが本物の拳銃だと知れ渡った。

 平和な昼の景色は恐慌の舞台へと変貌した。背広の男や買い物客らしい男女などが逃げ惑い、子ども連れの母親が幼児の手を引いて離れる。みな一様に嫌悪と恐怖を面に貼りつけていた。その忌避の視線を全身に浴びた彼は逃亡する人々に向けて銃を連射する。



 このとき無事に逃げることができた人物が、後の取材で証言したところによると、彼は叫びを上げながらこう言っていたという。

「そんな目で見るな! ぼ、ぼくはゴミ掃除をしていたんだ。迷惑なゴミどもを掃除していただけなんだ。お前らのためなんだぞ! それなのに、なぜこのぼくがこうなるんだ!」



 彼は走って何発も銃を撃った。バンッ、バンッ、バンッ、バンッと、音声化された災禍が通りに満ちる。不運な何人か、足を撃たれた若い女性、脇腹を押さえてうずくまる男性らが路面に横たわった。

 気づいたとき彼は大通り同士が交わる十字路の中央に立っていた。ちょっとした広場のような空間に立つ人影は、彼のみである。

 ほとんどの人間が逃げたようで、通行人は見当たらない。負傷した数名も、彼が目を離した隙に果敢な人々によって助け出されていた。



 一人きりになった彼は、行き場を失った羊のように忙しなく首を振って周囲に目を配る。彼の頭には逃げることも隠れることも、発想として浮かんでいないようだ。途方に暮れたように彼はその場に立ち尽くしている。

 彼がきつく握りしめる拳銃、その名前は〈昼の闇〉という。

 人間の形を借りた闇が、昼に堕ちた。





『……そういうわけで、クラウスは今もその場所を動いていないわ』

シャルロッテの説明を聞き終えた二人が重苦しい息を吐いた。

『その男、血迷ったな。まさか捜査の手が自分に及んでいるとは、想像もしていなかったんだろう。デダラスを目にして、しかも彼を撃ったことで、精神の平衡を崩したか』

『被害に遭った人達は、命を繋ぎ止めたそうよ。現在は通報を受けた警官隊が彼を包囲して、十字路に閉じ込めているわ』

『分かった。そこに行けばいいのね』



『急いでね。ブリジットがクラウスを狙うかもしれないし、警察も性急な手段に訴える恐れだってあるから』

 ヒメルは頷いた。通信を切ると現場に向かって走り始める。元来た道を逆走するヒメルが、不意に口を開いた。

「おかしいわね。連続殺人犯を死なせないために戦わないといけないなんて。これで私とブリジットが戦うことになったら、あなたはどう思う」



「お前が勝つように最善を尽くすだけだ。それにクラウスは、奴の行状に相応しい罪を償うことになる」

「うん……」

「まあ、釈然としないのは仕方がないな。だが、茶番劇といえども演じ損なえば、無能な俳優は舞台を去るだけだ。せいぜい、ヘマをしないようにしろよ」

 ヒメルは頷くと力強く地を蹴った。その背でカノーネが揺れている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る