第27話 嵐の前

 天窓から注がれる鋭角的な光のなかで、舞い上がった埃がきらきらと眩しく輝いている。

 その光景にブリジットは違和感を覚えた。今日は風が吹いていないし、倉庫は閉め切っているのだから風が入ってくることなどない。鼠のような小動物が走ったとすれば、音で気がつくはずだった。

 その瞬間、肌を粟立たせたブリジットが一挙動で跳び上がる。寸前まで彼女が座っていた空間に火花が散り、倉庫内に銃声がこだました。ブリジットは空中で身を反転させ、積まれた鉄骨の上に両手で着地すると、反動をつけて回転しながらその鉄骨の背後に隠れた。



「ハハッ、まいったな、外しちまったぜ」

 陽気に言ってのけたのは、現在のブリジットが最も恐れる相手だった。無音の体術で気配を感じさせずにブリジットほどの練達した戦士に接近できたのは、この男だからだろう。

 アーマンドは銃口から硝煙が流れる愛銃を垂らし、ブリジットの隠れた場所に目を向けていた。泣き黒子が吊り上がっている。右半面だけの例の笑みであった。

「上手く隠れていたみたいだな。だが、〈青狼屋〉の情報網には無力というものだ。それ以上の無力感を俺がこれから与えるってのは、頭の悪いお前でも察しがつくだろう」

 アーマンドの声に続いて、倉庫の重そうな鉄の門扉が開かれ、武器を手にした男達が雪崩れ込んできた。アーマンドが飛び抜けた強さとはいえ、ブリジットは実質二番手の猛者である。確実に彼女を討てるよう万全の戦力を揃えたらしい。

 二十人は下らない人垣を割って、小柄な人物が現れた。元締めのマイノングである。



「ブリジット。あんたには失望させられましたよ。その報いは受けてもらわなければねえ。アーマンドの銃で好き勝手暴れている小物も腹立たしいが、その原因はあんたが銃を回収し損ねたことだ。あんたに死んでもらわないと、他の者に示しがつかないんだよ」

 ブリジットが障害物の端から覗くと、微動だにしないアーマンドの視線とぶつかった。不吉という言葉が肉体を持ったような佇まいは、豪胆な彼女にすら恐怖の刃で胸を突かれたような気分にさせる。

「お前の抵抗に期待しているぞ。ただでは死ぬまい、そうだろ、ブリジット。死の直前まで暴れ狂って、俺と遊んでもらおう」

 ブリジットにとっての死神が放った、それは宣告であった。






 ヒメルは走っていた。電車を降りてからは移動手段が足しかなかった。工場の密集した地域で路地を歩く人影はない。稼働中の工場から空に伸びる煙突が黒煙を吐き出していて、不快な異臭がヒメルを包んでいた。ここを抜ければ、目的地とする倉庫街に到着する。

 デダラスの連絡で、マイノングやアーマンドが運河沿いに位置する倉庫群に向かったことが知らされ、現場に急行するように依頼されたのだ。〈青狼屋〉所属の戦科識使も数人ずつの組に分かれて集合している模様である。それらの戦力が集う理由となれば、ブリジットが潜伏している場所が察知されたと考えるのが自然であった。



「おい、ヒメル、もっと速く走れないのか。だからあれほど摂生しろと注意したんだ」

「何よ! 入院しているときの療養食でげっそりよ、げっそり!」

「嘘つけ。退院してからの鯨飲馬食、俺は見ていたぞ」

「悪かったわよ。でも、ゲアハルトだって重いんだからね」

「よし、俺はこれから断食と禁酒をして痩せてやるよ」

 数日前に半殺しの憂き目に遭わされた相手と対面する可能性が高い二人にしては、真剣と緊張を欠いた会話だった。この二人らしいと言えば、それまでのことだったが。

「む。ヒメル、シャルロッテから通信が来ているぞ。この忙しいときに」

「待って、私が出るわ」

 ヒメルはゲアハルトを制すと、回線を開いて応答する。



『はい。どうかした?』

『あら、ヒメルが出てくれたのね。手間が省けるわ』

 シャルロッテは意味深長な言葉を最初に告げると、その先を切り出した。

『私の方でも調べてみたのだけれど、マイノング達が動いたのは、やっぱりブリジットの潜伏先を突き止めたからね。つまり、あなたが向かう先には確実にアーマンドとブリジットがいるはずよ。油断しないでね』

『わざわざ教えてくれて、ありがとう』

『いえ、本題はそっちじゃないのよ』

 ヒメルは自ら問いかけることなく、依頼の仲介者としての厳格な表情を、彼女が常に浮かべている微笑の仮面の背後から覗かせたシャルロッテの言葉を待った。



『ヒメル、正直言って、あなたの〈カノーネの恋人〉という二つ名は業界では軽くない価値を持っているの。この前アーマンドに敗北したことが周知になって、あなた宛ての依頼が著しく減ったのよ。それは仕方がないこと。誰でも敗北とは無縁でいられないわ』

 疾走の速度を緩めずにヒメルは目線を路面に落とした。ヒメルはシャルロッテに会えば、いつでも仕事にありつけると思っていたが、それは違うのだ。まず、ヒメルに信頼を寄せる依頼主がいなくては話にならない。

 シャルロッテの言いたいことが、ヒメルにも理解でき始めた。



『それでも、あなたを名指しで仕事を任せてくれる人もいるわ。例えば、デダラス刑事とかね。だけれど二回続けて失敗すれば、彼も慈善ではないのだから、見切りをつけてしまうかもしれない。……分かるでしょう、最後まで言わせないでね?』

『分かるわ。ちゃんと。きっと、今度の依頼は完遂してみせるから』

 満足げな笑みの気配がヒメルに届いた。

そういえば、ブリジットも課された役目を果たしえずに銃を盗まれたことで、元は身内だった〈青狼屋〉に追われているという話だった。ヒメルは名誉挽回の機に恵まれたが、彼女はそうではないようだ。両者の差異は、単に幸運の賜物でしかないだろう。



 この街、グードゥルーンでは自身の役割を全うしえない者は生きていけないらしい。今回も失敗すれば、一度はヒメルを守った幸運も、彼女の手を離れないという保証はない。

 ヒメルは、ゲアハルトに街の名称の由来を聞かされたことがある。グードゥルーンとは、数十年前の開拓期であったこの街で活躍した女戦科識使の名前に敬意を表して名づけられたものであるという。勇猛であったと伝えられるグードゥルーンは、この街を構成するに足りない歯車たる存在を忌避するのだろうか。

背筋が冷えるようなヒメルの想像は、シャルロッテの穏やかな声音に阻まれた。

『分かっているなら、これ以上言うことはないわ。それじゃあ気をつけてね、ヒメル』

『あ、一つだけお願いがあるの……』

 ヒメルが要望を伝えて、シャルロッテの了承をえると通信を切った。



「長いこと話していたな。何だったんだ?」

「ううん、別に。目的地にブリジットがいることの確認がとれたからって。あと、頑張ってと言われたわ」

「そうか。あの女が激励のためだけに連絡を寄越すとも思えんが、いいだろう」

 何がいいのか、ヒメルには分からなかったが、とにかく走ることに専念する。その彼女の耳に、ゲアハルトのまじめくさった声がかけられた。

「ヒメル、敵が誰であれ、俺達が全力を尽くすことに変わりはない。そして、俺はお前を二度と敗北者にさせない」

「どうしたのよ、神妙なこと言って。気味が悪いわね」

 ヒメルが憎まれ口で返すと、ゲアハルトはなぜか勇気づけられたように笑った。

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