第26話 ブリジットの述懐

 ブリジットは雷に打たれたように背筋を伸ばした。慌てて周囲に視線を配り、安全を確認すると、透明な手で胸を撫で下ろすように息を吐いた。

 夜間の襲撃に備えて警戒していたが、いつの間にか眠ってしまったらしい。気がつくと太陽は中天近くにまで昇っており、昼前であることが察せられた。

 ブリジットが〈青狼屋〉から逃亡して数日が経過している。彼女は隠れ場所を転々とし、現在は〈青狼屋〉の傘下企業、ソヨカゼ運輸の所有する運河沿の倉庫に潜伏していた。



 グードゥルーン北部のキリシマ大湖。市民の間では〈グードゥルーンの瞳〉の愛称で親しまれている湖がある。そこから伸びる数多の河川に含まれる一つの伏流として人工的に作られた水路沿いに、企業が所有する倉庫群がある。ブリジットはそこに潜んでいたのだ。

 倉庫内にほとんど物資は置かれておらず、広い屋内はがらんどうとしている。壁際の一角に鉄骨やらの鉄屑が積まれていて、そこにある鉄塊に背を預けてブリジットは座っていた。壁の上部にある天窓から、複数の眩しい光の柱が床に突き立てられている。ブリジットが膝を抱え、無感動にそれを見やっていた。



 ここが〈青狼屋〉に関わる建造物である以上、いつかは彼女を追う包囲網が伸びてくることは必至である。いつまでも留まっているわけにもいかず、早く移動するのが利口ではあった。しかし、ブリジットはその気力を失っている。

 街を出なければ追手の脅威を完全に逃れられないのに、〈青狼屋〉の網目をかい潜って脱出することは不可能に近い。戦科識使としては驍名ぎょうめいに恵まれたブリジットも、帝国首都カイザークローネ出身の余所者でしかなく、この街の裏社会にはまったく精通していないため、何らかの伝手を頼りにすることもできなかった。

 このままでは、遅かれ早かれ刺客の凶弾に倒れるというのがブリジットの末路である。それが自分でも分かっていることが、彼女の焦燥の炎に風を煽って燃え上がらせていた。

 ブリジットは両膝に顔を埋める。どうして、こんなことになってしまったのだろう。

 自問は幾度も繰り返した。それに対する満足な自答はえられていない。自分の境遇に、正当な回答など求めえることなどできないと、彼女は幼少の頃に知っていた。



——彼女、ブリジットは貴族の情人であった女を母親として持っている。母が身ごもったと告げると、父親はわずかの手切れ金を置いて去ったと聞いている。彼女を生んだ後、母は売春で生計を立てていた。その母が死んだとき、ブリジットは八歳であった。

 その後、ブリジットは記憶にある母親の姿を真似て路傍に立っていた。こうして立っていれば親切な人がお金をくれるのだと、娼婦という言葉を知らない少女は信じていた。

 そして一人の男が声をかけてきた。その男は彼女の思っていた親切な人ではなく、八歳の少女に食指を動かした人物であった。将来の美女の片鱗を宿したあどけない顔立ちは人目を引く。男の笑みに本能的な恐怖を覚え、ブリジットは逃げた。



 他に金銭を得る方法もなく、ブリジットは飢えと渇きに肉体を蚕食され、地べたに座って膝を抱えていた。四日が経ってさすがに水だけでは耐えられなくなったとき、ブリジットの前に冴えない中年の男が現れた。それが彼女の師となる男だった。

「やあ、大変そうだな、君。お腹が減っているのだったら、これ食べるかい。ほら、お菓子だよ。甘いものは控えるように弟子から言われているんだがね。何せ、好きなものは好きだからね。あはは。で、このお菓子が気に入らないんだったら他にも持っているよ……」

 邪気を感じさせない口調に、ブリジットの警戒心はすぐに解かれた。菓子を差し出したまま、もう一方の手で懐を探る男から菓子をひったくると、ブリジットは勢いよく食べ始めた。男が懐から手品のように出した他の数種類もすべて平らげて見せると、男の鈍感そうな顔に初めて不審の色が浮いた。



 事情を根掘り葉掘り聞くことはなかったが、ブリジットの身寄りがないことを確認すると、男は彼女を自宅に導いた。首都の郊外にある男の住居は平屋で小ぢんまりとしたものだったが、庭がとても広かった。

「え? ああ、庭が広いのはね、道場を兼用しているから」

 男はブリジットにそれだけ説明した。住居のなかに入って最初に目にしたのは、師とは別の若い男だった。青年と呼ぶには若い、十代中盤だろうか。

「師匠、どうしたんです、その子は?」

「あー、それがね、親が亡くなって他に行くところがないって言うものでね……」

「犬猫じゃないんですよ、師匠。人間の女の子じゃないですか。施設に入れてやったらどうです。その方がその子のためでしょう」



 師匠と呼ばれた中年男が曖昧に頷くと、少年はブリジットに近づいた。夜の色素が沈着したような紺色の髪の下に、焦げ茶色の双玉が重々しい光彩を放っている。風貌は端正でいて、初見の相手には別れた後に美男子であるよりも先に不機嫌そうであったという印象を残しそうな表情をしていた。

 伝統的な帝国貴族の洗練された面貌を有しながら、甘ったるさだけは母体に置き忘れたような偏屈さを見事に口辺のみで表現している。素気ない声音で少年が言った。

「名前は?」

「ブリジット……」

 それがブリジットと兄弟子との出会いであった。少年は自身が名乗ることなく、庭でお待ちしています、とだけ男に言い置いて去っていった。



「あはは。まあ、許してやってよ。恥ずかしがり屋な子でね。一応、私の弟子なんだが。名前は、イザーク・ゲアハルト・フォン・クラウゼネックというんだ。長ったらしいから、イザークだけ覚えておけばいいよ」

 男は兄弟子をそう紹介した。

 結局ブリジットは施設に入ることなく、師の身の世話をすることを役目として家に残された。その裏に、配偶者や子どものいない師が疑似的な血縁として彼女を認識した意思が働いたことを、兄弟子のイザークは察していただろう。



 数年後、師はブリジットにも〈識〉の教授を始めた。ブリジットは理論の理解を置き去りにしつつ、実技としての〈識〉を素晴らしい速度で体得していった。実直な兄弟子のイザークに迫る進歩を示したブリジットを、師は天性のものであると絶賛している。

 ブリジットの見たところ、兄弟子は十代後半において師を超越していたが、師を風下に置く振る舞いは決して見せなかった。時折、手厳しい意見を師に述べたものの、それは間柄の緊密さを基盤にしたものであり、師を軽んじたものではない。

 それに引き換え、ブリジットは師の寛容さに甘えてその言動を軽視したことが少なくない。それは自身でも認めることだ。だが、ブリジットにも言い分がある。




 瀟洒な自宅から通っていた貴族の子弟であるイザークと違い、ブリジットは師の子飼いであったのだ。身の世話をしつつ一緒に暮らした精神的紐帯は、師弟を超えたものであることは自負できる。その家族的な親密さを、兄弟子が礼節を欠いたものと見なしたのだ。

 そのイザークは勤め先が決まってからも頻繁に顔を見せていたが、あるときを境に姿を現さなくなった。

 口うるさい兄弟子の足が遠のいたのを喜んだブリジットだったが、そのことを話題にした際、初めて彼女は師の叱責を受けた。強い口調ではなかったが、その声は震えていた。

「そんなことを言うものではないよ、ブリジット」

 白髪の増えた師の瞳が気落ちしているのに気づいて、ようやくブリジットも覚った。戦科識使であるイザークが姿を見せなくなったわけを。



 無論、兄弟子を失ったのは残念だったが、それよりも強くブリジットの心に住み着いたのは、あのイザークを上回る力量を有する存在がいたことに対する驚きだった。

首都での高名を双肩に負ってグードゥルーンという辺境に乗り込んだ彼が、まさか呆気なく死亡するとは、ブリジットの想像の及ぶものではなかった。

 それ以来、ブリジットの精神にグードゥルーンへの興味が根づいた。優秀な兄弟子を食い殺した獰猛な街を見てみたい。自分の実力は兄弟子を超えたろうか、そこに赴けば分かるような気がしていた。

 首都で戦科識使として生計を立てるには、主に公職か軍人になるしかない。皇帝のお膝元で整然とした体制のある首都では、戦科識使は官僚に近い生き方を選ぶことになる。奔放な気質のブリジットには耐え難かった。



 それから間もなく、ブリジットは師の下を離れた。新天地を目指したのだ。そしてグードゥルーンでも、彼女の手腕は認められた。〈青狼屋〉に声をかけられたのが、その最大の成果というわけだった。

「……」

 ブリジットは悲嘆を溜息として押し出した。それで鬱屈した胸が軽くなることもない。

 自分の実力を試した結末が、この現状だった。師には俊才とまで評されたブリジットがアーマンドの影に怯えている。この街には、彼女を超える識使など幾らでもいるのだ。



 今のブリジットの窮状を知れば、師は彼女を助けてくれるだろうか。多分助けてはくれるだろう。アーマンドに抗することはできないが。

 もしイザークが生きていれば、ブリジットを助けようとするだろうか。これは妄想の範囲でしかなく、考えるだけ無為だった。彼はもはや過去の人間でしかない。

 生き延びるためには、自力で危機を打開するしかなかった。ブリジットは顔を上げると、決意と呼ぶには弱々しい意思の瞳で前を見やった。

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