第22話 ブリジットの絶望

 ブリジットは例の如く、あの日にアーマンドの銃を紛失した路地裏で見張りをしていた。これが何日目か分からないほど、彼女はここに通いつめている。

 その根気と努力は評すべきものだったが、結果の方は彼女に報いようとしなかった。張り込みだけでなくこの周辺を歩き回っても、銃を盗んでブリジットの任務を妨害したあの男らしき姿を見かけることはなかった。

 今日は屋内にいるのが勿体ないような日和であったので、通りの壁に背を預け、陽光が彼女の引き締まった肢体を撫で回すのに任せている。ブリジットの黄金色の瞳と頭髪、太陽が投げかける金色の紗幕が相まって、額縁を当てはまればそのまま絵画になりそうな風景である。だが残念なことに、彼女が左右に刺す鋭い視線がそれを台無しにしていた。



 ブリジットを含めた〈青狼屋〉の一団が、〈四宝組〉及び警察を相手取って大立ち回りを演じてから二日が経過している。あれからブリジット達はマイノングの協力をえて身を隠し、マイノングの工作によって安全を確保してから活動を再開していた。

 幸いにも、ブリジットの過失は〈青狼屋〉の面々には知られていない。だからこそ、マイノングは彼女を逃がすために骨を折っているのである。彼女の犯した失態を把握していれば、温情の破片も見せずにマイノングは彼女を切り捨てているはずだ。

 ブリジットが狙う首は二つに増えている。一人は無論のこと、銃を盗んだあの男だ。もう一人は、彼女に苦痛という辛酸を舐めさせた女である。ヒメルという名が、その手がかりだ。ヒメルに関しては手を打たずともよい。戦科識使である限り、いつかは対峙する機会もあるだろう。火急の問題は、アーマンドの銃を手中に収めることだった。



 今回の張り込みはここまでだ。午後から主立った顔触れは〈青狼屋〉へ参集するように下命されている。ブリジットは見切りをつけて〈青狼屋〉に向かうことにした。顔見知りとなった小汚い野良犬が見上げているのに対し、瞥見をくれて別れを告げる。

 路地を抜けて大通りに出ると、ブリジットは人頭が構成する流れに乗った。短時間で〈青狼屋〉に至り、暖簾(のれん)をくぐって本拠である居酒屋に入った。

「ああ、ブリジットも来たかい。これで全員揃ったね」

 ブリジットを出迎えたのは、マイノングの穏やかな声音だった。店内を見渡すと、アーマンドとアウルス夫妻の顔を認められる。

 アーマンドは一番奥の端にある食卓を独占して酒を飲んでおり、アウルス夫妻は反対側の座敷に腰かけて茶碗の湯気を見つめている。合わせ鏡のように代わり映えのしない表情を薄気味悪く思い、ブリジットは目線を外した。



「よう。この前はご苦労だったな。こっちで一杯飲まないか」

 瞳の焦点を交差させたアーマンドの誘いに応じ、ブリジットは彼の向かいに座った。

「アーマンドに先を越されてしまいましたが、皆さんの先日の働きには感謝していますよ。これは報酬です。受けとってもらいましょう」

 そう言ってマイノングはブリジットに札束を差し出した。それに手を伸ばすのを躊躇う彼女に、マイノングがそつなく声をかけた。

「これは、あなたの分です。他の人にはもう渡してありますから、遠慮なさらず」

「……そう。ありがたく頂くわ、元締め」

「今日集まってもらったのは謝礼を払うためでしたが、ついでにその後の話でも皆さんの耳に入れておきましょうかねえ」

 マイノングは一人だけ立ったまま語る。



「まず〈四宝組〉の思い上がりどもは組を畳みました。組長以下のほとんどが死んだのですから、当然でしょう。調べてみて分かりましたが、〈四宝組〉は上位の組織に指示されて〈青狼屋〉の縄張りを狙ったようです。そちらについては、おいおい私が対処しましょう」

 アーマンドは静かに酒杯を口に運んでいる。杯に満たされているのは透明な液体で、それは彼が好む芋を蒸留した焼酎だった。彼はその酒に氷を浮かべただけで飲んでいる。香りがきつくてブリジットは焼酎を好きではないものの、アーマンドに注がれては断れない。仕方なく水で割って彼女は口に含んでいた。

「警察については掣肘を加えておきました。捜査の手は皆さんまでは伸びないでしょう。必要であれば若い連中を何人か差し出せば済みます。警察が求めるのは真犯人ではなく、検挙率ですからね。それに、警察も他の事件で忙しいようですし」

 一瞬、マイノングの瞳が閃いてブリジットを捉えた。マイノングの眼差しに込められた光はすぐ収められていたが、彼女は胸中に不穏な思いを生んだ。

「私の話はこれだけです。酒の振る舞いは幾らでもできますんで、皆さん、ごゆっくり」

 そう言い残すと、マイノングは板場に入っていった。



「好きに遊んで報酬をもらい、後始末を任せられるとは、元締めには感謝しないとな」

「え、ええ。そうね」

 ブリジットは慌てて頷いた。不安に沈みがちな目線を意識して持ち上げる。

「そういえばブリジット、あのときお前もあの女を見ただろう。どうだった」

「あの戦科識使の女?」

「ああ。〈カノーネの恋人〉という名で評判の女だ。警察の介入で殺しそびれたが、それがなくても生かしておいたかもしれん。傷つく人間が減るという理由で、警察の応援を遅らせていたようでな。健気なものだ」

「何よ、それ。甘すぎて反吐が出るわ。次会ったら、その戯言を垂れ流す口に拳を突っ込んで臓物を引きずり出してやる」

 自然と彼女の口唇から熱された憎悪が湧いて出る。その熱源は、彼女があの女から被った痛撃だ。その怒りは沈静化することなく、精神の地下で煮え滾っている。



「お前も怖いことを言う。だが、その甘すぎるってのが可愛いもんでな。気丈なお嬢ちゃんで、弱音を吐くことはなかったが、ぜひともあの娘の泣き顔を拝みたいものだ」

 アーマンドは指で銃を撃つ仕草をした。標的にヒメルを見出しているのだろう。

「いや。お前みたいな勝気な女も捨てたもんじゃないんだ……、おっと酔いすぎたかな。俺の向ける銃口は、相手を選ぶんだ。気にするな」

「……分かってるわ」

「そうだ。もう一つ、面白い話題がある。さっき元締めが言っていた、警察を忙しくさせている事件のことを知っているか」

「いえ、聞かせてちょうだい」



「ここ最近、同一犯らしい連続殺人が起こっているようだな。ちょうど今朝に新たな死体が発見されたのだと。それが警察官だというんで、警察は血眼になって犯人を捜している」

「そうなの。この街じゃ、ありきたりな事件だと思うけど……」

 ブリジットが自分で口にして気づく。アーマンドの拳銃を盗んだ人物が存在し、銃による犯罪が起きている。その両者が同一人物である可能性は皆無ではない。

 そして、この街では戦科識使が絡む凶悪な犯罪に事欠かないことを知っていながら、ありふれた事件にアーマンドが言及したことが、ブリジットに直感させた。

 この男、自分の失態を知っていやがる! しかも、アーマンドが事実を把握しているとすれば、マイノングがそれを共有していないはずがない。



 その考えは無形の銃弾となってブリジットの心臓に撃ちこまれた。彼女の表情の変化をアーマンドが楽しむように眺める。酒杯を乾した彼は、ブリジットを置いて席を立った。

「さて、いつまでも元締めの奢りに与るわけにもいかないし、店を変えて飲み直すか。元締め! 馳走になった、俺は帰るよ」

 奥にいるマイノングに叫ぶと、アーマンドは店を出ていった。遅れて顔を出したマイノングが出口を見やり、その目をブリジットに転じた。

「ああ、行ってしまいましたか。ブリジットは、これから予定がおありで?」

「いえ、……あ、いや、寄るところがあってね。私も、そろそろ帰らせてもらうわ」

 動揺を隠すのに失敗しながら、ブリジットは倉皇としてマイノングに背を向ける。



「そうですかい。アーマンドが何か余計なことを言ってませんでしたか」

 背中に放たれた言葉は素気ないものだったが、彼女にとっては尋問に近く感じられる。肩越しに半面だけを振り向かせたブリジットが、ようやく声を押し出した。

「ただの世間話よ」

 足早にブリジットは〈青狼屋〉を後にする。振り返るまで気づかなかったが、いつの間にかアウルス夫妻も姿を消していた。冷え切って湯気の立たない茶碗だけが残されていたのを、彼女は視界の隅に捉えていた。



 急いで〈青狼屋〉を遠ざかりながら、ブリジットは懸命に思考を巡らせる。

 どうやらマイノング以下の〈青狼屋〉の面子には、ブリジットの過失が露見しているようである。その理由は、アーマンドの銃を盗んだ男がなぜかそれを利用して殺人を繰り返しているというのだ。

 改めてあの男に殺意が湧出する。何を考えているか分からないが、あの男のせいで彼女に窮状がもたらされているのだった。

 ブリジットがひた隠しにしていた秘密が発覚した以上、彼女の生命が狙われるのは目に見えている。帰宅した彼女を銃口が出迎えるだろう。その刺客はアーマンドに違いない。もう二度と自宅に戻ることはできそうになかった。



 なぜアーマンドがブリジットの秘密を握っていることを仄めかしたのかは疑問だが、彼女の推察ではただの酔狂だろうと思われた。ブリジットの反応を見て喜ぶためだけが目的であり、その他は彼の眼中にないのだろう。

 とにかく行方を眩ますことが先決であると判じ、ブリジットは尾行がないか背後を確認してみる。道路には多数の通行人がいたが、〈青狼屋〉の構成員らしき人影はなかった。その代わりに、見慣れた存在を黄金色の瞳が映した。

 それはブリジットが見張りのために通う路地で、数日前から出くわすようになった野良犬であった。そのとき、ブリジットの脳裏にアウルス夫妻の笑みが浮かぶ。

 監視されていた。ブリジットはそう結論せざるをえなかった。あの野良犬が彼女を慕ってついてくるなどという楽観的な見方を、さすがに彼女も信じるわけにはいかない。



 素早く人通りの少ない路地裏を見繕うと、ブリジットはそこに入った。彼女と距離を置いて歩いていた犬も、ブリジットを追ってその小路に折れる。

 その直後、犬の悲鳴が大通りにまで届いた。人々は驚いて無害な目線を路地に注いだが、足を止めるとこなく、その場を通り過ぎる。

 間を置いてブリジットが再び大通りに混ざった。野良犬がそれに続くことはない。

 銃を盗んだあの男やヒメルに復讐する余裕をブリジットは失っていた。まずは自身が生き延びることを優先しなければならない。

 この不当な運命、そうブリジット本人が感じる現状に、彼女の怨嗟と怒りは激発しかねない雰囲気を漂わせていた。

「ちくしょう、何でこの私が……!」

 その呟きは、それを発した自分以外に聞かれることはなかった。

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