第18話 ぼくの銃と殺人者
ぼくが現場に到着したとき、その建物の周辺は警察の立ち入り禁止区域にされていた。制服警官が物見高い野次馬の群れを押し留め、当局のみが立ち入ることを許された区域には幾つもの車両の隙間を警官が行き交っていた。
この街が治安の悪さで有名とはいえ、犯罪の多発する地域とそうでない地域とは明確に区分されている。この区画は盛り場ではあっても、比較的安全な地域と認識される場所だ。そのため暴力団同士の争いで殺し合いが起きるのは珍しく、見物客が集まるのは仕方がない。その抗争の舞台が、あの建物というわけだ。
ぼくは騒ぎの噂を聞き、迷わず直行してきたのだ。今もあの銃はぼくの懐に収められている。何人かのゴミどもを駆除したことが自信となって、ぼくは大胆になっていた。
「すいません。通してください」
ぼくは野次馬の壁をかき分けて最前列に出た。厳めしい表情をした警官が手を広げて、ぼくがそれ以上侵入するのを妨げる。
「すいません。何があったんですか?」
「いいから。あなたも下がって。ここは危険ですから」
「何があったんですか」
「危険だから。下がって!」
言い方は丁寧だが、その声音は横柄さを感じさせた。その警官はぼくを突き飛ばすように後退させると、他の人間も押しやった。ぼくは不快になって群衆の後ろに退く。
何ということだ。あれがぼくの憧れた警官の本来の姿なのだろうか。権威を笠に着て市民をないがしろにするなんて。何があったか教えるくらい、いいじゃないか。
「お兄ちゃん、どうかしたのか」
横から声をかけられて、ぼくはそちらを向いた。太った中年の男がぼくを見ている。
「あ、すいません。事件のことを聞きたくて」
「ああ、そうだろうね。こんなことは珍しい」
「知っているんですか」
「まあね。俺は向かいの酒屋で働いているんだ。だいたいの成り行きは分かる」
ぼくが事件について尋ねると、男はお喋り好きなのか気軽に話しだした。
「何でも暴力団の組長が誘拐されて、あの建物に監禁されているらしい。誘拐したのは地元の有名な香具師、〈青狼屋〉マイノングの一味だって話だ。そうは言っても確証はないんだが、その組織同士が対立していたのは間違いない」
男は一度口を開くと猛烈な勢いで舌を回す。
「だいぶ前に、暴力団みたいな奴らが二十人か、もっといたかな、あの建物に突っ込んでいった。そいつらがどうなったかは分からない。だけど、あれが見えるかい」
男が指で示す先は建物だった。よく見ると、壁面の一部だけに赤黒い染みが広がっている。その周辺も円を描くような広範囲に赤い飛沫が散っているようだ。幾つかの警察車両には粘着的な赤い液体が塗りたくられている。そのうちの一台の横で無線にでも話しかけているのか、興奮した様子の刑事が声高に見えない誰かと会話している。
「あれ、血ですか」
「そうだ。女が一人だけ正面から乗り込んで、少し経ってから照明が点いたんだ。それまでは暗かったのに。そのすぐ後だ。驚いたよ、三階の窓から狼が飛び出してきたんだ。しかも、それが空中で爆発しやがったのさ。血の雨って、ああいうのを言ううんだろうなあ」
「そ、それで、どうなったんですか」
「誰かが命令して、今度は警察が玄関と屋上から突入したんだけど、また静かになったね。……ああ、もう店に戻らないとな。じゃあ、君も見物はほどほどにな」
男が立ち去る後ろ姿に礼を言って、ぼくは正面の建物に目を向けた。
何て凄いことが起きていたのだろう。この場に居合わせることができて幸運だった。ぼくはこの事件を最後まで見届けようと決めていた。
その決心から数秒もせずに、野次馬の呼気がどよめきとなって大気を揺るがせる。
突然、窓から巨大な影が飛び出してきたのだ。警察が用意した照明にその姿を現したのは、体長が五メートルはあるだろう巨体を誇る狼だった。狼は車両の上に着地し、車両の天井を陥没させながら体勢を整えている。
再度、狼が跳躍した。遥か遠方まで一足飛びした狼を追って、警官が車に乗り込み車体を急発進させる。一瞬の間に狼は見えないほど遠くまで駆け去っていた。車であの猛獣に追いつけるのか疑問だが、警察車両は前方に注意を呼びかけつつ追走に向かう。
ぼくを含めた野次馬の大半が狼の行方に目を奪われていた。そのために背後の発砲音が耳朶を叩いたとき、人々は申し合わせたように悲鳴を発して地へ伏せた。
「アーマンドだ! 逃がすな!」
「逃げ道を塞げ!」
警察の勇ましい声が飛び交うも、射撃音を境にして彼らが発するのは絶叫に塗り変えられる。厚い防弾着を纏った警官隊の脚部から鮮血が噴き出し、彼らはのたうち回った。
その人物は瞬く間に十人以上の警官を平伏させると、水面に浮かぶ小島を跳び渡るように車両から車両へと飛び移った。その方向はぼくを目指している。
人波が綺麗に割れて彼に道を譲った。唯一、逃げ遅れたぼくがその男の進路を阻害し、地面に着地した男の肩に触れたぼくは後ろに倒れた。
尻餅を着いて見上げるぼくを、闇にも鮮やかな橙色の頭髪をした男が無感動に見返している。男は、ぼくがぶつかったことに怒りを感じていないようだった。だが、理由がなくても気紛れで銃を撃ちそうな不安定さというか、予断を許さない雰囲気が彼にはあった。
見られるだけで銃口を向けられているような圧迫を覚える目。その下の黒子が微妙に動く。その表情は嘲笑だったのだろうか。
「悪かったな、兄ちゃん。……忠告するが、
そう言って、男は建物が落とす深い影のなかに身を投じる。その背が闇に溶け込んだとき、警官がぼくには目もくれずに男を追って目の前を走り去った。
もう一人、建物から出現した存在が別方向に逃げたようだった。さすがに危険を感じた野次馬が蜘蛛の子を散らすように逃走すると、ここにはぼくのみが残された。
ぼくは胸が高鳴るのを感じていた。恐らくは生粋の殺人者であるあの男に、ぼくは声をかけられたのだ。ぼくの特別な何かを、あの男が感じたからに他ならない。
やがて喧騒は静まり、救急車が何台も駆けつけた。救急車に運び込まれるのは、いずれも警察官である。あれだけ人数を揃えておいて、結局は誰も逮捕することができず、傷ついて搬送されるだけの無能な奴らだった。
そのなかに全身を傷だらけにした女がいた。男が言っていた、一人で建物に乗り込んだ女だろう。その女が担架で救急車に乗せられると、先ほどの刑事が部下を急かす。
「それも救急車に乗せろ」
警官が二人がかりで運んでいるのは、規格外の大きさを有するカノーネだ。汎用語で言えばバズーカという兵器である。
「済まないが、この女性の大切なものなんだ。無理でも、一緒に連れて行ってもらう」
刑事はなぜかカノーネに頷くような仕草を見せると、車両に乗って救急車の後を追った。
ぼくはその場を離れる。大通りに出ると、先ほどの騒ぎなどなかったかのように、行き交う酔客が締まりのない笑みを浮かべていた。
今夜目の当たりにした出来事の興奮が、まだぼくの精神を高揚させている。実際に戦科識使を見ただけでなく、警察を一蹴するほどの強者であるあの男に声までかけられたのである。ぼくの人生で初めての経験だった。
だが、もう一つぼくの心に残ったのは、警察への信頼感の喪失だった。
あの警官のぼくへの対応や、数名の犯罪者によって蹴散らされたあの醜態は目に余るものがある。かつてのぼくが夢見ていた警官とは、あんなものではなかったはずだ。
ぼくは体格が警察の採用基準に達していなかったため、その道を諦めるしかなかった。しかし、警察として採用された奴らは、所詮あの程度のものだったのだ。
このぼくを除外して、あの役立たずどもを採用する基準とは一体何なのだろう。ぼくはこれまで街中のゴミどもを何人も掃除してきた。
ぼくは、強くて賢いのだ。あいつらに劣っている点は、体格以外にありえない。生まれ持った体質だけで物事を規定されるとは、何と不平等なことなのか。
その警察に対する疑念が頂点に達したとき、ぼくにある考えが浮かぶ。お偉い警察がどれほどのものか、その実力を確かめてやろう。どうせ無能の集まりだ。大したことない。
あの男は言った。これがぼくの度量を試すものである、と。
ぼくは決意を胸に秘めて、家路を辿った。
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