第11話 平穏な日、嵐の前兆
翌朝、ヒメルは目覚めると自宅で読書することに時間を費やした。
研究所時代の彼女は、よく所内に設けられた図書館で余暇を過ごしていた。外出は規制され他の娯楽もなかったので、自然とヒメルの暇潰しはそうなった。読書と言っても、彼女が好むのは児童書や童話である。二十歳を過ぎても、その嗜好は変わっていない。
ヒメルが十代後半の頃、いつだったか彼女が児童書を手にしているのを見て、ミノワ博士が不思議そうに問いかけたことがある。
「ヒメルは児童書と童話しか読まないけれど、なぜなんだい?」
博士はヒメルのよき理解者であったが、知識人の彼はヒメルが読書好きであっても特定の分野の書物しか読まないことを、ついに理解することはなかった。
博士にとって読書は知識を得るための手段であり、より高度な知識を求めるのに相応しい書物へヒメルが手を伸ばさないことを疑念に思ったのだ。
「読んでて楽しいからなんだけど、やっぱりおかしいかな」
ヒメルはやや不安そうに問い返す。
慌てて博士が否定の声を上げると、珍しくゲアハルトがヒメルに肯定的な意見を発した。
「まあ、身の丈に合ったものを選んでいるのだから、気にすることはないさ。むしろヒメルが哲学なんかに目覚めた方が、おっかないしな」
やけに説得力のある一言であった。
このような経緯もあって、今でもヒメルは好きな本を読み続けている。ゲアハルトが軽口を封じるのは、彼女の就寝中の他には、このときだけである。
夕食後にヒメルは外出した。その爪先はシャルロッテの酒場に向いている。ヒメルは数日に一度の頻度であの酒場に入り浸っていて、覚えたばかりの酒の味を楽しむヒメルにゲアハルトは危惧を禁じえない。
勿論、十年間も研究所という閉鎖された空間で生活し、行動範囲の全てに顔見知りが存在するのが当然だったヒメルが、未だこの都会に慣れず寂しさを紛らわせたいのだろうということは知っている。
ヒメルの寂寞を、ゲアハルト一人では埋められないのも事実だ。だからこそ、彼はヒメルの気を紛らわせる努力を惜しまない。すれ違った巨体を契機にして、ゲアハルトが声を上げる。
「見たか、あれ。光の
「そう言えば、そうね。個体数が減っているから、領域外には滅多に出てこないとか博士に聞いた覚えがあるわ」
ヒメルは背後を振り仰ぎながら応える。その瞳に映るのは、優に三から四メートルはある巨人三体の姿だった。
「あれが個体最強の知性種だ。高等な無機生命体で人類とは生命の常識で一線を画する」
ゲアハルトは説明を続ける。
光の民は、単体での能力や寿命では間違いなく全知性種で至高の種類だが、生殖能力が極端に低いのとサンディ=ノネという知性種との戦争で圧倒的な敗戦を喫したため、個体数が激減して最近では領域外には好んで出現したがらない。あの三体は、帝国に派遣された大使館に所属する存在なのだろう。
あれらの本体は、鉱物のような透明の色彩と硬度を所有し、巨大な人型の宝石のように見えるらしい。人前に姿を見せるときは〈識〉で人間に化けるが、大きい方が偉大であるという固有の価値観によって、巨人でしかも美男美女に姿を変える。
「性格は揃って誇り高く、公明正大だそうだ。個性に乏しい連中だが、向こうも人間なんか愚昧な種族だと思っているだろう」
光の民の威容に圧倒された人々が道を空けるのを当然のように歩むさまは、確かに尊大さを感じさせる。ヒメルは納得して首を振った。
「鼻持ちならないってのは、分かるわ。私の近くにもそういう奴がいるから」
「言ってくれるな。こっちが親切に教えているというのに」
「誰もあなたのことだって言ってないでしょう」
ゲアハルトが呆気にとられて言葉を飲み込んだ。ようやく押し出した声は苦々しい。
「……お前も本当に言うようになったな。シャルロッテの影響か?」
それから間もなくして、ヒメルは酒場の扉を開いた。
「いらっしゃい。あら、ヒメル」
接客をしていたシャルロッテがいつもの微笑を浮かべる。
この店が満席になることは少ない。この日もヒメルの他にはカウンターに三人の男がいるだけだ。大抵の客はシャルロッテを目当てにしているし、彼女が静寂を好むことも心得ているので行儀よく酒を飲む。
ヒメルは男達から離れた奥のカウンター席に腰を下ろした。男達はヒメルが背負うカノーネに気づいたはずだが、素知らぬふりをしている。
「いつものお願い」
ヒメルが言う。その前からシャルロッテは準備にとりかかっていて、すぐさま酒杯が差し出された。
「どうぞ。あの話は、まだ連絡が来ていないみたいね」
シャルロッテが口にしたのは、無論のことながらデダラスの依頼についてだ。
「ありがと。連絡はないけどね、私の出番がない方がいいに決まってるわ」
ヒメルが琥珀色の液体を口に含む。
「そうね。無益な争いなんて起きない方がいいもの。でも、今夜は騒がしくなりそうよ」
「どうして」
「ちょっとした事件があったのよ。〈
ヒメルはその意味が理解できずに小首を傾げる。
「この前デダラスが〈青狼屋〉のことを話したでしょう。その〈青狼屋〉の縄張りを狙っていた新参者が〈四宝組〉よ」
「それって〈青狼屋〉が動き出したってこと?」
「詳しくは分からないけれど」
シャルロッテは曖昧に答えるが、その一件と〈青狼屋〉が無関係と考えるのは難しい。
『ねえ、詳細を調べてみてよ』
ヒメルは他の客を憚って通信でゲアハルトに言った。
『その必要はないだろう。何かしら動きがあれば、デダラスが連絡してくる。お前は、心の準備をしておくだけで充分だ』
その消極的な態度に不承ながらも、ヒメルは酒とともに反論を喉に流し込んだ。
ヒメルとゲアハルトが無線で会話していたのを察していたのだろう。それまでヒメルの様子を見ていたシャルロッテが口を開く。
「細かいことはゲアハルトやデダラスに任せて、あなたは自分の役割に専念しなさい」
「うん。分かってる」
ゲアハルトは沈黙したままだった。
酒杯を干したヒメルがシャルロッテを呼んだ。
「おかわりちょうだい」
『ヒメル、おかわりは次にしとけ』
訝しげにヒメルがゲアハルトを見やった。
『今、デダラスから応援の要請が来た』
その途端にヒメルが全身に緊張を漲らせる。
「ごめん。私の出番だって。お代はまた今度にして」
ヒメルが慌ただしく立ち上がり、カノーネを手にすると扉に駆け出した。
酒杯を受けとったシャルロッテが小さく手を振って彼女を送り出し、席を温める間もなく酒場を出ていったヒメルの背に男達の奇異の視線が注がれていた。
屋外に出たヒメルはゲアハルトの指示に従って走る。引き締まったヒメルの面に酔いは微塵もない。
「そこの角を曲がって大通りに出るんだ。デダラスが迎えに来るってよ」
ヒメルが細道から大通りに出ると、早くも遠くから警察車両の鳴らす警報が響いていた。
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