第10話 カノーネは人間だった頃の夢を見る

 ゲアハルトは夢を視ていた。

 肉体から乖離しカノーネに人格を転移した自分でも、睡眠のように意識の途切れる時間があり、その間に夢を見るというのは、ひどく滑稽なことだと彼自身は思う。

 昔の彼は人間だった。自分の容姿は長らく目にしていないため、ほとんど記憶の自己像は風化してしまっている。

 まあ、忘れたが、男前だったに決まっている。これがゲアハルトの口癖でもあった。



 夢は、まだ人間だった当時のものだ。ゲアハルトは白塗りの清潔そうな通路を歩いている。光源は照明のみで窓はない。行き交う人々はみんな白衣を身にまとっていた。

 ここは彼の勤務していた研究所だった。軍用の特殊技術を研究するために設立された軍務省管轄の施設である。人権を無視した非合法な実験や、外交上で問題となるような危険視される研究を行っていたため、表向きは単なる科学研究所と銘打っていた。

 ゲアハルトは研究所の警備員であった。外部からの侵入者及び内部の被検体を見張る役目を担う。研究所では強大な能力を有する被検体を多数保管しているので、それらの暴走に備えて戦科識使を配置しているのである。

 国家の機密に携わるため、警備の人選は厳密に行われる。ローゼッタ本国出身であり、信頼の置ける経歴を有する者のみが採用された。ゲアハルトはその審査を通過し、尚且つ戦科識使としての高い技量が認められた。



 ゲアハルトが歩いているのは研究所の地下にある被検体の居住区だった。被検体は拘束されているわけではなく、研究所内ならば一定の範囲を移動して図書館や運動場など設置された施設を利用することを許されている。

 通路では顔馴染の被検体や所員が通り過ぎ、彼に挨拶をする者もいた。ゲアハルトは相手に声をかけられると、自身は言葉を発することなく黙って頷き返している。

 ふと、横道から出てきた白衣の女がゲアハルトに話しかけてきた。彼と親しく、よく話をしていた女だった。研究しか頭になく身だしなみには無頓着な女で、長いというより伸ばしっ放しの黒髪と厚い眼鏡が印象的だ。磨けば光るだろうにと、彼は内心で思っている。

 名前は、何だったっけ。



「——、ご苦労様。異常はない?」

 女はその当時の彼の名前を呼んだようだったが、その部分は記憶から抜け落ちていた。

「ああ、別に。異常なんて起こったためしもない」

 ゲアハルトは立ち止まって素気なく言った。

「お前こそ研究は捗っているのか。新しい研究を始めると聞いたがな」

「まだ計画を練っている段階よ。でも、これから面白くなるわ」

「どうせ、ろくなもんじゃないだろう」

 彼がそう言うと、女が握り拳を作って反論する。

「そんなことないわ! 今回の計画が成功すれば、誰だって才能に関係なく高度な〈識〉を操ることができるようになるのよ。人類にとって大きな貢献を……!」

 ゲアハルトは熱弁する彼女の声を聞き流しながら、やれやれと頭を掻いた。彼女にとっての『人類』とは、ローゼッタ帝国それも本国のみを指している。これは帝国内における本国人の選民意識が成せる通弊だが、彼が指摘したのは別なことだった。



「おい、いいのか? その紙」

「は?」

 息を荒くしていた女が、ゲアハルトが指で示した己の手に目を向ける。女が力強く握った手には、それまで読んでいたと思しい資料があったのだ。それは今や興奮がもたらした握力により、くしゃくしゃとなっている。

「あぁー……」

 女は一転して情けない声を出すと、急いで紙片の皺を伸ばそうとしている。心なしか頬が赤く染まっている。

「どれだけ頭のできがよろしくても、そんな失敗をするうちは半人前だろうな」

「うるさいわね。私にだってこれから部下ができるのよ。ジョー・ミノワっていう新米でね、結構使えそうだから実験に参加させることにしたの。とりあえずは新しく入った被検体の学習を任せているけど」

 この女は飛び級を重ねて二十歳で大学院を卒業し、鳴り物入りで研究所に配属された秀才だ。確か、現在はゲアハルトより一つ年下の二一歳だった。その年で部下を持つのだから、いい身分ではある。



「そりゃ、めでたいな」

「ありがと。そういえば、新規の研究にはミノワが世話しているその被検体が関係するのよ。無意識に〈識〉を発動する特異体質の子でね。あの子が〈識〉を自動発動する要因、遺伝子によるのかそれ以外に起因する要素が存在するのか。先験的に有する何か、それを解明すれば世紀の大発見になるわ」

「……よく分からんが、頑張ってくれ」

「それと並行して、〈二分にぶん理論〉の開発も進められるわ。これは人権の問題があって、上層部が認可を渋っていたんだけど、ようやく許可が下りたの。理論の完成を待って手頃な被検体も探さないと。さてと忙しくなるわよー」

 女が楽しげに目を細めた。ゲアハルトが呆れて、また皮肉な一言を呟こうとしたとき、背後で人が走ってくる気配があった。



 ゲアハルトは余裕を持って避けたつもりだったが、その太ももに強烈な衝撃が加わってゲアハルトは姿勢を崩す。その意外な痛みと、戦科識使として不覚をとった怒りがない交ぜになって、彼は険悪な視線をその存在に刺した。

「誰だッ!」

「あ、ごめんなさーい」

 ゲアハルトに不用意な一撃を加えた存在は、ゲアハルトの誰何すいかに応じて振り向いた。その姿は思ったより小柄である。

 黒髪を項で束ねた黒い瞳の少女だった。年齢は十歳かそこらに見える。背中に長大な円筒形の物質を背負っていて、それが彼の脚に直撃したようだ。

 少女は丸い瞳を不安げに見開いていた。

「大丈夫ですか。……もしかして、怒ってる?」

 相手が予想外に年少だったこともあり、ゲアハルトは憤りを喉の奥に引っ込める。

「……いや。これからは気をつけろよ。もう行っていい」

 少女は安心したように息を吐くと、一度だけ会釈してまた走り出し、通路の奥に消えた。



「何だ、あのガキは?」

 ゲアハルトの問いに、女が答える。その声音には微笑の粒子が混ざっていた。

「ほら、今話していた被検体の女の子よ。特異体質の」

 そう言われて、彼は思い当たった。普通の少女が、あの巨大な重砲カノーネを背負って自在に行動できるはずがない。

「どういうことだ?」

「だから先天的に〈識〉の生体強化の能力を発現しているのよ。本人は意識しないでね。彼女は〈識〉の原理を知らずに能力を自動発動させている。言わば、生まれながらの力持ちさん、ということになるわ」

 女の双眸に光が増していることにゲアハルトは気づいた。

「名前は?」

「え? ええ、ヒメルちゃんよ。可愛い名前ね」

「ヒメル……」

 ゲアハルトは、あの少女の将来に用意された苦難を想像し、憐れみを込めて呟いた。



 そのとき夢の情景が乱れる。

 時系列に関係なくゲアハルトの記憶が連続する写真のように入れ替わった。様々な光景を経て、最後に残ったのは星空を見上げている映像だった。

「寒い……」

 記憶のなかのゲアハルトは、壁に寄りかかって細い息を吐きながら、そう呟いた。

 深夜ではあるものの、その夜気は肌に冷たいほどではない。寒いのは彼の体温が低下しているためだった。胸を探ると濡れた感触がある。指が根元まで入る傷口は完全な致命傷だった。もはや〈識〉の治療を施しても手遅れだろう。

 衣服は鮮血を吸って重く身体に纏わりつき、彼が腰を下ろしている石畳に広がるのは濃い血溜まりだ。かなりの時間が経過しているようで、路面に染みた血はこびりついて粘着質になっていた。

 肉体は生命の熱を失い、精神は冥途に向かう道を着々と歩みつつある状態でも、ゲアハルトに悔悟や恐怖はなかった。従容と死を受け入れられているのは、苦痛を感じなくなったせいもあるが、一つ満足な成果を出せたからかもしれない。



 深手を負うという不覚をとりながらも、ゲアハルトは少女を逃がすことができた。敵は少女の命に未練はないのか、とうに姿を消している。これで彼に心残りはない。

 ゲアハルトは目を閉じて、来たるべき瞬間を待った。

 不意に、頬に温かみを感じた彼は目蓋を上げる。

「大丈夫?」

 そこで見出したのは、カノーネを背負った少女の姿だった。見慣れた顔をゲアハルトに寄せて、両手で彼の頬を包んでいる。まるで自身の体温でゲアハルトの熱を戻そうとするかのような行為だ。その双眸は潤んでいる。

「ヒメル……か。逃げろと、言っただろう」

「ごめんなさい。心配だったから」

 研究所で目にしたよりもヒメルは成長していて、記憶には時間の隔たりがあった。

「怒ってる?」

「怒っては……いない。だから、もう行け」

「急いで研究所に連れて帰るから」



 ゲアハルトは口を開くのにも苦労するようになってきた。

「無理だ。俺がたない。その上、子女に背負われたまま死んだら、いい恥だ」

 そう言ってゲアハルトは黙った。頑なな拒絶を感じとったのだろう。ヒメルはそっと手を離して立ち上がった。

「さよなら」

 湿り気を帯びた声音を漏らすと、ヒメルは走り去った。

 ゲアハルトの瞳がその背を映すことはなかった。目を見開いていても、彼に見えるのは暗闇のみとなっている。

 彼は眠りに就くように全身の力を抜いた。ヒメルの掌の感触が温もりとなって頬に宿っている。いつしか感覚が消失しても、その温もりだけは忘れることはないように思えた。



 ゲアハルトは夢から覚めた。

 今の彼の意識はカノーネにある。ゲアハルトの本体であるカノーネは、ヒメルの部屋の定位置である寝台の横に立てかけられていた。

 ヒメルはすぐ横の寝台で静かな寝息を立てている。

 窓から差し込む月光が、室内の陰影を淡く浮き立たせている。数少ない家具の影が床と壁面に伸び、唯一動いているのは呼吸するヒメルの胸だけであった。

 夢の内容は、ゲアハルトの体験を正確になぞったものだった。ヒメルを最初に見た研究所のこと、そしてヒメルを目にした最後の場面もだ。



 彼は一度死んだはずの存在だった。

 だが、肉体は死してもその精神は生き永らえさせられている。ゲアハルトの人格はこのカノーネに移され、ヒメルの相棒兼武器として生き続けることとなった。

 どんな方法で人格を物体に移したのか、彼はよく知らない。

 死んだと思われた意識が回復したとき、すでに彼はこの姿になっていた。研究所の実験室で大仰な機器を背にし、あの眼鏡の女が立っていた。

 彼女の説明によると、ゲアハルトの死体が所員の手によって運び込まれ、彼女が指揮を執って処置したという。十名に及ぶ解析官と技官がゲアハルトの人格を情報化し、カノーネの演算装置に転送した。演算装置の造りは光の民の脳を研究して開発されたとか、演算装置なら人間の人格くらい容易に収まるとか、専門的なことを説明された。

 ゲアハルトは女の声を聞き流すと、なぜ自分をあのまま死なせなかったのか問うた。



「私の独断よ。上には〈二分の個理論〉の実験体と言っておくわ。大丈夫、人格さえ残っていれば元通りの身体に戻れるのよ。肉体は、時間と費用があれば再生できるんだから」

 黙ったままのゲアハルトを不安そうに見つめ、女は言葉を繋げる。

「でも、実験と名目する以上は研究に協力してほしいの。どれだけの期間がいるか分からないけれど、ちゃんと肉体を用意する約束はするわ」

 余計なことを、とゲアハルトが口走った。女は傷ついたように表情を歪めて俯いた。

 その後、カノーネの使用者であるヒメルの相棒として、ゲアハルトも被検体の扱いを受けた。あの女は当初の研究に参加していたが、いつの間にか配置が替わってゲアハルトと顔を合わせることはなくなった。

 


 記憶を遡るのはそこまでにして、ゲアハルトは思考を現在に戻す。

 ヒメルは、あの男・・・とゲアハルトが同一人物だということは気づいていない。それどころか想像の射程外だろう。当時はヒメルに対して彼は違う名前で通していた。

 ゲアハルト自身の性格も変化している。夢での彼の言動は、かなり無愛想なものであった。しかし、カノーネとなった彼は軽口を好み、しばしばヒメルを辟易させてしまう。

 性格だけでなく、知人の名前を忘却したり記憶の不一致があったりと、人格を転送されたことを機にして幾つかの弊害が出ている。

 彼にしても、人間の精神を演算装置に転移させる実験など聞いたこともないので、初めての試みだったのだろう。何かの手落ちがあっても不思議ではない。

 


 肉体を喪失し、人格すら以前のものではないのだ。もはや自分が何者か分からない。そんなゲアハルトを、ゲアハルトとして扱ってくれるのは、ヒメルのみだった。

 そう思うと、決まってゲアハルトの頬は熱くなる・・・・・・

 事故などで四肢の一部を失った人物が、失った部分に痛痒の錯覚を感じることがあるらしい。自分の場合もそうだろうか。人間として最後に感じた温もりを錯覚しているのか。

 彼にとってはそんな疑問はどうでもいい。この温もりこそが彼の信じるものであり、これを与えてくれたのはヒメルだった。

 この温もりがあれば、ヒメルのためにただの武器として生き続けていくことができる。

「柄にもなく、感傷に浸ったな……」

 ゲアハルトは、わざわざ声に出して呟いた。それは彼なりの己への照れ隠しであった。

 彼の隣で眠るヒメルは、という表現だと語弊があるのだろうか。とにかく、ヒメルは寝相が悪くて年頃の女性としては、かなりはしたない姿態を晒していることが少なくない。

 この日も、例外ではなかった。その姿に苦笑を漏らし、ゲアハルトは朝を待つ。

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