第7話〈識〉

 ヒメルは当時を思い起こした。

——小さな会議室の一室。

 当時十歳ほどのヒメルは長方形の机の中央に陣取り、手前に教材を広げていた。ヒメルの向かいの壁は黒板になっていて、博士が図形や文字列を書き込んでいる。その博士の手にもヒメルと同じ教材があった。

「ええと、いいかい、ヒメル。〈識〉とは、世界を多層的に理解する三葉さんよう解釈を基盤にし、情報のみで成り立つ後背世界に干渉して現実世界に現象を発動する能力のことだ。三葉解釈により世界は三層に区分されている」



 博士は慣れない講釈に頬を赤くしていた。このときの博士は大学院を卒業したばかりの新米で、ヒメルの教育が仕事の一つであった。

「一層は物体で構成される表層の現象世界。人間が世界として認識しているのはこの領域だ。その反対に、実線の陽符ようふと破線の陰符いんふという二つの記号による二進法から構成される純粋な情報世界が存在し、これは人間には知覚されることがない。物質の世界に情報の後背世界が対置されているんだ。そして両者の中間に、人間が媒介である演算装置を通じて後背世界に干渉できる可変世界が位置づけられており、可変世界を経由しなければ人間は後背世界の情報を操作できない」



 長い説明にヒメルは暇を持て余している。その足はぶらぶらと揺らされていた。

「この三層の世界は三位一体を成している。現象世界の物質は、後背世界では二進法での情報の集積体として存在しており、情報にはそれに対応する実体がある。この関係性を利用し、情報世界に演算装置によって干渉し情報を書き加えることで、現象世界に任意の事象を発生させるのが〈識〉だ。簡単に言えば、無から有を生み出す能力ってことかな」

 そう言いながら、自分で納得するように博士は頷く。

「なお、それは物体のみでなく、力学的な操作も可能なんだ」

 そこで博士はヒメルの後ろの壁に立てかけてあるカノーネを指で示した。ヒメルも目を向けるが、その瞳は何の感情も抱いていない。ただの物体を見る目だった。

 このときのカノーネは、まだゲアハルトではなかった・・・・・・・・・・・・・



「その例として、そんなに大きいカノーネをヒメルが軽々と扱えるのは、自身の肉体に情報を加えて筋力や神経系を増強する〈識〉の生体強化によるものだ。まあ、君の場合は特殊なんだけれどね」

 博士は笑うと、今日はここまでにしよう、と言った。講義に飽きていたヒメルは、やっと解放された喜びから勢いよく立ち上がると、腕を上げて大きな伸びをした——。



「あの講義に君は退屈していたろう。僕の話はほとんど覚えていないんじゃないかい」

 その声にヒメルの追想は破られた。博士の指摘を笑って誤魔化して教材を戻す。

「だって難しかったんだもの。理屈なんか嫌いだわ」

「確かにヒメルは勉強なんて柄じゃないな。楽しそうに転げ回って遊んでいる方が似合う」

「それじゃ、まるで私が莫迦みたいじゃないのよ」

「まさか、そうじゃないと思っているのか」

 ゲアハルトの憎まれ口に、ヒメルの額に青筋が浮かぶ。

 博士は二人のやりとりに慣れているようで、慌てることなく間に割って入った。

「そう言ってやるなよ、ゲアハルト。当時の僕は右も左も分からない駆け出しだったんだ。僕の教え方も相当拙かったからね。今ならもっと親切に説明できたろうけど、あの頃は僕に余裕がなかった」

「博士は悪くないわ。飽きっぽい私を怒ったことなんてないし、丁寧に教えてくれたもの。博士ってば意外と先生なんかも向いているんじゃない」

「はは、そうかい。その道も考えておこうかな」



 博士が笑みを見せると、ヒメルは席を立った。

「もう帰るのかい」

「うん。仕事中だったんでしょう。邪魔したわね」

「そんなことないさ。この街に僕の友人なんか君達くらいしかいないから。いつでも顔を見せてくれよ」

 ヒメルは微笑むと、ややぞんざいにカノーネを担いだ。その扱いにゲアハルトが抗議するような咳払いをした。

 扉を開いて出ていきかけたヒメルが思い出したように振り向く。

「またカノーネの調整お願いね。これからはこれ・・が無駄口叩かないようにしてちょうだい」

 ヒメルが親指でカノーネを示すと、そこから悔しそうな呻き声が聞こえた。

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